読書記録・2010/08/29「人間の集団について-ベトナムから考える-」を読んで

2010年8月29日
司馬遼太郎著「人間の集団について-ベトナムから考える-」を読んで
著書の舞台はベトナムであるが、読みながら同じ東南アジアであるフィリピンを重ね合わせずにはいられなかった。
世界には、各地に違う民族がいて、違う人間の集団がある。そして、その民族を構成する人間の能力は、それが属している社会の質に影響すると著者はいう。これは、それぞれが違う文化、違うものの見方、違う価値観という、それぞれの土台に立ち、その社会で必要な能力やよしとされるものを身につけようとすることであると思う。そのようにして各人が属する社会の質の影響をうけながら、長い年月にわたり経験を蓄積して人は生きているのであろう。
そういう集団の中に、外部から新しい価値観がもたらされたら大きな変化が起こる。新たな価値観は時に、取り扱いきれないものであったりして、これまであった社会にひずみを生むことにつながりかねないと思う。
また、それとは逆にして、独自の文化の中に閉じこもってきたある民族が、世界的な潮流の中で自立しようとするとき、普遍性にあこがれる。さらにこの普遍性を積極的に集団の中に取り入れようとすると著者はのべている。これまで全く経験のない普遍性を自ら集団の中に埋め込もうというのである。
独自の文化の中に閉じこもってきたある民族にとっての普遍性または新しい価値観というのは、本著においては、ベトナム戦争における資本主義や兵器だという。兵器から飛び出す砲撃団の効果には民族的優劣がないというこの平凡でしかも強烈すぎるほどの普遍性への感動、その感動が内部へ入り込んでの実感が彼らの中の民族的自覚を呼び覚ますという結果になった、と著者は述べる。兵器というこの普遍的思想による戦慄的習慣から離れがたくなってしまっているというが、それはとてつもなく恐ろしいことである。
兵器だけではなく、資本主義を何の見境もなく是として取り入れていくことについても、一度足を止めて考えてみる必要があるだろう。著書では、ベトナムはちょうど日本でいう江戸時代を終えたくらいの時期であり、その中に突然資本主義を取り入れていけば、いたるところでひずみが生まれてくるであろうとのことが書かれている。
国を超えて、地球規模での交流や通商が盛んとなった現在、他の地域の価値観を阻止するということはできない。
ただ、それぞれの人が自国の文化や生き方を考慮して選び取っていくことは可能である。
自分の生き方に向き合い考慮するという意味で賢くありたいと思うし、そのように考える人が世界に増えることを願う。

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