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目醒めってな〜に?

我が家は、月に一度、父親が信仰している宗教の人がくる日がある。
お茶を飲んで、世間話をして、お祈りをして帰ってゆく。
昔は、その人に会いに近所のおじさんやおばさんが来ていた事もあった。

たった月に一回。
お茶を飲んで世間話をして帰ってゆくその人に、親はお供えという名目のお金を包んでいる。

私は、
これに何の意味があるのか。
(口が裂けても言えないけれど)そのお供えは無駄ではないのか。
母は何年か前に、もう嫌だと言って脱退したけれど、父は未だ、自分の親の代からのものだからと、続けているが、本当に信仰心があってやっているのか。
不思議だった。



全ては自分と繋がっている

そう考えると、月に一度だけ来るその人は、ただただ世間話をすることで、父や近所のおじさん、おばさんに必要な言葉を届けていたのかも知れない。

逆にいうと、自分の周波数に合う言葉を聞きたくて、父は信仰しているのかも知れない。

お供えと言って渡すものは、「感謝」なのかも知れない。


私たちは、死ぬと、天国や地獄があると教わって(ただ刷り込まれて)きた。
地獄に行きたくなければ、良い行いをしなさい。
天国は本当に良いところですよ〜 と。
そうやって、私達は「善い」「悪い」を勝手に刷り込まれ、その中で自分に規制をかけている。

けれど、本当はそんなものは無い。

ただ、身体を地球へ還し、魂は、輪廻転生もしくは、他の次元へいく。

「目醒め」とは何か?

ずっと、ずーっと疑問だった。

最近よく聞く目醒めとは、スピリチュアルな力を皆が使えるようになる事なのか?

目を醒ます とは、一体何なのか?


私達は、元々、何でもできる、何もしなくてもいいし、どこにでも行けてしまう光の存在だった。

皆この3次元世界で、
例えば、10本しかない手を使って、
ピアノを弾いてみる。どんなに頑張っても、奏でられる音は限りられる。
この、「限りある」ということを体感する為に来ている。

でも、限りあることに縛られすぎて、
本来の自分を見失っている(本当は何でも出来るのに、しても良いのに出来ないと思い込んでいる)。
お金が・・・
時間が・・・
家族が・・・
仕事が・・・
体が・・・

そんなことを言いながら、いつも自分自身を勝手に縛り付けている。

だから、本来、なんでも出来る、何にでもなれる自分を
思い出していく
それが「目醒め」ということ


そう、スピリチュアルの先生に教わると、何だかとってもしっくりきた。


私が今まで経験してきたことは全て自分で経験したかったこと。

でも、その経験(記憶)によって今の自分を縛らなくてもいい。

これから経験することの結果が同じになるとは限らないし、
もっと笑える結果になるかも知れない。

「悩む」暇があったら「動いてみる」

多くの人が使い古した言葉だけれど、

そういうことだったのか、
と、ようやく納得😊


いつもありがとうございます。私の言葉が、少しでもお役に立てたら幸いです。