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俺は人間か-自問自答してはいけない問いを抱えて



「エサ取り」は、路上の人々がよく口にする言葉。親父さんたちは確保した残飯や廃棄された食物をそう呼ぶ。七年間の野宿生活を終えアパートに入ったKさんは「私はきょう人間に戻りました」と仰った。「昨日までの私は、道端でゴミを漁っている犬とか、猫、あれですよ、あれ」と、彼は言うのだ。

「エサ」という言葉の奥には「俺は人間なのか」という絶望的な問いがある。単なる「食」の問題ではない。犬や猫のように生きてきた。自分は果たして人間なのか。そんな存在の不安がこの問いを裏付けている。

路上で暮らす多くの人々が、この問いに対する答えを見いだせないまま苦しんでいる。公衆の面前で眠り、ごみ箱を漁り、排泄をする。野宿生活は、住、職、食、金がない状態であるが、それ以上に人間性をそぎ落とされる事態なのだ。

闇の中から「俺は人間か」と自問する声が聞こえる。夜間パトロールは32年間休まず続いている。餓死する野宿者はほとんどいない。残飯であろうが、何かと食べていけるのが今の日本だ。だからこそ、配られる弁当には「食事」以上の意味がある。それは、「エサ」を口にせざるを得ない人々が自問する「俺は人間か」に対する答えなのだ。「あなたは間違いなく人間だ。誰が何と言おうとこれはエサではない。これはあなたのために用意されたおべんとうなのだ」。そう答え続けるために私達はお弁当を配り続ける。コロナが心配であっても、問いに答え続けることは止められない。抱樸の炊き出しが中止できない理由である。

だがこの問いは、実は僕自身をも問う。そして「社会」も問われている。路上の人々を犬猫扱いし、排除した側も問われているのだ。当然、お弁当を配る側も問われている。「『あなたは人間だ』と答えるお前は人間か」。私たちは、この問いの答えをどうやって得ることが出来るのか。

その答えは他者から聴くしかない。自答してはいけない。私が路上の人々を訪ね歩く意味はそこにある。「俺は人間か」と自問しつつ、弁当片手に「答え」を求めて夜の街を歩くのだ。そして、親父さんたちとのやり取りの中でお互いが人間であったことをようやく確認できるのだ。

僕は、自分が人間であることを確認するために、これからも路上の人々を訪ね続けると思う。

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