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「余地の誕生―他者不在の時代に」 2020年クリスマスメッセージ

ルカによる福音書2章1-7節
2:1 そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。
2:3 人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。
2:4 ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。

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1、 はじめに
予想もしなかった一年が終わろうとしています。新型コロナウイルスで私達の生活は一変ました。大変な一年でしたが、クリスマスはちゃんと来ます。
春にトイレットペーパーが店から無くなりました。これはコロナ禍ではありません。人間禍です。無くなったのはトイレットペーパーではく、私達の中にいる「他者」だったと思いいます。感染の不安の中でみんなが「自分だけ」の状態となったのでした。不安が募る中、「自分は安心したい」と他人の分まで買い占めた。しかし、その願いとは裏腹に「自分さえよければ」という行動は、私達を一層不安にさせ疑心暗鬼にしたのでした。
「自分だけ」。それが、聖書が問う罪だと思います。イエスは「他人を救ったが自分は救わない」と揶揄されました。それが救い主と存在でした。イエスは、「自分だけ」という私たちの現実に対抗する存在でした。つまり、イエスは「自分だけ」からの救済であり、あるいは解放だったのです。コロナは、そんな私たちの現実をあぶりだしつつ広がっていきました。「自分だけ」という闇が深まった一年が終わろうとしています。
ただ、そんな現実だからこそ、クリスマス、すなわちイエス・キリストの到来が必要なのです。クリスマスを告げるヨハネ福音書の記載にこのような言葉があります。「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネ福音書1章5節)。ヨハネは、救い主の誕生を「光の到来」と表現しました。
ただ、それは「光が来たので闇は去った」というのではありません。私たちは、単純にもそう思います。「この闇はいずれ過ぎ去り、光がくる(あるいは戻ってくる)」、つまり「明けない夜はない」「終わらないトンネルはない」と考えている。そう多くの人が考えています。
しかし、聖書は違います。「光は闇の中に輝く」。残念ながら「闇」はあり続ける。しかし、「光」は「闇の中」に存在するのです。「光」を探すなら、人は「闇」を見つめなければならないのです。これはつらいことです。でも、それが現実です。だからこそ聖書は、私たちを励ますためにその「結末」を告げています。「闇は光に勝てなかった」と。

2、 あの夜の闇
ルカ福音書は、クリスマスの「闇」を記しています。生まれた子どもは、飼葉桶に寝かされました。なぜならば「客間には彼らのいる余地がなかったから」です。そこには、クリスマスツリーもキャンドルもケーキもありません。世界ではじめのクリスマスは、とてもロマンチックとは言い難いものでした。
そこには過酷な現実が描かれています。「余地が無かった」。一見物理的な問題と思えますが、これは「スペースが無い」ということではありません。そこには「助けてくれる人」がひとりもいなかったということです。この現実は、天地創造において神が人をお創りになられた時「人がひとりでいるのは良くない」と宣言され、「ふさわしい助け手」を創造された創造の意思に反する事態でした。
赤ちゃんは「飼い葉おけ」に寝かされました。そんな現実を憂う人も、心配する人もいませんでした。その「子」は、人として扱ってもらえませんでした。冷たさと分断の「闇」が支配していました。皆が「自分だけ」に生きていたのです。
だが、その「子」こそが「光」でした。「光」の到来は「闇の深さ」を告発します。その気になれば「余地」はつくれたのです。「もう生まれるのか。大変だ。こっちに来なさい」ということは出来たのです。だが、そんな人はいませんでした。「客間には余地がなかった」と言います。「客間」とはなんでしょうか。それは「自分」の事だと思います。「余地」とは、自分の中にあるはずの「他者のための空間」です。「自分の中に他者がいないという現実」をクリスマスの物語は示しています。
2000年後の今日も大差ありません。「自国ファースト」と叫ぶリーダーが現れ、「自分が一番」、「自分だけ」と多くの人が思い始めています。例のトイレットペーパーの一件はそういうことです。
「自分のことで精一杯。他人を助ける余裕などはない」、そうでしょうか。「宿屋の予約をしなかったのは自己責任だ」、そうだとしても、この赤ちゃんはどうするのでしょうか。あるいは「自分のこともできない人が他人を助けるのは無理だ」、いかにももっともらしいですが、それは「言い訳」ではないですか。
いつになれば「自分のことができる」のでしょうか。いつまで待てば不安におびえる初産の妊婦は助かるのでしょうか。不潔極まりない「飼葉桶」に寝かされた赤ちゃんが清潔なベッドに眠れる日はいつでしょうか。お金がないから、時間がないから、余裕がないから・・・・「出来ない理由」は尽きません。でも、あなたは気づいているはずです。「出来ない」のではなく「しようとしないだけ」だと、いうことに。他人のために「余地」を空けず、全部自分のものにすることで「安心」を得たかったということに。でも、落ち着いて考えたいと思います。もし、それが救い(主)から乖離する生き方だとすれば、それは最も「危険」なことにならないでしょうか。
そもそも「自分だけ」ではつらい。少し考えればわかることです。もし、あなたがマリヤだったらどうでしょうか。考えるまでもなく、わかることです。わからないふりをするのはもう止めたいと思います。それがクリスマスにやるべきことです。

3、救い主―余地の誕生
クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日です。イエス・キリストとは何か。それは「余地」だった、と思います。「余地」は「他者のため(の場所)」です。「余地がない」とうそぶく世界に「余地」となるためにイエスは、お生まれになったのです。イエス・キリストは他者のために生まれ、他者のために死んだ。「他人は救ったが自分は救わない」(マルコによる福音書15章)と迫害者たちで十字架のイエスに救いの本質を認めざるを得ませんでした。イエスは、人には「余地」、すなわち「他者のための場所」が必要であると身をもって示さたのです。それこそが「救い」であると。
自分だけ暖かく安全な場所に安住し、「余地はありません」と断わり続けている私自身の現実に耐え切れなかった神は、ひとり子を「この世の余地」とするために送られました。それがクリスマスです。
あれから2000年。いまだ「余地がない」と断られ続けている人がいます。だから、今年もクリスマスはやってきたのです。「自分だけという闇」に打ち勝つために。イエスを信じるということは「他人に分け与える」という生き方への転換を意味します。それは、自分の分が減ることでもあります。でも「他人に分けると増える」のです。他者のために十字架に死んだイエスが復活し永遠のいのちを得たというのは、そのことを意味します。「分けたら増える」。これはコロナ禍の時代には、いっそう福音(良き知らせ)だと言えます。
確かに私はイエスほど徹底的にはできません。そんなこそをすると、いのちがいくつあっても足りません。しかし挑戦する価値はあります。他人に自分を少しだけ分けてあげる。それがイエスの救い、すなわち十字架の恵みだったのです。
すべての人が「どうぞ、お泊りください」という日がきます。私はそんな夢を見ます。この夢は必ず実現します。なぜならば「闇は光に勝てない」。世界の結論はすでに決まっているからです。その事実を全ての人々に告げ知らせるため、今年もクリスマスはやって来るのです。
クリスマスおめでとうございます。

2020年クリスマス
東八幡キリスト教会
牧師 奥田知志

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