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コンテンツに必要な3つの"I" ――Information 情報, Intelligence 知見, Inspiration ひらめき

去年(2011年)の秋、友人にご縁をいただき、千葉商科大学でメディアを学ぶ学生さんたちに「現役編集ライターは何をやっているのか」的なテーマで講義をさせてもらいました。そのときにお話ししたことをいくつか書いておこう……と思いながら1年以上が経ってしまった! 書き貯めていたそのひとつを、この年末差し迫る今日アップしたいと思います。

長くなってしまったので、先に要約しました。

  • 良質な記事とは、Information、Intelligence、Inspiration、の3つの要素で考えることができる

  • 必ずしもすべてを含むことが要件ではなく、0:0:100などもあり得る。これらの配分をどうすべきかは、すべて「その記事がどこで誰に何の目的で提供されるものか」に依存する

  • 「どこで」は媒体であり、「記事の目的」も媒体の目的が前提。媒体には必ず「誰に向けているか」=想定読者があるので、制作者はそれをよく踏まえる必要がある

  • 特にIntelligenceに関して、何がIntelligenceになるのかは受け取る人によって大きく変わる。だから、受け手を理解することが何より大事(Inspirationにも同じ性質があるが、ひとまずビジネス記事においてはIntelligenceのほうがより重要で、整合性の高いIntelligenceはInspirationにもなる)

では本編です。

良質な記事は、何を満たしているか

良い記事、良い原稿の条件とはなんだろう。何を目指すべきで、どのような像に着地するのが最適解なのか、ということを四六時中考えている。逆に自分が受け手の立場で、どんな記事だと「おもしろい」「読んでよかった」と思うのか、心躍るのか、息をのむのか、時間が経っても印象に残るのか、もいつも注視している。自分の気持ちのゆれを見ている。そのなかで数年前から輪郭が見えてきたのが、良質な記事は、

  • Information:情報

  • Intelligence :知見

  • Inspiration  :刺激、ひらめき

の3つの要素から成り立っているようだ、ということでした。
(すでに諸先輩がどこかで書いていたらすいません、あくまで私の気づきです)

これらは、3つを兼ね備えていなくてもよい。そして、実は記事だけでなく、ビジネス本や小説、音楽や映像などあらゆるコンテンツがこの3つのいずれかを含んでいるようである。割合はいろいろで、しかも情報は受け手が誰であっても「情報(事実)」なのだけど、知見とひらめきに関しては、同じものを享受しても受け手によって「読み取れること」が大きく変わってくる

Information、Intelligence、Inspiration 

それぞれ、本稿での定義を書き出してみる。

  • Information:情報
    事実(ファクト)や、言語化した知識。誰がいつ、どの媒体を介して受け取っても、意味や有効性が変わらないもの。

  • Intelligence:知見、知性
    受け手がそれを得て、自身の生活や仕事において応用できるもの。受け手によってその価値が大きく変わるもの。

  • Inspiration  :刺激、ひらめき
    それによって気づきを得、新たな発想が生まれるもの。受け手に内在する点と点がつながるための触媒になるもの。

書いてみると意外と難しかったわ。定義大事。
ちなみに辞書の定義も引いたのだけど、特に知見に関してピンとこなかった。Intelligenceをどう訳すかによるのだと思う。でも英和辞典のIntelligenceもあまりピンとこなかったので、本稿では上記の意味合いとしてご理解いただきたい。

なので割愛するが、たとえば最近、あっこれは私にとっては「知見」だけれど人によっては全然「知見」ではないな、と思ったのは次のようなことです。

カボチャは味が強い野菜。
だから、オイスターソースや黒酢などパンチがある調味料が合う。

掲載されていたのは、とある料理雑誌の1ページだった。これは私のような、日々の献立と調理に常時CPUの数%を割り当てている、家庭で主に食事を担う方々にはよくよく共感いただけると思う、この情報のインパクトは。そう、これは情報でもある。そして知見でもある。

