野村克也が魅せてきたもの


1990年代、黄金時代後期の西部に対して互角の野球を魅せてくれたのは野村克也監督率いるヤクルトスワローズであった。まだテレビが娯楽の王様であり、読売巨人が人気であった時代に戻ってきた知将は、ヤクルトで4度のセリーグ優勝と3度の日本一に輝いた。選手としての成績も監督としての成績も一級品であるが、もしも巨人にいたらどうなっていたのかということは考えてしまう。十分な手駒の中で戦術を整えるのではなく、選手の特性を知り、相手を研究し、チームを鼓舞し、人事を尽くして天命を待っていた。不思議な勝ちはあれど不思議な負けはない。ノムラの言葉には人生の重みがある。

巨人と比べると決して潤沢な資金があるわけではなかったが、個性ある選手を集めて面白い野球を展開した。激戦だったセ・リーグで勝つためには、誰かの犠牲が必要であったようだ。そのために毎年連続で優勝したのは1度だけであった、さらにピークを過ぎた選手をうまく使い「野村再生工場」とも言われた。はじめてオリックスが日本シリーズに出場した時も、イチローを自由にさせずに優勝している。野球がチームスポーツであることを見せつけた年だったと思う。

阪神ではID野球を浸透させるやり方がうまくやることが出来なかったと何かで読んだことがある。けれども選手の下地を作り、星野監督を推奨し強い阪神タイガースに生まれ変わったのは野村克也監督の手腕があったからだと思う。その流れが無ければ2010年代も強い阪神は続かなかったのではないだろうか。楽天でも選手の下地作りで終わってしまったが、その後、星野監督がパ・リーグ制覇、日本シリーズ優勝に貢献したのは間違いないだろう。人を育てることによって勝てる試合を作り上げてきたと思う。

現役時代に自身を月見草になぞらえたのは有名な話である。その次代は、巨人、大鳳、卵焼きと子供の人気に巨人が入り、王、長嶋が活躍しV9を巨人が成す時期である。人気のセ・リーグ、実力のパ・リーグと言われるように、ONの人気から見ると月下でひそかに咲く月見草だったかもしれない。しかしながら、記憶も記録も残っている。戦後野球界を牽引してきた一人であることは間違いない。

急な訃報で野球界からも現役から引退した選手まで野村克也さんにメッセージを送られている。偉大なる先人逝き残された者たちが何を引き継ぎ後世に伝えるのか2020年代の野球界に何が生まれるだろう。

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