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ツバメの来る日 第3章 女性たちと別れ

(第2章までのあらすじ ~ 青木が断っても実家、職場の縁談の話は続く。青木は仕事や私生活から離れ、自家用車の中の陽だまりや町中で安らかに過ごす平穏な時間を好む。由美についての職場仲間のうわさが耳に入る。職場で時々やり取りするバイトの由美を意識する。相談所のパーティーに出席し、結婚を深刻にとらえず気軽に参加している会員が多いように感じる。意中の人の妊婦姿を目撃した秋山の失恋話を聞く。青木の自宅に1度のベルで切れる怪電話がかかり、以降続く。実家の縁談で、親は決めろと言い、反発を感じる。青木は平穏な日々や独身時代に愛着を覚える。秋山に由美への執着を話し、告白するよう助言を受ける。職場では由美の混じる数人の会食の誘いがあったが、青木は断ってしまう。実家の縁談で両親の心配する様子が伝わる。秋山の母親から、息子に結婚を勧めるように頼まれ、青木は困惑する。相談所のパーティーに参加し、紹介された会員とデートをする。)

青木の職場では、女性の動きに気になることがあった。
現在のバイト嬢の友だちで、おしゃれで、少しきれいな女性が顔を見せた。弘子というその女性は、3月から同じ階のどこかの課にアルバイトに来るらしい。2,3ヶ月雇用の10代の女性2人も、職場の椅子に座った。
ここは女性の多い華やかな職場だと青木は感じた。後から後から若い女性が出入りして、同じ階の他の課にもいろんな女性がいる。中には、美人も可愛い女性もいる。自分の両親は、息子の結婚が遅れてしまうと心配している。そんなことはない。自分は、こんなすばらしい花園の中で生活している。
 
 母親は、この間の見合い話の相手の看護婦さんはOKしてきた、と言ってきた。
一方、青木は弘子の均整の取れた体型と、ミニスカート姿を眺めて感心していた。スマートで、背が高く脚が長い。
座っている席のすぐそばに行って、仕事を頼んだりした。並以上の器量で、白くてきれいな肌をしている。マニキュアをして、香水を付けている。弘子を職場に紹介した女性は、美容部員のライセンスを持っている、と言っていた。体ばかりか性格も柔らかそうに見える。青木は男心を刺激される。
 弘子は、来年度に配属される課は内定したらしい。
 夜、青木は久しぶりに秋山と談話した。結婚問題は、相変わらず重々しく、2人に迫る。恋愛をしようと思っていると、その前に次から次へと見合いの話が来てしまう。青木は、自分の時間がそんな風に成り行きで過ぎていったことを残念に感じる。
 
 青木は夜中に、一人でウイスキーを飲んだ。好きな歌謡曲を聞いていると、また恋がしたいと思う。
 青春時代の、自分を含めた仲間たちの熱かった生き様を、やはり忘れることができない。そこには自分たちの涙、歓喜、屈辱があった。さんざんときめいて、反面苦労して、泣いて、恋愛の酸いも甘いも舐め尽くしたはずだ。
それなのに、今また、例え泣くことになってもいいから、恋がしたい。あの充実した時間の中に戻りたい。あの学生時代を、過去の闇の中に放置することはできない。時には回想によって、光り輝くものにしたい。
 ひとりで酔えば、今でも万里を思い出す。
 一昨年の初めに、万里に出した手紙を読み返す。万里の肩を抱いてやった晩のことを、思い出す。
 君はやはり、本当に僕を愛してなかったのか。僕はあんなに君を愛した。
 しかし現実的には、もう、あの頃に後戻りはできない。自分は、今の環境、生活、人間関係の中で生きるしかない。元気でいるか。結婚したか。子どもはできたか。
 今の周囲の若い娘たちを見ると、万里は、ひどく大人びていたように思える。万里も自分も、都会の青春の中にいた。激しい感情の起伏の中で、精一杯に生きていた。
万里は、やはり容姿に優れ、才知もあり、品もあり、魅力的な、すばらしい女性だったのかもしれない。自分が本気で愛するに足るだけの女性だったのかもしれない。
 自分は今、単にここにいるのではない。あんなにも多くの、中身の濃い体験を積んで、その延長線上に、それらの結果として生きている。
 