なぜ、これは私にとっては知見なのかというと、私はこれを今後ずっと応用できるから。でも、自炊しない人や料理に興味がない人にとってはそこまでの意味を持たない、すぐ忘れてしまうくらいの情報だと思う。

事例で考える3つの”I” ~絵本編

もう少し汎用性のある例として、絵本を考えてみたい。

赤ちゃんは生まれて1カ月ごろから徐々に目が発達していくらしい。そこでいろいろな色を見せてあげると脳の刺激になり、特にはっきりした明るい色がよいらしい(※参考)。また5~6カ月でも視力は0.2ほどで、パステルカラーなどはよくわからないらしい(※参考)。

実際、赤ちゃんははっきりした色を喜ぶのだと思う。なので、書店の0歳コーナーにはこんな絵本がけっこうある。

これは赤ちゃんにとって、情報とか知見ではない、インスピレーション100%のコンテンツといえる(まあ、赤ちゃん向けのおよそのコンテンツはそうだろう)。もちろん実質的に脳の発達を助長するなら、大人が使う意味のインスピレーションとはちょっと違うけど、絵本を喜び楽しむ様子から、脳や心の刺激になっていることがわかる。

「サウンド」も、インスピレーションですね。以下の本などはうちの子らにさんざん読んでやった大好きな絵本。色もやっぱりはっきりしている。

まあそもそも、大人がページを「めくる」という動作が、子どもにとっては大きな刺激なのかもしれない。動くものが好きだから。動くものが気になるのはたぶん生存本能でもあるから。なのでちょっと話がそれてしまうけど、絵本は「体験」として、特に大人の声の表情と組み合わさって読んでもらう「読み聞かせ体験」という観点で、本質的にとてもインスピレーションに満ちた存在なのだと思う。

でね、ちょっと年齢がいった子向けの絵本になると、なんと、そこに、情報と知見が入ってくるのですよ~~!!!!!!(←テンション

『ゆうたはともだち』について解説します。暑苦しいので、あつっ!と思うかたは飛ばしてくださいw

冒頭で書きました大学での講義で、私は次のようなスライドを出させていただきました。 これはここまでの話。

で、『ゆうたはともだち』はどういうストーリーかというと、次のように、いぬとにんげんの違いがいろいろな切り口で描かれていくのですね。‟いばりいぬ”のじんぺいの視点で、じんぺいの‟ともだち”のゆうたくんとの違いが語られていく。

おれ いぬ。 おまえ にんげん。
おまえ わらう。 おれ しっぽふる。
おまえ ほんがすき。 おれ ほねがすき。

『ゆうたはともだち』より

それでここからは最後のネタバレなんですけど、こうくる。

おれと おまえ ぜんぜん ちがう。
だけど すき。 だから ともだち。

これはッ……これはまさしく、知見……!! かわいい。かわいすぎる。事実(=情報)としてはたくさんの違いがあるけれど、好きだから、友達になれる……!! というわけで『ゆうたはともだち』における3つのIは次のように整理することができると考えた。

  • Information:イヌと人はいろいろな点で違う

  • Intelligence:でも、ともだちになれる

  • Inspiration  :構図、五感、リズム、イラストのタッチ etc…

中面は「絵本ナビ」より

……この3つのIを絵本で説明できそう、と思ってしばらくしてこの本を思い至り、ばちっと(私の中で)はまったときには本当にわっという驚きがあった。好きだったら友達になれるのだという、この本を読むくらいの子ども(なんとなく意味がわかるのは1歳半くらいからかな)にとって、なんと尊い知見なのだろう、震える。これは明らかに、ここまで列挙された内容とは異なっているのです。……このオタクな興奮をご理解いただける方は、私と5時間飲んでくださいw

いろいろなコンテンツにみる3つの”I”

絵本以外に、いろいろなコンテンツについても考察してみた。たとえば、純度100%情報とか、100%知見とかっていうのはあるのかな。どのようなコンテンツだと、そういえるか。

