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羽田空港方面へ歩く

近年わたしの主な歩くルートは浅草からお台場周辺の隅田川沿いだったのだが、参加メンバーからの提案があり、羽田空港周辺エリアを歩いてみることにした。

そもそも歩くルートを浅草からお台場エリアに絞っていたのは、単純に住んでいる家からアクセスしやすいというのと、体験を積み重ねることで場を稽古場にするといった狙いもあった。実際通い続けてみると、隅田川沿いの遊歩道に降りるとからだのスイッチが入るようになった。
それはそれでおもしろいが、人を誘ってみるとこうした自分だけでは生まれない展開がある。
ということで、東京モノレールの流通センター駅から羽田空港方面に向かって歩いてみることにした。

浜松町で東京モノレールに乗り換える。
東京モノレールは普段ほとんど乗る機会がないから、それだけでちょっとワクワクする。席の形が変わっていて窓側を向いた高くなっている座席に座りたかったがスーツケースを持った旅行者たちで埋まっていた。

大きなビルの向こうに海の見える開けた景色が面白くてずっと窓の外を眺めていた。車両がたびたびななめになるので景色の切り取られ方が変わる。見える建物すべての規模が大きくて変な感じだ。
羽田空港まで行ってしまったと参加者から連絡がはいる。わたしも乗り換えの時に迷って少し遅れていた、乗り慣れない電車あるあるだ。
無事に駅で全員が集合してから、どちらが水辺だと困惑しながらも歩き出す。

水辺に出れると、やはりまた知らない景色が広がっていた。物流の気配、小さな船が通り過ぎていった。なんというか、東アジアといった感じだなと思った。

初めて歩くエリアだったのだが、結論をいうとこのあたりの水辺は工場があり人が歩ける道はあまりなかった。水辺に出られないところは大きな道路を歩いた。トラックの行き交う道路や橋、工場地帯をちまちまと歩いていくのは不思議な心地だった。小さな川を渡ると突然住宅地が現れた。
羽田空港に近づいたあたりで地図にない水辺の遊歩道を発見し、飛行場と合わさってとても広い空間を歩けた。


こうして歩くことで、目指している感覚がある。開かれていて、内外が繋がり境がなくなるような状態・体感だ。
この純粋歩行会で参加メンバーみんなでかかげる目標はない。これはあくまでわたしの個人的な狙いだ。
こうして目標とする感覚を具体的に意識し始めたのは数年前からで、それよりずっと以前から悩んだり落ち込んだり暇な時でもなんでも一人で水辺を歩くというのは習慣のように行なっていた。
わたしにとって水辺をただただ歩くというのはものすごく個人的であり精神的な行動だった。

なのでいまこうして人を誘って歩くことは、人生の大半ひとりで保持していたものを共有しているような心地になる。誰にも見せたことのない、奥底の雪見だいふくのような、ふにふにとしたもの。それが外気に晒され優しく触れられている。
この「ただ水辺を歩く」という行為を大切にしてくれている一緒に歩く人たちがいるのは素直に嬉しい。

いま読んでいる本、「分解の哲学ー腐敗と発酵をめぐる思考」(藤原辰史著)から自分の活動を考えてみる。
自分の活動は分解のように思える。即興の踊りも、この歩く行為も。
そうやって考えるとなにやら理解が深まりそうだ。
「ただ歩く」というこの非生産的な行為。その場にいることで空間と連結し、場を一歩一歩咀嚼し、分解していくようではないだろうか。そうすることで変化していくなにか。内面も外界も発酵し、そこに熱が生まれていく。東京の水辺がほかほかと自分と同じ温度になり、関係していく様を想像した。

いただいたサポートはダンス公演などの活動費として使用させていただきます。