青木のアパートで、また不可解な電話が鳴った。夜の11時頃、1回鳴らして止めてしまう電話。最近、青木と電話で話すのは、秋山と母親ぐらいだ。その人たちからの電話や間違い電話なら、こちらが出るまでベルを鳴らし続ける。いったい誰が中途半端な電話をかけてくるのか。
 青木は、その電話をまねして夜の11時頃、自宅から職場に電話してみた。それで分かった。ベルが1度切りの電話を相手にかけようとしたら、最初からそのつもりで用意しておく必要がある。
怪電話はこちらの声を聞いてから、電話を切った。相手に出られては困るという切羽詰まった心理が働く。要するに、あれは間違いでなく、最初からそのつもりだったのだろう。
 
 ある土曜日に、また電話が鳴った。3回ベルが鳴ったところで、受話器を上げた。秋山かと思った。その土曜日、上司に勧めで見合いをすると言っていた。その事後報告かと思った。
 「はい。もしもし」
と青木は言った。その声を聞いて相手は、無言で電話を切った。
 青木は怪電話に関連して、ある学生時代の出来事を思い出した。男友達の一人のところに、何度か差出人の名前が書かれていない手紙が届いた。後でその相手は、その男に恋い焦がれる身近な女子学生だと分かった。それで、青木は自分の怪電話は、誰か自分を思ってくれる女性の仕業かと思った。
 その後、秋山から電話があり、青木は、自分に電話したかと聞いた。相手が出れば自分は話すと秋山は言う。あの電話はやはり秋山ではなかったようだ。
 
 青木はその日の1日中、ある町で福祉資金の貸付金の回収の仕事を行った。
地元の福祉担当者が同行した。相手は、返済金を納めずに滞納している。借入人は、女性一人で子供を育てる人たちだった。青木は30代の若さだったが、福祉担当者も借入人も、似たような中年の女性だった。
面会した借入人の一人は、地味な身なりで、古い畳の上に座っていた。
「やっと食べている状態ですから……」
青木は出された茶を飲みながら、部屋の暗がりを感じた。住んでいる人を見ても、その家を見ても、経済事情の厳しさが感じられた。
 言い出しにくいことだったが、貸付金の返済を求めた。
「今、これだけしか持ち合わせがないんですけど……」
その日は、差し出された現金だけを受け取ることにした。これでは、全額返済は覚束ない。
 青木は思った。金がないのは困る。もちろん、浪費、贅沢は良くない。しかし、人はある程度の金を持って生活した方がよい。観光地や都会の豪華さ、優雅さ、豊富さは、いったい何なのか。富裕層と貧困層の格差は解消できないのか。
 
 一方、年度末の3月が近づくと、アルバイトの由美は、そろそろ雇用期間が切れて職場を去る気配だった。
 青木は、結婚相手あるいは恋人でも、早く見つけて、両親を安心させたかった。自分自身にとってもそれがよいことだと思っていた。由美を、内心でそういう存在として見ていた。
 母親に異性関係を問われて、言葉に窮するままに、ふと由美のことを漏らしたことがあった。母親は、性急に行動を促した。
「ぐずぐずしていないで、どんどん声を掛けて誘ってみるとか、手紙を書くとかした方がいいよ」
 青木自身も、由美との別れの予感が胸に迫り、せっぱ詰まった気持ちになっていた。古風なやり方だと感じながらも、心を伝える適当な方法としてラブレターを書き始めた。あて先はどうして調べてよいか、まだわからなかったが、文面だけは用意しておこうと思った。
 しかし、青木の脳裏には、過去の苦い思い出が蘇ってきた。大学卒業当時、何年も前に、由美と同じくらいに思い入れた万里への恋に失敗していた。同じような悲劇を繰り返して辛い思いをしたくなかった。
失敗を恐れて何もしなければ、日々は平穏無事で安らかに過ぎていくように思える。しかし、積極的な行動を起こさなければ、自分の思いは永遠に成就せず、日々の中に埋もれていってしまう。
 青木はラブレターの文章を練りながら考えた。たとえ、この付け文で失敗したとしても、由美は職場から早晩いなくなるのだから、自分たちが無関係な人間になることには変わりがない。
ある晩、ウイスキーを飲んで好きな恋愛の曲を聞いていると、これまでさんざん苦労してきたのに、また性懲りもなく、恋愛という異性との心地良い関係に憧れを覚えた。日々の生活の殺風景な砂漠の中で、それは旅人を遠くから誘う、緑と水にあふれたオアシスのように思えた。
 
