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神楽は共同知であり、地域で生きるしあわせを生み出す要素かもしれない

先日、太田剛先生が椎葉村で講演を開いてくださって、面白いことを教えてくださいました。
知識には、個人知と、共同知と、世界知があると。それぞれはこんな感じ。

個人知:おばあちゃんが知っているおいしい漬物の漬け方。
共同知:神楽(神楽の舞い方、飾りつけ、料理)
世界知:本

神楽が共同知であるという概念が面白くて、あれこれと考えていました。

年に1回の神楽は夜通し舞われるのですが、とにかく難しい。パッと見て覚えられるような代物ではなく、注意深く観察しても、なにをどうやって覚えたのだろうと思うほどの複雑で覚えにくい動き。

「あれ、どうだったっけ?」と大半の人があいまいに覚えているけれど、その中に一人は「こうだった」と覚えている人がいて、地域全体で記憶を補い合っている。これこそ共同知だと思いました。(もちろん、みんなが覚えている部分もありますけれど。去年と同じ状態を目指すにあたり、欠落した部分を覚えている人がいる割合はこんな感じでした。)


実際に神楽の準備に参加するまでは、大半の人が伝統をきっちり覚えていて、一人二人があれ?と言っているイメージでしたが、逆でした。(それもおもしろかった!)


共同知のおもしろいところは、その忘却が個性も生み出しているんだろうと思えたところ。

椎葉神楽は全部で26か所で奉納されており、その個性は地域の人柄が出ていると言われますが、それは、共同知だからそうなったのではないかという仮説も立てられます。

新しい概念に出会うのは面白いなぁ。

共同知を使う場面があるのは人間の幸せと直結しているという点も面白かった。

地域の人とのつながりを確かめることができて、共同知としての神楽を作り上げる上で、記憶を補完し合う一人であることがそう感じさせるのではないかと思いました。

舞だけでなく、女性陣の食事の用意を見ていても、それぞれが少しずつ専門性を発揮して準備しているのが伺えました。”蕎麦はこの人しかできない”というほど大きなものではありませんが、出汁とり名人がいたり、火の管理が得意な人がいたり、まさに共同知。一人ではこの味は生み出せないことがよくわかりました。

私が椎葉村にきて幸福度が増しているのも、この共同知に触れているからかもしれないと思いました。都会で自分が共同知の一部であると実感できる場面はそうそうありませんから。

自分の小さな力が地区の役に立っている感覚は心地がよくて、今のところ椎葉村から出る理由がないなぁと常日頃思います。

この共同知というものは、忘却とセットだから美しいのかもしれないなぁ。

この幸せ体験を椎葉村に住んでいない人にもシェアしたい…関係人口創出事業でも取り上げたいテーマではあるのですが…

共同知であるからこその難しさも感じました。共同知であるということはつまり、リーダーシップをとって決めてきたものではないということでもあり、これまでの伝統を覆しにくい、この行事が成り立っているのが、トップダウンの組織構造ではないことが新しい風を取り入れていいものかを判断できる人がいない状況を作り出しているような気もしました。

人口減少で神楽の継承に危機的状況を迎えている地域でなければ、新しい風を受け入れる必要性や重要度がまだ低く、今のスタイルで継承していく方が選択されていくんだろうと思いました。


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