見出し画像

 「今も時々思う―問いの中に生きる」

 NPOの専務である森松さんの母上が急逝された。とりあえず森松さんの故郷である沖縄に向うことにした。僕の親父の時は、森松さんが滋賀まで来てくれた。日帰りで押しかけると迷惑かも知れない。でも行こうと思った。享年93歳。ずいぶん前にお会いしたきりで、最近はすっかりご無沙汰していた。長く離れて暮らしていたとは言え、実際にもう会えないとなると寂しい。「もっとこうしてやったら」、「ああしてやったら」。息子としては思いもいろいろあるだろう。心残りは縁(えにし)の証し。ともかくしょげている森松さんの顔を見て一緒にお祈りしよう。そんな行きの飛行機の中、僕は親父が死んだ時のことを思い出していた。

 親父(オヤジ)が死んで7年になる。シベリヤ抑留から生還し、その後大学、就職、結婚。典型的な中間層サラリーマン家庭に僕は育った。親父が40歳の時に僕が生まれた。クラスで親父が戦争に行っていたのは僕ぐらいだった。小柄な親父は大体静かな人だった。そんな人がたまにつまらない(本当につまらない)冗談を言ったりする。江州弁(滋賀県)でこういう人を「ちょか」と言う。「落ち着きがない人を注意・揶揄する時などに使うことば」だ。「静かな親父」と「ちょか親父」。そのギャップが子どもの僕にとって不思議だったが、大好きだった。

 親父の最期の日々は病院暮らしだった。以前大腸ガン、しかも相当進行したガンを患ったことがあった。さすがに「これはダメかも」と兄貴と言っていた。だが手術は成功。親父はその後10年程元気に過ごしていた。
最後の入院となる直前。90歳になった親父は「さすがに今回で最後」と言いつつ夫婦で九州まで来てくれた。新しくなった教会を見たいと。「軒の教会」を見て親父は喜んでくれた。小柄だった親父がもう一回り小さくなっていた。しかし食欲もあり一緒に盃を酌み交わした。ほろ酔いの親父はやはり「ちょか」をかましていた。

 九州から戻って数か月後、親父は倒れた。病い自体は大したことはなかったが入院中に「誤嚥(えん)性肺炎」(食べたものが間違って肺に入り肺炎になる)を起こした。退院できない日々が続いた。「絶飲食」と書かれた札がベッドの上に掲げられていた。少し調子が良くなると再び肺炎を起こす。「胃ろう」は作らず、タイミングを計り鼻からの管を通じて胃に栄養を入れる。だが、これが逆流し肺炎を繰り返す。皮下注射の栄養補給も加わったが「絶飲食」は続いた。
 
 頻繁に九州から見舞いに行くことはできなかったが、それでも仕事の合間を縫って親父が入院する病院に向かう。かつて僕もお世話になったその病院は建て替わり新しくきれいになっていた。親父はやせ細り皮膚はカサカサになっていたが、頭はしっかりしておりベッドで欠かさず新聞を読んでいた。

 僕は、鞄の中に「大吟醸」を忍ばされていた。見舞いに行く度に「今度こそ一杯飲してやろう」と思っていた。しかし、なぜか見舞った日に限って親父は発熱しておりそれどころではなかった。仕方なくストローをスポイト替わりにし「オレンジジュース」を飲ませる。実はこれもダメだったが内緒でやった。たった数滴のジュースに親父は「うまい、うまい」と目を細めた。「よーし、次こそは酒と鰻だ」と決意を新たに家路についた。
 その後も「絶飲食」は続いた。「誤嚥性肺炎」が治まらないのだから仕方ないが、親父の手や足はわら半紙のようになっていった。見舞いに訪れる兄貴の家族が「ニベア」(保湿クリーム)を塗る。そんな日々が続いた。

 ある日、兄貴から電話があった。ニベアの缶が驚くほど早くなくなるという。新しいものを買っても数日で空になると。見舞いは兄の家族が入れ替わり行ってくれていたので、たまたま「塗る人」が多かっただけだったのかも知れない。だが兄は「もしかしたら親父が食べたのかも知れない」と心配していた。今となってはわからないが、あの状況ではそんなことになったとしても不思議ではない。兄貴の報告を聴いた僕は「これはいかん。次に行った時には絶対に鰻を食べさせる。それで死んでも仕方ない。酒も飲んでもらう」と決めた。その数日後だった。「親父が逝った」と兄貴からの連絡が入ったのは。

