呪いですよ
運転をしている際に気が散る瞬間がある。
細い竹や笹の薮、特にメダケ群落を見つけた時だ。
「ここにあの虫がいるかもしれない」との気持ちが集中力を削ぐ。
「冬のうちにあの虫を捕まえないと、自分はきっと脇見運転で事故を起こす」という不安もある。
これはほとんど呪いに近い。
少し前、出張帰りに赴いた初見のポイントにて、『かぐや姫』ことニホンホホビロコメツキモドキの羽脱痕や産卵痕を大量に目撃したが、生体に出会う事はできなかった。
産卵痕はあるが、中はもぬけの殻というケースも多かった。
何らかの要因によって正常に育たなかったのだろう。
笹竹に穿たれた「・Θ・」という痕もまたニホンホホビロコメツキモドキの特徴的な産卵痕だ。
これがいくつも見つかるのに全く出会えない。
見つかる羽脱痕や産卵痕は1個や2個ではなく、10個や20個でもない。
40、50は越えている。それでもなぜか見つからない。
多数の痕跡に囲まれながら日没が迫る。
確実にここに居る証拠は残っているのに…という焦りで判断力も鈍り、見上げるようにして頭上の笹竹を割ろうとしてしまう。
その際、疲れで握力が下がっていた右手から鉈が滑り、「あっ」と言う間に左眼をめがけて刃が落ちてきた。
咄嗟に背後へと身を引くが、恐らく間に合わない。
そう諦めた瞬間、鉈の刃はカッと音を立てて枝に当たり、こちらから離れるようにして滑り落ちていった。
「………帰るか」
地面に突き刺さった鉈を眺めながら、そんな言葉が漏れてしまった。
命拾いした直後の第一声がそれだった。
様々な反省を一度に飲み込んだ一言だったと思う。
密集した笹竹を背もたれに全体重を預け、ゆっくりとへたり込む。
「左目に でっけぇ傷が 欲しいっす」
漫画やアニメの隻眼キャラクターに憧れるような思春期を今も生き続けていたのならばそんな一句を詠んでいたかもしれないが、本当にいざ左目を失うかもしれないという場面が到来すると、普通に嫌だった。
普通にというか、めちゃくちゃ嫌だった。
当たり所によっては左目はおろか脳にまで鉈が達していたはずなので、命そのものも危うかった。
「死にたくない」くらいの事は思っていた。
もう2度と、頭上で鉈を使う事はしないだろう。
それでもニホンホホビロコメツキモドキの採集を試みる事は辞めないと思う。
早く決着を付けないと、本当に脇見運転で事故を起こしそうだから。
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