 母親は青木が口にする由美のことは、すぐには埒があかないと考えたようだった。手元に来ている見合い話をひとつ受けるように、青木に勧めた。
 青木は、相手の女性と向かい合って思った。
「この人に決めるんだったら、自分はここまで女性を選び抜いてひとりで生きては来なかった」
 それで、母親はまた電話で、青木から見合いの断りの返事を聞いた。
 母親はアパートに訪ねてきた時に、あきれ顔で言った。
「もうこれからは、あれこれ心配しないから、自分で結婚相手さがしなよ」
 青木は視線を避けながら言った。
「頑張って相手を見つけるようにするよ」
 早く嫁を決めて、家族を安心させてやりたいと思ったが、この3月の由美との別れを考え、やりきれない思いを味わった
 
 由美とは時々、コピー機のある場所で、二言三言言葉を交わす日々が続いていた。
 思い切って声をかけて、どこかに誘ったりすれば、由美は、それほど悪くない反応を見せるように感じられた。しかし、その先本当にうまく行くのか、所詮は自分の希望的観測、幻想にすぎないのではないかと自信が持てなかった。
 ある夕方、駅から自宅のアパートに歩いて帰る途中、まもなく確実に、由美の姿が職場から消えることを思い、夜の闇の中でひどく不安になった。
 
 3月末のその日、職場で見る由美の最後の姿を、それと意識しながら見つめた。
しかし、別れを惜しむ暇がないほど、年度の切り替え時期は多忙だった。後任の職員への業務の引継が続いた。由美の乗る自家用車は、青い小型の乗用車であることを初めて知った。
 このままでは、大好きな女性に声をかけて仲良くなることもない。自分は恋心をほったらかしにして、その後ろ姿を見送ってしまうことになると思った。それは、好きな女性と別れてしまう前に、何か行動を起こしていた今までの恋とは違っていた。その後ろ姿を沈黙のまま見送ってしまう、青木にとっては全く新しい形の恋だった。
 青木はその後、福祉課で弘子がアルバイトの女性と、由美のうわさ話をしているのを小耳に挟んだ。弘子は、由美の器量には一目置いているようだった。
それによると、由美は、以前は隣の町にある大きな会社に、やはりアルバイトとして勤めていた。その頃、大手の企業で専属のモデルをしていたという。モデルという仕事は、由美の容姿に似合う職業に思えた。自宅は、市立の文化会館のそばにあるらしかった。
 
 4月になると、由美の姿は、もう青木の周囲には見られなくなった。青木は時間を見つけて文化会館のある地域を、車で何度か走り回った。
由美の家を見つけ出す方法はないかと思案するうち、電話帳を利用することを思いついた。由美と同じ名字を名乗っている家の何軒かをその付近に探しだし、電話をかけてみた。由美という娘がいないかどうか、知らない振りをして電話口に出た相手に聞いてみた。結局、この試みは成功しなかった。
 職場の福祉課には、また新しく、若くて器量のよいアルバイトの女性が入ってきた。この時期、由美ほどではなくても十分に魅力的な女性は、周囲に何人かいるような気がした。その気になれば手に入れられるかもしれない女性を、ひとりの女性にうつつを抜かしてしまったせいで、みすみす見送ってしまうかも知れないと思った。
 
 悶々と過ごす日々の中で、青木は総務課で、由美の姿を見つけた。辞めたはずなのに、まだ職場に在籍しているアルバイトの女性と一緒にいるのを見て驚いた。同時に、再びその姿を目にして喜びを感じた。以前のように、毎日は姿は見られなくなったが、まだ由美が自分のそばにいるような気がした。
 