  その日のことは良く覚えている。厚労省関係の会合があり新橋駅着いたところだった。あまり他人に言わないが、今まで何度か身近な人が亡くなるタイミングで急に具合が悪くなるということがあった。「虫の知らせ」というやつか。僕は神秘主義者でないしオカルト話しにも興味はない。しかし、その日も急に具合が悪くなり、痛みというか嫌悪感が全身を波打った。「これはまずい救急車を呼ぶか」と思案しつつ、一方で「誰だ(逝ったのは)?」と心の中でつぶやいた。その時だった。携帯電話が鳴ったのは。「親父が逝った」と知った時、痛みは治まった。
 
 その後、厚労省の方々と合流し親父が亡くなったことを告げると、すぐに帰った方がいいと言ってくださり、その足で滋賀に向かった。親父は、葬儀場の一室の布団に寝かされていた。飲んでくれる人を失った「大吟醸」は実家の冷蔵に残されたまま。(これは一年後、仏壇の前で親父と呑むことになる)。
   
 お通夜の後、兄貴が準備した「おとき(葬儀の時の食事)」は精進料理のかけらもない、鰻あり、刺身あり、肉ありのごちそうだった。孫たちも駆けつけ親父の敵討ちとばかりにみんな腹いっぱいに食べて「親父」を語った。
 
 「誤嚥性肺炎」の治療としては「絶飲食」は当然だと素人の僕にもわかる。ニベアが無くなった件もひもじさに耐えきれなかった親父が食べたかどうかはわからない。絶飲食と治療のおかげでしばらくの時が与えられ、僕が親父を見舞うことができたことも事実。だから「絶飲食」にも意味はある。だが、僕にはどうしても親父の最期があまり幸福ではなかったように思えてならない。「あれで良かったのか」という問いは残り続けている。そんなことを今も時々考えている。やせ細った親父が最期まで新聞を広げていた姿は痛々しかった。仕方ないと簡単には言えない。悔やんでいないと言えば嘘になる。以来、僕は答えのない問いの海を今も漂っている。

 この話には実は後日談がある。親父が逝って一年程たった頃、僕は講演会の講師としてある県に呼ばれていた。講演後、主催者の一人が駅まで送ってくださることになった。車中、いろいろな話をした。その時、その方が「実は今、父が入院をしています。入院中に誤嚥性肺炎を起こし現在『絶飲食』中です。日に日に弱っていく姿をただ見ているのが辛いんです」と彼女は言いった。僕は、実は一年ほど前、こんなことを経験しましたと親父の話しをした。答えは今も分からないが確かに悔いは残っていると正直に伝えた。「これは責任の取れない話しですが、僕はあの時、食べさせたら良かったと今では思っています」と。無責任な発言であることは十分承知している。それが医療の常識からは逸脱することになるかも知れないことも。医師との間に混乱が生じるかも知れない。だが伝えなければならないと僕は考えていた。

 それから二週間ほどが過ぎたある日、彼女から知らせが届いた。「あの後、イチかバチかで父親に食べさせました。するとどんどん元気になって昨日退院することができました。ありがとうございました。」とのことだった。驚いた。しかし、「だから食べさせた方が良いに決まっている」とは言えない。「たまたまうまくいった」に過ぎないのかも知れない。ただ、その「無謀なチャレンジ」ができたのは親父の経験を彼女に伝えた結果であることは確かだった。

 親父のことを思うと今も答えのない問いの前にたたずむ自分がいる。人と出会い、共に生き、時々の出来事と向き合うということは、答えのない問いの中に身を置く営みに他ならない。人が人とつながり生きるとはそういう事なのだと思う。

 いずれ天国で再会した時、ニベアの件については親父に尋ねてみたい。あの時どうだったのか。それまで僕は問いを大切にしながら生きていきたいと思う。

いただきましたサポートはNPO抱樸の活動資金にさせていただきます。