大河ドラマ「義経」総括感想

*大いにネタバレしています。未見の方はご注意ください。

2005年に放送された大河ドラマ第44作、「義経」。
この物語は不都合が蔓延る世界に生きる人々を描いていました。

突然の出来事で大きく揺さぶられる自分の感情。
親や兄弟に対する不信感。
望まない別離。
信じていた姿や言葉、立場の裏切り。
過去の自分の決断に対する後悔。
守りたいものがあるが故の嘘や隠し事に対する苦しみ。
諦める気持ちや見返りのない/なかった献身。
伝えたい事・伝えるべき事・伝わるべき事が伝わることなく過ぎ行く時。
兄弟間の理解の不一致。
災害や病気、障害など何事にも関係なく訪れる不幸。

このようなものに翻弄される人々を見るとあなたはこう思うでしょう。
あの時命を取られたら、この苦しみはなかったのに。
あの時あの場にいなかったら、苦しむことはなく時が流れていったのに。
あの時ああいう風にならなかったら、あのショックはなかったのに。
なぜこのタイミングで、こんな事がおこってしまったのか…

 誰だって不都合は被りたくないものです。しかし不都合は殆どの場合回避できないし、生きている限り不都合はこれからも襲ってくる可能性があるものです。いや、回避できない/できなかったから「不都合」なのでしょう。
 それ故不都合を受けとった時の苦しみは当事者であればあるほど深刻なものになり、人間は孤独だと思い直す。傍から見ると軽く流してしまうようなことでも、当事者にとっては切実な問題を抱えている。同じ事、同じ時を共にしている中でも分かち合えないものがある。
 この物語の世界観はそんな前提を持っていました。

 このような世界で生きる力となったのが人との結びつき、すなわち絆でした。
 だけど場合によってはそれも不都合の中に飲み込まれてしまい、絆を信じたり守ろうとする一方で不都合が生まれてしまう。今ある絆・結束だって、自分の心の隅にある思いをほんの少しでも見せてしまうと、脆く崩れてしまうという不安の中に存在している。

 じゃあ絆って何なのか?
 何があれば絆を信じることができるのか?
 どのようにして絆が不都合に向き合う力となってくれるのか?

 そんな問いにぶつかった先で、本作は信頼だとか愛だとか血縁や主従関係を拾いつつ絆の本質を見せてくれました。
 概念を共有していれば、接点があればそこに絆があるのです。
 孤独な不都合に向き合う中で何か同じものを持っていたり経験していることは力になってくれる。それは当事者の間にそれまで信頼関係がなかったり長い時間を共に過ごしていない場合でも問題ないことなのです。このように不都合に対する絆の射程を拡げ、不都合な世界で生きる希望を見出したのが本作義経です。

 この物語を思い返すたびに、私は登場人物達の心情に共感を感じずにはいられません。それはこの物語が生きづらさと揺れ動く人の心を描いているからです。
 義経は清盛を父だと思っていましたが、本当の自分の出自は源氏であり清盛は父を討った仇でした。宗盛は宋の客人をもてなす席に出たことで、父にますます不信感を抱き新たに義経を憎む気持ちが生まれました。頼政が太刀を話題にしたことを発端に、髭切の太刀を通じ頼朝の脅威が平家にもたらされました。頼朝は目指す国造りのビジョンを自分から伝えたはずなのに、それとは外れた義経の振舞に悩みました。平家と源氏の攻勢を俯瞰で見ていた後白河法皇は、後に頼朝の脅威に震えました。
 命が助けられても、戦に勝利しても、都の安寧がもたらされても、消えないのが不都合という概念とそれに伴う孤独。この物語に登場するのは不都合に直面する人間達ばかりです。
 このことは別に義経を主人公にしなくとも描けることですが、このドラマは題材やそれに伴う時代背景のみならず、オリジナルの設定や展開でより強く私達に、不都合は絶えないのだと訴えていました。
 そのような中で繰り広げられる血縁、主従関係、恩、偶然の出会い、愛などの絆。それらとは少し異なる絆、それでも確かに信じられる絆を本作は示しました。
 序盤で提示された絆の在り方は相互承認を根拠にした信頼関係でした。
 でも、信頼関係がなくとも接点があれば絆はある。概念が共有できたら絆はある。この主張はこれまで生きてきた者に対して生きてきた意味を、これからも生きていく者に対して生きる意味を与えています。

 ここにたどり着くまでのストーリーラインを思い返す度に、私は生きる悲哀、生きてく悲哀を感じずにはいられません。でも、このドラマが提示した絆から励まされます。
 絆は不都合を不都合だと示すのを和らげてくれる。こんな自分であっても誰かにとっての大切な絆の当事者なのかもしれない。機会や勇気に恵まれないだけで自分にもきっと絆を切り開く力がある。生きていたからこそ出会える絆が、思わぬ未来で待っているのかもしれない。
 そんな風に思えてきて、生きていく力が湧いてくるのです。
 そして最後、主人公主従はその力を元に自分達の理想を叶えに行く。こちらとしては向かう先は悲劇だと分かっているのに、この主従は夢が叶わなくなっていくのではなく夢を叶えにいく途中にいるのだという心地さえしてくるのです。