ある日の午前、青木は廊下でジーパン姿の弘子を見つけた。落ち着いた性格とは思えないが、外見には気を引かれる。洋服の表面に体の線がきれいに出ている。弘子は、青木の福祉課と同じ建物に入る別の課に勤務していた。
その後、背が高くて顔立ちのきれいなバイト嬢が、青木の福祉課にアルバイトに来ていた。弘子は冗談でも単刀直入に話をする。
「もう、唾つけたんですか?」
 青木は言い返した。
「僕は、こっちのほうがいいな」
青木は弘子の腕に軽く触った。
「唾、ついてますか?」
彼女は機転が利くのか、探るような目で尋ね、自分のあらわな肩の辺りを指さした。半袖のミニのワンピースで、マリンルックというのか。
 午後になってまた、弘子は青木のところに顔を見せた。
「よく来るね」
 バイト嬢の一人が尋ねた。
「だって、青木さんに会えるもん」
弘子は、周囲に聞こえるような大きな声で言う。青木は戸惑って、少し弘子に対する態度を変えようかと思う。
 廊下で別れ際に、弘子の肩口に金属製のブラジャーが見えた。
「すごいの、つけてんね」
「見たいですか?」
「後で見せて……」。
「あとでね」
弘子は、昔のあの頃の万里と同じだ、と青木はとっさに思った。話術が巧みで、男女の話題に興味がある。自分も万里子もその頃は20歳ぐらいだった。弘子は今、その20歳くらいの年令で、あれから10年経って31歳になろうとする青木の目の前にいる。
 ところが、この時、弘子と一緒にいるところを見ている人がいた。青木は、離れた場所で由美の視線が光っているのに気が付いた。気まずい思いをした。
 
 数日後、市役所の裏山で、青木は職場の人たちと昼食をとった。桜の花が咲き誇って、数10メートルにわたり、鮮やかな色で大きな屋根を作っている。人々はシートを広げて、一様に顔をほころばせている。
 小泉係長が、皆を夕食に誘う。
後輩の女子職員2人、バイト嬢2人、弘子の気にする顔立ちのよいバイト嬢も含めて、福祉課は器量よしが揃っている。男性は青木と後輩の2人がその一行に混じった。
青木は器量の良い女性に囲まれ、自分は恵まれた環境にいると感じる。親の心配は不要に思える。それなら早く相手を決めろというのが、周囲の理屈らしい。
 
 2,3日後、一雨降って、桜の花びらは散り始めた。満開になると目を見張るほどきれいだが、それは年に1度切りで、すぐに散ってしまう。
 職場は相変わらず仕事が多い。青木も閉庁だが出勤する。小泉係長と後輩の女子職員もきていた。信じられない忙しさだった。
 
 夕方、また弘子と会う。相変わらず厚化粧でおしゃれで、どこから誰が見てもきれいな娘だった。誰かに見られては困ると思いつつ、青木は立ち話する。
「○○さんに青木さんがよく話しかけているって聞いてますよ」
 弘子はまた、気になるバイト嬢の名前を出した。
「そうかな?」
青木は首をかしげる。
「ねえ、今度、テニスか飲み会でもどう?」
「そういう、おいしいところだけ……」
青木がまじめな気持ちでなく、遊びたがっているだけだ、とたしなめているらしい。確かに誘えば、それなりに反応があると高をくくっている。
 
 5月晴れの日に、職場のソフトボールの試合が、市の郊外の運動場で開催された。
由美は、かつての関係者として総務課のチームの応援に来ていた。青木は再びその姿を見ることができて喜びを感じ、ずっと眺めていた。
 
 青木のアパートでは、隣家の若夫婦に子どもができた。赤ん坊の泣き声が、時々聞こえるようになった。1年前の4月に、青木とともにアパートに入居した若夫婦だ。
 職場では、隣に座る後輩の男性職員のところにも子どもができた。
同年代の人々が結婚して子供を作っている間に、自分は何をしていたのだろうかと青木は思う。本を読み、ものを考え、スポーツをし、旅行し、若い女性と遊んでいたか。そして、今でも一人で暮らしている。
自分は何をやっているのか。どういう存在なのか。世の中は確実に動いている。自分はいつまでも変わらない。それとも、他人のことなど気にする必要はないのか。気にしても何の得にもならないのか。
 
 青木は結婚相談所の見合いで、前回からしばらく間をおいて、経歴書の紹介で都心に出かけた。一流ホテルのロビーで相手の恵美嬢と待ち合わせ、一緒にデパートの中を見て回った。
 恵美嬢は26才で、背が低くて、太っていた。東京の郊外に住み、不動産の会社に勤めていた。父親は日本で屈指の大学を卒業していて、翻訳業を営んでいた。姉は薬科大学を出て、薬局に勤めていた。高齢の祖母と同居していた。
 落ち着いていて、好感の持てる人だったが、青木は交際する気にはなれず、すぐに断った。
 


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