読書記録・2010/07/26「脱学校の社会」を読んで

2010年7月26日
イヴァン・イリッチ著「脱学校の社会」を読んで
著者の主張はこれまでの私の考え方に一石を投じるものであった。
私の考えとは、学校は社会を作る基盤であり、その学校教育を改善していくことによって、民主主義を実現し、社会全体を住みよいものにかえていく、というものである。
著者は、社会が制度化されていること、物の増産と消費だけがすべての人間の生き甲斐のようになってしまっていること、またそれによって自分たちの首を絞めていることに疑問を投げかけている。またさらに、学校教育はそれを推し進める一つの機関であり、この社会の中に一つのパーツとしてはめ込むことができるような人間を教育していくという機能をもっているというのである。パッケージ化され受動的かつ強制的な学校教育によっては自分で知識をつかみ取っていくという態度をつぶしてしまい、本当の意味での学ぶことを知らずして成長してしまうという。
著者は、学習にはアドバイスをしてくれる師や互いに議論をしあえる仲間がいるといったその人をとりまく環境と、どんな人でも簡単に学習資料にアクセスできるようにすることこそが重要であると述べている。
学校制度によって人は制度化された社会に適応するように教育されるという著者の意見について、非常に共感できる。私は、民主主義を実現した住みよい社会にするためには、どのような学校教育によって子どもたちを教育していけばいいのか、と学校教育を基準にしてものごとを考えてきたが、著者の主張により、学校教育という制度そのものの是非を自分に問いかけることとなった。
学習とは、人から受動的に教えられるものではない。自分自身で、浮かび上がってきた疑問についての答えをさがし求め、それを発見するプロセス、そして発見したものこそが学習である。学習の場は教え込むという洗脳の場ではないということを本著によって戒められることとなった。
しかしながら、未だ私の中で意見がまとまらないでいる。
基本的な知識はたとえ子どもに興味が湧いていないように見えても、段階的に教え込んだり、興味を喚起させることは必要であると思うし、これから社会の中で生きていくために必要な知識を獲得できるよう様々な角度から情報を与えることも必要であると思う。
そう考えると基礎教育の義務はやはり必要であり、そのために本物の情報を提供できるような教師を養成していかねばならないと思う。
著者ののべるような解放された学習は、基礎教育の現場ではなく、はやければ中学校、高等学校や大学で適応できる考え方ではないだろうか。
いずれにしても、学校に行って勉強を教えてもらう、という受動的な学習態度を養成するのはよしとすることはできない。
今後は著者のいうような解放された学習形態も視野に入れ、どのような教育を実現していけばいいのか、熟考していきたい。

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