特別に愛された―恩師関田寛雄追悼
関田先生は礼拝堂の椅子にへたり込むように座られた。そして眼鏡を外しウーンと唸り声をあげられた。泣いておられたのだ。
2014年、東八幡教会は創立60年を記念して新会堂を建築した。「軒の教会」と呼ばれる礼拝堂の奥には「みんなの記念室(納骨堂)」がある。「出会いから看取りまで」。教会とNPO抱樸(ほうぼく)はそんな活動を続けてきた。その歩みの証しである記念室を目の当たりにして先生は泣いてくださったのだ。
出会った方々の9割以上は家族の元に帰れなかった人々だった。記念室には200を超える遺骨と写真が納められている。先生は「よくなさいましたね」と褒めてくださり、なぜか「ありがとう」と繰り返された。
先生は、ご自身が歩まれた川崎の戸手伝道所での出会いの話しを何度も僕に話してくださった。先生こそが出会いから看取りまで実践された方であり、その中で「つながりを失った人」の「深悲」を心に刻んでこられた方だった。そんな最期を迎えざるを得なかった方々に代わり先生は僕に「ありがとう」とおっしゃったのだ。この人は「ひとり死んでいく人の悲しみ」を実に知っておられると思った。
その時の様子を拙著「ユダよ、帰れ」の書評(本のひろば2022年1月号)に書いておられる。「東八幡キリスト教会の地下には納骨堂が設置されている。ハウスにもホームにも恵まれないまま世を去った方々の遺骨が何百体も納められている。そこに入る扉には『わが父の家には住まい多し』と刻まれている。かつてこの場所に立って著者は言葉を失い、神の憐みをそのまま象徴する納骨堂を設置した著者の心を思い、この時も涙に導かれた。」残念ながら納骨堂自体は地下にはない。記念室の床下にはひとかかえもある陶器のツボがあり、皆が仲良くその「骨壺」の中で眠っているのだ。
私は2003年に留学の試験を受けた。ボンフェッファーの研究とドイツにおけるホームレス支援を学ぶためだった。数年前から牧師の傍ら九州大学の博士課程後期に身を置いていた。しかし、悲しいほどドイツ語はできなかった。にもかかわらず試験には合格した。
2003年春、留学の手続きが始まろうとした頃、北九州市の担当者が来られホームレス対策を開始するから留学を延期して欲しい言とわれた。前年に国会で「ホームレス自立支援法」が成立していた。実は、この法律の上程活動も留学準備と並行して行っていたのだ。法案が通ったことは喜んだが、一方で私は困っていた。「どうする留学」。
どうしたものかと関田先生に相談をした。そもそも「留学しなさい」と私に勧めたのはこの先生だったからだ。すると先生が訪ねて来られた。先生は「奥田さん風に吹かれなさい」とおっしゃった。「どの風に?」と内心とまどった。
その夜、二人で語り合いやけ酒を呑んだ。「奥田さん、風の吹くまま、気の向くままよ」と先生は繰り返された。僕は留学を断り、ホームレス支援を選んだ。
その後の混乱は大変だった。留学を主催されている団体の方々、留学中の家族を含めた支援の体制を作ってくださった方々、一人ひとりにお詫びの手紙を書いた。最も混乱し傷ついたのは教会だった。当初留学に反対をしていた教会を一年かけて説得した。そもそも「反対」というのも「このままこの教会にいてほしい」というありがたい理由での反対だった。それを押し切り留学を決めた。「教会が反対しても辞めなかったのに、ホームレスのためならやめるのか。どっちが大事だ」と、私が聞いても「そうだろうな」と思う意見が飛び交った。この混乱は数年にわたり、役員を含む数名の方々が教会を去った。そんなことが起こっているさなか関田先生を川崎に訪ねた。
関田先生は拙著「もうひとりにさせない」の「まえがき」にこう書いてくださっている。「私は、著者に対して、一つの負い目を負っている。(中略)彼は、わざわざ川崎の私を訪ねて、その去就について問うたのである。(中略)私自身、留学の経験を持ち、その豊かな実りが感謝と共に今なお生きているので、彼にとって稀有の機会を生かすべきであると思いつつも、北九州市のホームレス対策に関わる大きな進展は、余人にゆだねられない課題であるとも思った。(中略)私は彼に、留学の断念を迫った。黙して去った彼は、それからどんなにか苦しんだであろう。結果として、彼は留学をしないという決断をした。それは大学に対しても、教会に対しても混乱と批判を招くものになった。しかし、彼はすべてを耐えて、ホームレス支援機構の設立に突き進んだのである。留学とその後に開かれるはずの、彼の人生における稀有の機会を私は断ち切ったことになる。これが、私の著者に対して、『すまない』という思いとともに、今なお負っている負い目である。」先生の責任ではない、でもこの言葉は沁みた。
「関田先生に特別に愛された」と僕は思っている。しかし実は「そう思っている人」は全国に存在する。「私こそ愛弟子」と皆が思っている。良い教師というのは「先生は僕のことを特別に愛してくれた」と全員が思える存在なのだと思う。先生はそんな人だった。そんな「私の恩師」が召されたのだ。今、全国各地で「私の恩師」を偲んでいる弟子たちはどれほどいるだろうか。
関田先生、僕を特別扱いして下って、本当にありがとうございました。先生のマネが出来たらと思いますが、偏り生きている僕にはなかなか難しいようです。でも、少しでも近づきたいと思います。正直、突然で驚きました。そっちはどうですか。寅さんとは会えましたか。おいちゃんもおばちゃんもタコ社長もみんなそっちですから、さぞかしそちらは賑やかだと思います。天国の「とらや」の居間で先生が聖書を片手に「それをいちゃあおしめえよとイエスは言った」と笑ってらっしゃる姿を僕は想像しています。
僕はこちらでもう少し仕事をしてから行きます。まだ、やらねばならないことがあるので。楽しみに待っていてください。みやげ話しをたくさん創っていきますから。それまでさようなら。
先生、ありがとうございました。