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『ビッグ・シック』新たなアメリカを生むための痛みと笑い

『ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ』The Big Sick 2017年 監督マイケル・ショウウォルター

 2017年の夏休み、スーパースター主演の製作費1億ドル級の超大作がひしめくなか、ほとんど無名の俳優ばかりの、わずか500万ドルで作られた低予算コメディ『ビッグ・シック』が4000万ドルを超えるヒットになった。
パキスタン出身でシカゴに住むコメディアン、クメイル・アンジアニがエミリーという白人女性と恋に落ちて結婚するまでの体験を、クメイルとエミリーの夫婦が共同で脚本にした。
 そんなささやかな映画に、なぜアメリカの観客が集まったのか?
ひとつには、ここ数年のインド&パキスタン系コメディアン・ブームが背景にある。だが、その前に、アメリカにおけるインド&パキスタン系移民の歴史について説明しなくては。
 インド&パキスタン系移民は、他のアジア系移民と同じく1980年代から増加していった。アメリカで最も広く知られているインド系アメリカ人は、1989年から続くTVアニメ『シンプソンズ』でコンビニを経営するアプーというキャラクターだろう。アプーは夜も昼もいつも店にいて、いつ眠ってるのかわからない働き者。インド系移民は他のアジア系移民と同じく、最初はコンビニやタクシー運転手など、きつい深夜勤務の仕事についた。だから映画やテレビにはインド系のタクシー運転手もよく登場する。たとえば『デッドプール』のように。
 アメリカ人のインド&パキスタン系に対するイメージは「勤勉で真面目で礼儀正しい」。だから、彼らはモデル・イミグランツ(移民のお手本)と呼ばれてきた。
 しかし、アプーのようワーキングクラスのインド系はもはやイメージとして古すぎる。
 2015年の国勢調査によると、インド系アメリカ人の年収の中間値は103,821ドルと一千万円超え。2位のユダヤ系を抜いて全民族中トップ。なぜなら、医者、金融、IT系に多いから。グーグル、マイクロソフト、アドビのIT3大手のCEOはインド系だ。学歴も高く、インド系アメリカ人の45%以上が修士以上の学位を持っている。
 パキスタン系の成功者ではシャヒド・カーンがいる。トヨタ自動車のバンパーを製作するフレックスンゲイトのCEOで、世界の大富豪158位にランキングされている。
 アメリカ映画におけるインド&パキスタン系のイメージも変わった。最近は『ジュラシック・ワールド』の経営者のような化学にIT長者役が多い。テレビでも、インド&パキスタン系のエリートをメインキャラに持ってきた番組が人気を集めている。『ミンディ・プロジェクト』は女医、『ビッグ・バン・セオリー/ギークなボクラの恋愛法則』はカリフォルニア工科大学の研究者、それに『シリコンバレー』ではコンピュータ・プログラマー。実はその三つとも演じているのはコメディアンで、三つ目は『ビッグ・シック』のクメイル・ナンジアニの当たり役なのだが。
 ここ数年、インド&パキスタン系コメディアンが増えている。いちばんの売れっ子は『マスター・オブ・ゼロ』のアジス・アンサリと『ミンディ・プロジェクト』のミンディ・カリング、その他、カル・ペン、ラジヴ・サッチャルなど数え上げたらキリがない。
 彼らのスタンダップ・コメディのネタの基本はインド&パキスタン系家族あるある。「うちの親父は成績オールA以外許さないんだ。俺の血液型がBだと知って勘当しようとしたよ」みたいな教育の猛烈さで笑わせる。実際、ここに挙げたコメディアンたち全員の親が医者やエンジニアで、彼ら自身も一流大学に進学している。でも、親が望んだ道から外れて自分の夢を選んだ。真面目で勤勉というインド&パキスタン系のイメージと正反対のお笑い芸人になろうとした。
