「千年前の言葉の生まれ変わり」に出会った話
言葉は生き物だ。
次々に生まれて、しれっと変化して、ひっそりと死ぬ。
もちろん、私とて生き物であることには違いないので、日々変化しながら生きている。
言葉の世界で生きる自分の変化として大きかったのが、「若者言葉が分からなくなった」のを自覚したこと。
中高生が通う塾で働いているため、身近には若者言葉が溢れている。
生徒が授業の感想を書く紙があるのだが、そこには個性豊かな若者言葉が並ぶ。
そして、いつからかそれについていけなくなった自分を自覚した。
今までは、若者言葉(含:ネットスラング)が分からないなんてことはなかったのに!
「激おこぷんぷん丸」
…とりあえず、怒ってるということで良いんですかね?
「まじ卍」
…意味不明。後に友人から「シニフィアンの戯れだから、気にするな」と説明された。
「エモい」
…これである。初めて出会ったのは5〜6年前か、もっと前だろうか。「エモい」って何?!形容詞であることは分かる。「エモーション」から派生したんだろうな、ということは分かる。でも、自分が何かの現象を見聞きしたときに、いつ「エモい」と表現するべきか分からなかった。
現に若者である生徒や、それらを理解できる人からすれば可笑しくて仕方ない話だろうが、とにかく私は「エモい」に心乱された。腐っても国語講師。自分の中に内在化できない言葉があると、ソワソワしてしまうのだ。それに、音声的な楽しさから派生したであろう「マジ卍」みたいな、情報量が極めて軽そうな言葉に比して、「エモい」は、「エモいもの」と「エモくないもの」に世界をハッキリと分ける力を持っている「強い言葉」のように思えたのだ。
「『エモい』って知ってます?」と会社の同僚たちに聞きまくった。
多かったのが、「知っているけど、意味は知らない」。
だから、聞き方を変えた。
「『エモい』って使います?」と。
ほとんどの同僚が「使わない」という中、当時25歳くらいだった後輩君が「使いますよ」と答えてくれた。
そこから、たまたま同席していた先輩とともに質問攻め。
「エモいっていうのは、『感情を動かされる感じ』で合ってる?」
「〇〇っていうシチュエーションはエモい?それとも人による??」
「じゃあ、〇〇っていうシチュエーションは?」
後輩君は一問一答、丁寧に答えてくれた。
…でも、分からなかった。
シチュエーションごとに「エモい」を使うべきか否かについてのハッキリとした線引きを自分の中に構築できなかったからだ。
「…自分の感性は、とうとう若者と断絶されてしまった…!」
軽いショックを受けた。
私の母が、私の読んでいるファッション雑誌をめくって、「今はこんなのが流行っているのねぇ」としみじみと言っていたものだから、そんな、若者の世界を遠くから見つめる側に私も来てしまったのか、と。
そして私は、「エモい」の理解を一旦は諦めた。
時折り、ネットメディアで見る「エモい」も、「この記事を書いている人は、ここで『エモい』と思うのね」と軽く流した。
しばらくして、娘を妊娠・出産。
世間と隔絶されたワンオペ子育ての中で俳句を始め、「歳時記」(←季語と、それを用いた俳句が掲載されている本)を買った。
歳時記の中に、こんな俳句を見つけた。
来し方の美しければ日記買ふ 赤松蕙子
「すごく良い…!」と思った。俳句の技術的な事は何も分からなかったが、一枚の絵が自分の中に出来上がるような句だと思った。
日記売り場に居る1人の女性。彼女の心の中には、光を受ける万緑みたいなキラキラした思い出がいっぱい詰まっている。「こんな日々が続きますように」と、祈りに似た気持ちを抱いて彼女は日記を買おうとしているんじゃないかーー。
心の中に静かに沸き上がる、「なんか、良い!」。ノスタルジーを掻き立てられるような感じ。
「もしかして、これを『エモい』と言うのかな…?」
自分の中で「エモい」の一事例を得た瞬間だった。
そして、しばらくして見つけたネットのある言説。
清少納言の「をかし」は今で言う「エモい」。
ストン、と何かが心の中に落ちてくる音がした。
そうか。国語講師である私は、実はずっと「エモい」を知っていた。
古文の授業で散々教えてきた「をかし」。時代と社会と、人々のメンタリティの変化に合わせて、「をかし」は「おかしい」になり、情緒的な面が欠落したように思っていたけれど、1000年近い沈潜の後で「をかし」の情緒的面を引き継ぐ言葉が生まれてきていたのだ。(今思えば、「エモい」には、若干「あはれ」の感も含まれていると思うが。)
表記面の問題もあるからか、「エモい」はフォーマリティーの高い言葉とは認められていなさそうだ。
でも、次々に生まれては消えていく言葉があるなかで、「エモい」はそれなりの息の長さを持っているように思う。
1000年以上も前から、私たちのメンタリティに根ざしたものをたった三音で表現しているのだから、当然といえば当然かもしれない。
言葉は次々に生まれて、しれっと変化して、ひっそりと死ぬ。
これからこの言葉がどんな風に変わっていくのか。私が見届けられるのはせいぜい50年程度だと思うが、観察しておきたいと思う。
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