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【世界史】中世イタリア王位とローマ皇帝位についての私考

ローマにおける皇帝戴冠の形式は、古くはフランク王カールがローマ皇帝として戴冠した、800年のクリスマスにおける戴冠式/西方における皇帝の再出現に遡れる。

つまり、王はローマに行き、教皇から戴冠を受けることで皇帝となるということである。

神聖ローマ帝国では、選出された君主はあくまでローマ王(ドイツ王とも)であり、皇帝になるには(基本的に)ローマに行って教皇から戴冠を受けるという構図はカール大帝の事例に遡れよう。
そのため、西洋では神聖ローマ帝国の始まりをカール大帝とする見方がされている。

しかし、この時点では(個人のもつ)皇帝位と(その個人の)国は合致しなかった。
カール大帝は皇帝ではあったが、その支配領土の呼称はフランク王国だったのである。帝国ではなかった。

話を進めよう。
カール大帝の死後(814)、その領土は息子の敬虔帝ルートヴィヒ1世が一括相続した。
その後は慣習に基づき領土が分割相続されることになり、ヴェルダン条約(843)に基づいて、その息子3人が分割された西/中/東フランク王位に就いた。うち、ルートヴィヒ1世の長男であり中部フランク王国のロタール1世が皇帝位を保持した。

しばしばロタール1世の領土(中部フランク王国)を「皇帝ロタールの王国」と呼ぶが、決して「中部フランク帝国」とは呼ばない。これは前述したように、皇帝位と領土が別だったためである。
中部フランク王国は、北部をカール大帝の王宮と霊廟があるアーヘン(現在のベルギー国境沿い)から、エルザスとロートリンゲン地方を領し、今の北部イタリア地方まで続いていた。

中部フランク王国

そしてロタール1世も死後(855)、やはり慣習でその領土は息子たちに三分割(イタリア/ロタリンギア/プロヴァンス王国)された。
うち皇帝位を継いだのはイタリア王ロドヴィコで、皇帝としてはルートヴィヒ2世と呼ばれる。
しかし、分割を重ねた王国の王であり、皇帝でありながらかつてのフランク王国の全体に影響力を行使できなかった。
そのため、東西フランク王のメルセン条約(870)による領土の再区画に口出しできなかったのである。
しかしこれ以降、イタリアの覇権を握った者が皇帝位を兼ねるという構図が出来つつあった。

ルートヴィヒ2世には子息なく、没後(875)にそのイタリア王国と皇帝位は叔父の西フランク王シャルルが、カール2世(禿頭帝)として獲得した。
(※禿頭と酷いあだ名だが、実際に禿げていた訳ではなく、父親ルートヴィヒ1世の末息子だったことから初めは領土を与えられていなかったことの比喩である)

その後に皇帝位は東フランクの同族カール王が継ぎ、カール3世(肥満帝)となった。
この際、久しぶりに東西フランク王国も合同されたが、カール肥満帝は子息を残さなかったので没後(888)に領土は再度分解する。

イタリア王位は女系でルートヴィヒ1世の血縁にあたるイタリアの有力諸侯であるイヴレーア辺境伯ベレンガーリオが継承を宣言したものの、スポレート公グイードも息子ランベルトと共にイタリア王に即位したと宣言、次いで皇帝位を称した(891)が、東フランク王位を継承したアルヌルフ(カール肥満帝の甥)たちとしばしば皇帝位を争った。更に女系でプロヴァンス王国を継承したルイ3世もこれに介入した。

このように、カール肥満帝の死に前後して、イタリア地方は諸侯が覇権を巡って争う群雄割拠の状態となった。
皇帝グイードが死に(894)、息子ランベルトが残されるとカール肥満帝の甥、東フランク王アルヌルフがイタリアに侵攻して対立の皇帝位(896)を称したので、ランベルトと在位期間が被り並立した。
結局ランベルトは早世(898)し、アルヌルフが単独皇帝となったも束の間、翌年に没した(899)。アルヌルフはカロリング家、カール大帝の男系子孫で出した最後の皇帝となった。

アルヌルフの没後、皇帝ルートヴィヒ2世の女系孫であるプロヴァンス王ルイ3世がイタリアに侵攻して覇権を唱え、ルートヴィヒ3世として皇帝位に就いた(901)。
しかしベレンカーリオとの戦いに敗れ、盲目にされて廃位となった(905)。
(古代ローマ皇帝は、盲目だったり体が不具だと即位できなかったのである。東ローマ皇帝でも、鼻を削がれ廃位となった皇帝がいる)

この頃にはもう「イタリアを保有する者が皇帝となる」という慣例の様式ができていた。
そのため、東フランク王国が「神聖ローマ帝国」となったとき、「ローマ皇帝位」はこのイタリアまで行かないと得られなかった。

その後。というかライバルたちを倒したり倒れたりしてやっとイタリアの覇権を握ったベレンカーリオが皇帝ベレンカーリオ1世として即位(915)。
しかしベレンカーリオ1世は暗殺され(924)、再びイタリアは混乱状態に陥った。
皇帝として戴冠する教皇も、当時ローマで勢力を伸長しつつあったトゥスクルム伯に左右される時勢であり、以降、教皇座が不安定になって戴冠が行われることはなくなった。

しかし教皇ヨハネス12世のとき、東方のマジャール人を倒した東フランク王オットーの勢力拡大を見てイタリアの平定を求めた。
この頃までに東フランク王国は分割相続を廃し、単独相続としていた。
オットーは北イタリアの反逆する諸侯を下し、ロンバルディアでイタリア王として戴冠し、教皇ヨハネス12世によってローマで戴冠して皇帝にもなった(962)。オットー大帝である。
(※この際オットーによって平定された諸侯のひとりがベレンガーリオ1世の孫のイタリア王ベレンカーリオ2世であり、子孫はブルゴーニュに亡命してブルゴーニュ自由伯となった)

このため以降…オットー大帝の戴冠に倣って、歴代のローマ王(ドイツ王)はイタリアに遠征してロンバルディアの鉄王冠を被ってイタリア王を兼任し、続いてローマで教皇から戴冠されて「皇帝」となる構図が成立する背景となった。

歴代のローマ王(ドイツ王)は王として選出されると戴冠を果たすため、イタリア遠征を行うようになる。これは16世紀のマクシミリアン1世が皇帝宣言をするまで続く。
つまりこういう歴史背景から、皇帝に就くにはイタリアを抑えておくことが肝要だったのである。

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