たとえば、いわゆるおでかけ情報サイトの施設紹介ページはインフォメーション80%くらいかもしれない。50%かな? 残りは、イメージが湧く写真やキャッチコピーなどがインスピレーションとして作用しそう。眺めているだけで「ほぅ……」と息をついてしまう「一休.com」は、たぶんインスピレーション多めですね。もちろん情報も重要だけど、情緒の重きがかなり大きい(と私は感じる)。あ、インスピレーションとは情緒的ともいえるのかな。でも、そんな一休.comから情報しか読み取っていない人もいそう。それはたぶん人によるのだろう。そもそも、機能としてはECなので、コンテンツとして受け取っているかが人によって分かれそう。

一方、論文なんかは、‟Intelligence”の割合がかなり大きいのではないか。

私は理系出身でして、学部4年の研究室時代には英語の論文もがんばって読んでいたのだけど、まぁ~3%も理解できていなかったと思う。英語力の不足だけでなく、英語が堪能であっても、その領域の背景とここまでわかっていること、その研究論文の主眼と意味、実験や調査の確からしさ、考察の妥当性etc……をつかんで評価できる力を持ち合わせていなかった。

論文はそもそも、Intelligenceの継承でもあるといえそう。過去の研究論文のレファレンス、レファレンスに重ねて「そうして今これがわかった」と最新を更新するわけで、その連綿とした活動が研究を進化させていくのだと思う。

これはビジネス記事にそのまま当てはまるわけではなさそうだけど、私の仕事でいうと、マーケティング媒体でCMO(Chief Marketing Officer:マーケティング責任者)クラスの人のインタビューを「マーケター初心者にもわかるように」と書いていくと知見が浅くなるし、語られたこと、語ろうとされていたことを十分生かし切れない消化不良感が残ってしまう。1時間の取材の価値を最大化するには、第一に5年10年以内にCMOを目指すくらいのキャリアの人、次にそのCMOに憧れて興味を持っている若手、のような優先順位で絞り込むのがよいというのが経験則です。

そもそも、先の論文のように、私の側にその人の持つ知見を十分に引き出し理解する能力がなければ、初心者レベルの記事にしかならない。これはまた別テーマになりそうだけど、少なくともビジネス記事においては書かれるものは書く者の限界を超えないということがあって、つまり知見を記事に込めようとすると必ず媒介者の能力を求めるのだと思う。おでかけ情報は大学生が書いてもおでかけ情報だけど、知見は違う。

もちろん、同じCMOに聞くのでも、一般媒体やキャリア系媒体なら書くことや強弱が変わってくる。というか質問項目自体が変わってくる。結局、最終的な記事の読者層と、そこで求められる・期待される知見から逆算していくということになる。

こう考えていくと、Intelligenceは「わかる人にはわかる」的な要素が大きいのかもしれない。それは記事単位ではだめで、媒体としての‟お約束”であるべきである。すなわち「想定読者」ということで、子どもが論文を読んで「わからないから易しく書け!」と文句をいうのはお門違いなわけです。

つまり、Intelligenceはもっとも、読者理解=顧客理解と密接である。まあ「知見」なので、当たり前といえばそうなのだけど、「あなたに役立ててほしいのだ」と思うその「あなた」像が正しく描けていないと、ど真ん中の知見を織り込んでいくこともできない。言い換えると、読者像の絞り込みが甘い原稿は「知見を提供する」という目的において及第点に達さない、と言うことなのだと思う。

それぞれの”I”のチェックリスト

ここまで書いて、少なくとも記事(文章コンテンツ)ならチェックリストにできそうかなと思ったので、それもためしに書いてみる。いずれも含む記事の場合を前提に、各要素が何を満たしていれば及第点か、あるいはより良いか。

Information
□その情報が正しいか(=情報の質)
□情報量は、読み手のリテラシーにかんがみて適切か
□情報の粒度(漠然としすぎず、かといって細かすぎない)は、読み手のリテラシーにかんがみて適切か

