記録 22年11月〜23年1月

こんなに記録を長く続けるつもりはなかった。
1周忌ともなれば気持ちも片付けもそれなりに区切りがつくと思っていたのに、そんなことはなかった。
ということで、なし崩し的だけど三回忌くらいまで書き記しておこうと思う。

22年11月。

一周忌終わりから、また少し腑抜けたようになっていた。
とはいえ個人的にはイベントやったりで忙しくはあったけど。
ふっと気を抜くと、なんかただぼんやりしている。そんな時間が多かった。

新しいクライアントさんから仕事をいただき、そのやりとりをしている最中。
親しい友人が亡くなった。
2年近く前から闘病していたことは知っていたけど、この1年なんの音沙汰もなく、他の友人たちとも心配していたところだった。

訃報を受けてから、涙が止まらなくてずっと1日べそべそしていた。
自分でも想像以上にショックを受けた。思っていたより私の中で彼は大きな存在だったんだなと思った。
一周忌からちょうど1ヶ月。まだその気持ちも落ち着かないうちに、親しい人を見送ることになるなんて。。。。
お通夜、葬儀とその前後はさすがに仕事も手につかなかった。

12月。

今年の年末はどうするか、ぼちぼち考えなければならない。
妹と連絡を取る。
1周忌のときもそのままだったスーツ類などが出したままだというので、その辺りを片付けるのにとりあえず行くか、と決めた頃には新幹線の指定はほぼほぼ満席。

29日、移動。
東京駅は去年より混んでる。
新幹線自由席の混雑がイヤで、鈍行グリーン車。この選択、正解。

30日、妹は来ないけど片付け。
スーツやジャケットの入ってるタンスを開けて、まず広げてみる。
ネクタイにネクタイピン、コート類も着てなさそうなのたくさん。
時間あったからついでの自分のタンスも見てみる。自分のものはまあまあ片付けてあるけど、進出してきてる母の古着などをチェック。母、これ自分で片付けるつもりあるかな?

31日、片付け。
妹が来て、どれかもらうやつあるかとか選別。いいやつに限ってちょっとカビてたりして勿体無い。。。
買い取り頼むのに、手続きだけしといて後は母にやってもらおうと思ったけど、妹は母には無理なんじゃないか?と。
面倒だけど一回私のほうに送って手続きすることに。送るための箱買いがてら、お土産と年越し元旦に飲む用の酒を買い出し。

妹は箱詰めだけしてほんと早々に帰った。
間が持たないし、先に風呂入って、ごはん食べる時間伝えて自室であれこれ作業。
居間に戻ったら、サワー開けて一人で先にゴキゲンな母に驚愕。
まあ酒もつまみも自分で適当に準備するからいいんだけど…
母に乾杯ビールくらい注いであげようかと思っていたけどそれも拒否られ。
あーうん、私の存在って母にとってやっぱ軽いんだなー。父の次の執着先は妹だし、私は好きにあれこれやるから思い通りにならないし。
しかし大晦日にわざわざ帰省して、飯も一緒に食べないとは思わなかったぜ。

見るテレビがある日でよかった、だらだら飲みしながら紅白。かといって会話にもならないんだけど。
食卓もだいぷ質素。いや豪勢にされても困るんだけど、やる気のなさが滲み出てる。
そして今日に限って早寝しない母。圧がすごい。
やっと寝てくれて、ひとり年越しそば。父にもちょっとお供え。

そしてまた一年が終わり始まる。

23年1月1日。

今年はなんかもういろいろつらくて、1日に帰ることにした。
新幹線も今日のほうが空いてるし。

その選択は正しかった。
午前中、お屠蘇と称してスパークリングワインを飲んでいた横で、母のネチネチ愚痴アーンド執拗過干渉始まり、うわこりゃもうあかんわ、と。
ねえなんでアラフィフの娘に高校生にするみたいな干渉するの?ねえなんでなんで???(答え:それが過干渉)

妹が来て、母がしたいというのでお墓参り。
お彼岸から置いたままの枯れた花を片付けて、造花に変えた。やっぱり母一人で来るのは難しいんだなと、ちょっと寂しいような気持ちにもなる。

戻ってお昼。
雑煮。去年私が自分で作ったら母が拗ねたので、今年は母に任せた。ら、汁用意してないって言ってただのめんつゆで煮てた。
とりあえず食べながら、あとはお盆まで特になにもやらないことの確認。

家に送る荷物も妹の車に載せて。
さっさと帰るーーー。

思ったより早く着いて、予定より1本早い新幹線に。駅で車内用の酒だけ買う。
ほどほどの混み具合で、隣に人も来なかったから安心して居酒屋新幹線。
しかし気持ちが疲れてて、さすがに鈍行とか乗る気にならなくて新幹線乗り継ぐ。

とりあえず、しばらくやることはなさそう。
いや、その気になればあるけど。
対費用の気疲れとか考えるとなー、、、

また考えよ。

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