『ビッグ・シック』のクメイルの父も大金持ちの医者。クメイルは親の反対を振り切って、芸人を目指した。コメディ・クラブのギャラだけではまだ食えないので、Uberの運転手として働いている。つまり医者とタクシー運転手というインド&パキスタン系のステレオタイプの間でもがいている。
 もうひとつのインド&パキスタン系あるあるネタがアレンジド・マリッジ。彼らは両親によって決められた相手と結婚するのが伝統。結婚式まで相手に会わないことさえよくある。クメイルの両親もしつこく見合いを薦めてくる。美しく、学歴も家柄も申し分ないお嬢様ばかりだ。
 でも、クメイルはエミリーを好きになってしまった。でも、エミリーは白人。しかも保守的な南部出身だ。どっちの両親も許してくれはしないだろう。
 ぐずぐずしているクメイルに怒って出て行ったエミリーは謎の菌に感染して昏睡状態に陥る。ビッグ・シック(大病)だ。ER(救急救命室)でエミリーの保護者としてサインしたクメイルは、エミリーとの将来の決断に迫られる。
 そしてエミリーの両親が観ているステージでクメイルは「ISISだ」「テロリストだ」と野次られる。911テロ以降、浅黒い肌の人々が世界中で言われていることだ。クメイルのようなイスラム教徒はインド系アメリカ人の1割にすぎず、5割はヒンディーなのだが、傲慢な白人たちはイスラムもヒンディーもシーク教徒も、パキスタン系もインド系もアラブ系も、みんな一緒にテロリスト扱いして、酔っ払って絡んだり、殴ったり、撃ち殺す事件すら起こっている。それはドナルド・トランプ政権下で悪化している。
 だが、インドやイスラム系のコメディアンが増えたのも911以降なのだ。かつてアメリカのコメディアンはユダヤ系かアフリカ系だった。差別され迫害されたマイノリティは、それを笑いのめすことで社会の矛盾を突く。
「『悪いのはテロリストであって、普通のイスラム教徒を憎んではいけない』と言ったのはブッシュ大統領だったね」アジス・アンサリ(両親がイスラム教徒)は、トランプが大統領に就任した翌日、テレビ番組『サタデーナイト・ライブ』に出演して、嘆いた。「すべてのイスラム教徒の入国を禁じるというトランプが大統領になった今ではブッシュが賢人に思えるよ」
 就任したトランプが最初にしたことは、イラク、シリアなどイスラム教諸国からの入国全面禁止令発布だった。全米の空港でアラブからの人々がグリーンカードを所有していても入国を拒否され、空港に泊まることになった。彼らを救ったのはACLU(アメリカ自由人権協会)。無償で弱者のために戦う弁護士たちの団体だ。ACLUへの寄付を集めるため、
 インド系イスラム教徒のコメディアン、アーシフ・マンドゥヴィはイスラム教徒やメキシコ系のコメディアンを集めたイベント「オールスター国外退去まつり」を開催した。
 また、毎年4月に行われるホワイトハウス記者クラブの晩餐会では、その時いちばん旬のコメディアンが呼ばれて大統領の隣で大統領をからかうスピーチを披露するのだが、今年選ばれたのはインド系イスラム教徒のハサン・ミナジだった。
「移民はいつも誰もやりたがらない汚れ仕事をやらされるんです」
 ステージに立ったミナジは肩をすくめた。その隣にはトランプはいなかった。「どうせ私をバカにするんだろ!」と晩餐会をすっぽかして自分の支持者集会に行ってしまったのだ。
「我が国のリーダーは残念ながらここにはいません」ミナジは言った。「ロシアにいます」
 トランプはロシアのプーチン大統領に操られていると皮肉って満場を爆笑させた。
 インドやイスラム系のコメディアンがなぜアメリカで人種や民族を超えた人気を集め、『ビッグ・シック』に観客が押し寄せたのか? アメリカ人はみんな移民だ。アイルランド系もイタリア系もユダヤ系もみんなかつては差別と偏見に苦しんだ。民族の内側では、伝統や家族や宗教の抑圧に縛られた。

 だがクメイル、は自分の意志と愛でそれらを振り払い、自由な個人として生まれ変わる。エミリーの病気(ビッグ・シック)はそのための生みの苦しみで、クメイルの経験は、すべてのアメリカ人に共通する物語なのだ。

(劇場用パンフレットから転載)