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I See The Light #2(簡易

理性の落とし穴
「理性」一般的には道理を考える事と意味付けられている言葉である。

私が考えるこの理性には落とし穴があるように思えてならない。どういう事かと説明してみようと思う。

私が思う理性とは、無数にあるトンネルだとイメージして欲しい。

まず自分がどのトンネルに入るのか考え、一つのトンネルに入る。

この理性のトンネルは少し特殊で、入口は一つなのだが、出口は無数にある特殊なトンネルだ。
自分が入る時も他の人が入る時も、入口は同じなので、誰もが一種の安心感を覚えるだろう。だが、出口は人それぞれという事を、誰もが忘れがちだ。
選んだ入口には沢山の人達が居たとしても、自分が選んだ出口では1人になる事がある。
これは当たり前と言えば当たり前である。人それぞれ、道理の考え方が違うのだから。

しかし、沢山の人と入口が同じという事が災いして、出口も同じと考えてしまうのが、人間だ。何故なら、その方が考える事が困難では無く楽だからだ。

楽な考え方をしている者は、沢山の人と同じ出口を出た時、1人だけ違う出口を選んだ人を非難するのをよく見る。「変わり者だ」とか「頭が悪い」だとか。
逆の場合、出口に自分しかいない時、「裏切られた」とか「騙された」とか思うものである。

困難に立ち向かう為に道理を考え方てトンネルに入る時、人それぞれ出口が違うことしっかり理解しておかなければいけない。

経験からでしか学ばない人は、自分の経験以外は認めなくなる傾向が強い。
やはり愚者に成り下がってしまう。誰しも賢者になりたい者は居ないが、愚者にはなりたく無いはず。

愚者が選択出来るトンネルは少ない。その分可能性も減るので留意するべきだ。


道徳の落とし穴
「道徳」とは生活を営む上で、ひとりひとりが守るべき行為の規準で、自分の良心によって、善を行い悪を行わないこと。
自分の真心が感じる善悪を判断し、選択する行為も、人それぞれ違う。

道徳のトンネルは2種類あるとイメージして欲しい。

一つ目は、トンネルを選ぶ時、出口の先を指定してトンネルに入る考え方である。
二つ目は、とにかくトンネルを抜る考え方である。

道徳のトンネルは理性のトンネルと違い入口と出口は一つしかない場合が多い。
どういうことかと説明する為に例を出そうと思う。

例えるなら、横断歩道を渡り切れない年配者に対してどうするか考えた場合、選んだトンネルで答えが変わる。

1つ目のトンネルでは、平面エスカレーターを設置する事を選ぶ。
多少時間を掛けてでも年配者を助ける為に、毎回横断歩道を歩かなくて良い方法を選択する事になるだろう。

2つ目のトンネルでは、年配者に寄り添い手を引いて一緒に渡る事を選ぶ。
目の前の年配者に手を差し伸べ一緒に横断歩道を渡る選択を取る。

つまり、どちらも助ける事には変わりが無いが、人によってその答えが変わるのである。
しかし、1つ目を選んだ人を2つ目を選んだ人が見れば、さぞ冷たい人に見えるだろう。目の前の年配者を直ぐに助けず、道路工事を始めるのだから。その逆もまたしかりである。

I See The Light 
さて、ここまで見て頂いている方に感謝致します。
表題の「輝かしい未来」を実現する為に、如何にして古い習性に囚われず、新しい習性を作る事が、必要ではないか。
その上で、理性が如何に危うく不安定なのか理解し、道徳に二面性がある事を理解した先に、一人一人の輝かしい未来につながる一条の光になるのでは。

つまり、自分や他人が理性や道徳に基づき、どの様に行動しているのかを知る事で、今の時代に合った新しい習性を獲得することが出来ると思うのです。

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