 このドラマは勿論良い所ばかりではありません。
 私個人としては好きな作品ですが、1回1回のクオリティという点でもっと良い大河ドラマはありますし、歴史ものとしては物足りないと感じるのは否定できないと思います。
 ではどこで勝負したのか。それは絆に纏わる哲学とも言える考え方です。これを提示するがための「新しき国」であり、各種設定・展開でした。
 でも、どうテーマに向き合っているのかが分からなければただ話が流れて終わってしまいます。このドラマは義経が主人公=ぶっちゃけ平家物語、となるのを利用して絆について語り、不都合に向き合う人間の生きざまを描いています。
 しかし、このことがわからなければ1年使って30年程(実際はもっと短い期間)の物語がなんとなく流れていくだけのドラマになるリスクを伴っていた作品でもありました。でも、私はそのリスクを分かった上でドラマを製作した制作スタッフの志を実感しました。作品を俯瞰した時こそ、このドラマのメッセージが視聴者に響くのではないかと思ったのです。

 本作が放送された頃、世界は民族紛争、テロ、飢餓、難民など悲しみが絶えない時代でした。これらとほど遠い日本はどうかというと、個人単位での不都合は小さくとも勿論ある。今はVUCAとの言葉が使われていますが、
放送当時も先行きが不透明な時代でした。いつ核戦争になるかわからない危機の時代が終わり世界に平和が訪れたと思いきや争いは終わってない。世界の争いから遠く離れた私達であっても、何事もなく一生暮らしていけるという保障はどこにもない。
 いや、VUCAの時代とか放送当時とか関係なくいつだって不都合が襲い掛かってくるかもしれないのが世の中です。日々の暮らしの中で自覚は薄まってしまうけれど、私達は何が起こるかわからない不安定な中を生きている。 
 どんな人にもあてはまる世界の真理です。

 これらがドラマに少なからず影響していたかはわかりません。
 私がこのドラマで見たのは不都合な世界を自分の信じる絆を糧に生き、後世悲劇と言われるような運命でさえ利用して夢を叶えに旅立った義経の姿です。この作品における彼は名声を得たいとも高い地位を得たいとも言わず、ただただ自分の夢のために行動した人物でした。
 不都合が溢れる世界を駆け抜けた一筋の光。今作の義経はそう形容できるような姿でした。

 この姿は最終回で、義経と交流があった一人の女性の背中を押すものだったことが伝えられました。
 うつぼという名の彼女の周りにいた人物、そうでなくとも都に生きる人物は新たに背負うことになった不都合、襲ってくるであろう不都合を受け止めていました。生きている限り不都合はなくならない。これはうつぼも例外ではありません。かつて義経に「同じ生きるならのびのびしたい」と言ったけれど、どうすればよく生きられるのか?その答えを彼女は得ました。

自分の生涯は不都合な世界の中で夢を追いかけたものであったように、あなたも夢中になって生きてほしい。あなたはこれからも、きっと夢中になるものに出会う。だから、出会えた時にはそれを新しくあなたの生きる力にしていって―

 義経が、屏風に描かれた新しき国を胸に生きたのであったのなら、うつぼがこれまで生きた中で支えになっていたのは義経に向けた思いです。義経を支えたい、義経は生きていてほしい、義経は笑っていてほしい。このような純粋な思いで彼女は行動し、時には自ら身を引きました。
 しかし彼女は奥州で、戦の前に義経から主従の最期を都にいる皆に伝えてほしいと頼まれました。

 義経なき世界になること。義経なき世界になったこと。
 これはうつぼにとって正に不都合そのものです。生きる限り、絆と不都合の戦いは終わらない。これからの彼女はそんな世の中を、これまで時代を共に生きた義経の姿を胸に秘めて生きていく…うつぼが見た義経の幻はうつぼに義経との繋がりを示し、義経より長い彼女の人生にエールを送ったのでしょう。
 こう考えると彼女が鞍馬山に行くきっかけを与えたお徳の「義経様は鞍馬にいる」との発言に力が宿っていたと思い直せます。義経がいなくなっても交流があった者にとって、義経とはいつでも自分の生きていく力を呼び起こしてくれる存在なのです。

 私はドラマのラストシーンを見届けた後、自分が生きる現代を思いました。
 どんなに不都合であっても、私達が生きているのは生きていくべき意味がある世の中。私達は絆を通じて未来を信じる勇気を持っていれば、不都合な世界であっても生きていけるのだと。


 本作はゼロ年代の不況の時代に源義経の悲劇をやるのはどうかという議論を踏まえ、どんな希望を見せられるのかを考えたと思います。不都合に向き合う力としての絆、その在り方を探っていく。テーマが一貫して扱われています。突飛な演出の賛否が話題になりやすい作品ですが、この世の真理とそれへの向き合い方の方向性を源義経のストーリーで深めていきます。
 筆者は2021年に初めてこの作品を見ました。本放送から時代が下り、震災を始めとする幾度の自然災害やコロナ禍に触れた上だと、本作から伝わる世の中の見方により切実さを感じます。前提が長いため「この作品を見て良かった」とカタルシスを得るまでが非常に長いですが、見終わった時には1年かけて語っていくべき物語だったと振り返ることができると思います。

シビアな世界だけれど、「それだけではない」と言っているような作品でした。

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