Intelligence
□発見や気づきがあるか。それに対して納得感があるか
□発見や気づきの提供方法は適切か(=「これが発見である」と書くか、それともじわじわ感じ取ってもらうか)
□その内容は、オリジナルか(著者・話者自身の顕在的or暗黙的知見、または編集やライターが読み解いた知見か)
□それは、読み手がその後の仕事や生活に生かせるものか。読み手の血肉になりえるものか

Inspiration
□文章がなめらかか。句読点、一文の長さ、1ブロックの文の数は適当か(または、音読しやすいか)
□読むスピードと理解のスピードがおよそ合っているか(※)
□文章と写真のバランスは適切か。そこにその写真が入る妥当性があるか。文字では提供できないことを一定、含んでいるか
□読んでいて気持ちがいいか(※)

……情報はたぶん上に書いた項目が絶対的に必要で、イコール記事の最低ラインの質ということになりそう。でもほかの2つはちょっと抽象的なのと、必要条件と十分条件がごっちゃになってますね。いくらいい話が書かれていたって、たとえば文が長いとつっかえるからインスピレーションを得るところまでいかない、とかは必要条件。

こう書き出すと、Inspirationは、かなり身体的ともいえる。でもこれも一定、品質保持と密接っぽい。また、2つ(※)を入れたのは、理解のスピードや気持ちがいいかどうかも結局は人によるので、読者理解と密接であるところのIntelligenceと密接だ、ということになる。なので適切にインスピレーションを設計しようとすると、それもやはり読者理解が不可欠なのだと思う。‟雰囲気”的な判断ではだめなのだ。

Intelligenceは呼応する。または共鳴する

……が、たまにそれを全部ぶんなぐって、ここまで書いたことを全部ひっくり返して、発信側のものすごい熱量で読み手を巻き込んでいく記事というのがあるのですね。語るべき内容、求められる内容を持っている人が直接書く記事がときどきそれに該当すると思う。

先ほど「書かれるものは書く者の限界を超えない」と書いたけれど、このnoteでの「書く者」とはあくまで本noteで前提としている制作者、書く手段を提供する編集者やライターを指しており、作家やジャーナリストなど、書くべき内容を持つ人が直接書く場合はまた違ってくると思う。にじみ出てくる何かから、発信者が想定していなかったことを受け手が享受することもある。そう委ねているところもあると思う。ただ、それは職人ライターではなかなか起こしにくいことで、ライターの知見の限界に収束してしまうならいっそ記事体にせずログミーのようにほぼ書き起こしというRaw dataを出すほうが読み手に貢献するような気がする。

そう考えると、Intelligenceは必ずしも明文化されなくても、発信者と受信者、媒介がいるなら媒介者の間で伝達されることがあるのかもしれない。明文化された成果物としての記事をもってして「明文化されなくても」とはこれいかに、とも思うけど、なんだろう、文字列が意味すること以外のものを、それとそれとそれが連なることで醸し出される意志や熱意や提案を、私たちは感じ取っている。これがたぶん、行間や文脈と呼ばれるものなのだろう(文脈についても3年くらい考えているのでまた書く)。

実際のところ、この3つのIはパキッと分けられないところもありそうだし、公開したコンテンツがどう響いたかの効果検証もできない。Webのバナー広告とかには、同じような集団に類似のタイプA、タイプBの広告をそれぞれ配信し、どちらがより効果がいいかを見極める「A/Bテスト」というのがあるのですが、記事コンテンツでもそれができたらいいのになぁ~といつも思う。
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おわりに。
なんだか、当たり前のことを長々と書いた気もするけど、書きながら新たに考えたり気づいたりすることも多かったので、よかった。どういうものが人に支持されるのか、というか読者に支持されるのか、またつらつら考えて更新するかもしれない。
あと、記事コンテンツも、A/Bテストができたらいいのになぁ~。おわり。

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