見出し画像

プラモをやめた日

プラモばかり作ってる小学生だった。

お気に入りはガンダムとマクロス。お小遣いを貯めては商店街のオモチャ屋に買いに行く。お目当てのプラモのために自転車で駅二つ超えた町まで買い出しに行くこともしばしば。新作を仕入れるために、各店のプラモの入荷日まで把握していた。

元来の凝り性。片っ端から作った。
ガンダムはファーストに出てきたモビルスーツは全部作った。
どんどんと増える作品。最初は拙かったが、作品が増えるのに比例して上手くなる。ペイント技術もどんどんと上がっていく。小学生にしてはかなりの美品を仕上げていたと思う。小学3~5年の頃は勉強そっちのけで毎日制作に熱中していた。

そのあまりのプラモ熱に業を煮やした両親。
ある日、母にすべてのプラモ作品を処分すると宣言された。次の「燃えないゴミの日」に全部まとめて出すと。

当時、ウチの地域では燃えないゴミは近所の公園の一画に固めて置くことになっていた。当然、おもちゃ類なども出される。
その中にはまだ遊べるものもあったりして、子供たちは他の家から出る「燃えないゴミ」を漁ってお気に入りを持ち帰る、というのがよくあった。

そして。
どこから聞きつけたのか。
「木下のプラモが燃えないゴミに出るらしい」という噂が近所の子供達に走った。
この瞬間をずっと虎視淡々と狙っていた奴らがいた。
「次のゴミの日楽しみやわ〜」
わざわざ言いにくるヤツもいるほど。

ゴミに出せばそいつらに私の丹精込めた作品が拾われてしまう。
こればかりはどうしても許せなかった。
どれだけ母に訴えても「全プラモを捨てる」宣言は撤回されなかった。
今思えば本気で息子の作品を捨てるつもりではなかったのかもしれない。
ひょっとしたら捨てるフリで済まそうとしてたのかも。

でも当時の私は母が本気で捨てると思った。
悩みに悩んだ。捨てられることより何より。
「作品が他人の手に渡る」これが許せなかった。人の手に渡るくらいなら、いっそ。。

【 その日はきた 】

ゴミの日の前日。
私はダンボールいっぱいのプラモ作品を持ち出した。

そして。
暮れなずむ夕方。
プラモを1体むんずと掴み。
家の裏のブロック塀に向かう。
そのまま思いっきり振りかぶり。
ブロック塀に投げつけた。

ガッシャーーーーン!!

木っ端微塵に弾け飛ぶプラモ。
次の1体。
また次の1体。
泣きながらすべてのプラモを壁に向かって投げ続けた。

10分ほどですべてのプラモを壊しきった。
その騒音に気づいた母が駆けつけた時。
私はもう涙も枯れボー然とプラモの残骸の中に立っていた。それを見つけた母は絶句していた。

エピソード#2

そこからは実はよく覚えていない。
あれほどあったプラモ熱はつきものが落ちたようになくなった。
たくさん揃えていたカラーも筆も、ヤスリも。何もかもすべて捨てた。

それから私も大人になり、あの日から30年がたった頃。里帰り中。
母と晩酌をしている時にふとこの話を思い出した。

「あのプラモを泣きながら壊したのは今だに忘れられん」
「恨んではないけど、ほんまに全部捨てるつもりやったん?」

「そんなことあったっけ?」
「そいうや、急にプラモやめたねぇ」

ふぁっ!!!!!!!

親の記憶なんてこんなものである。
子供が死ぬほど大切にしていたものの価値をわかっていない。

両親には感謝している。
何不自由なく育ててもらった。

ただ1点。
創作の大切さだけはどうしても理解してもらえなかった。
1ヶ月かけて夏の風景写生を仕上げることも。テストそっちのけで曲を作ることも。
およそ創作活動は、すべて「無駄な時間」と認識されていた。
そんなことより勉強しなさい。
いつもこれだった。

作曲家になった今。
親は、私に芸術的素養を育むそんな子育てをした。そう自負を持ってる。

だが私は言いたい。
いや、ちゃうで。
私が勝手に育ったんやで、と。

ーーーーーーーーーーーーーー
illustration: のんち(@Nonchi_art

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?