『天才作家の妻 40年目の真実』最大の見せ場はグレン・クローズの表情
『天才作家の妻 40年目の真実』The Wife 2017年 監督ビョルン・ルンゲ
『天才作家の妻 40年目の真実』で、グレン・クローズは、今度こそアカデミー主演女優賞を獲るかもしれない。映画女優としてデビューして36年目、助演と主演で過去6回ノミネートされたが惜しくも受賞を逃している。
グレン・クローズは、映画デビュー作『ガープの世界』(82年)でいきなり助演女優賞候補になっている。主人公ガープの母親役で、戦場で脳を損傷して「ガープ」という声しか出せない兵士にまたがってガープを妊娠する。彼女は男にも女にも恋愛や性欲を一切感じない、いわゆるアセクシャルで、ハリウッド映画には前例のない難しい役を見事に演じた新人クローズは世間を驚かせた。
その時、クローズは既に35歳だった。それまで舞台で活躍していたが、そもそも演技を志したのが22歳過ぎと遅かった。それは複雑な育ちのせいである。
クローズはアフリカのコンゴで少女時代を過ごした。父ウィリアムがコンゴ大統領の主治医だったからだ。その後、家族はスイスに移るが、1976年に当時は謎の奇病だったエボラがアフリカで流行すると、ウィリアムは命がけでコンゴに戻って感染を食い止めた。
父は MRA(道徳再武装)の熱心な信者だった。MRAはキリスト教保守の反共運動で、グレン・クローズ自身によると「一種のカルト」だという。彼女も布教のために歌手として世界各国を回っていたが、22歳で脱会して大学に入り、演技を学んだ。「演技は自分にとってカルトからの脱洗脳だった」と彼女は繰り返し語っている。そのような経歴のためか、クローズは何重もの層をなすキャラクターの演技を得意としてきた。
クローズは『ガープの世界』、『再会の時』(83年)、『ナチュラル』(84年)でデビューから3年連続で助演賞にノミネートされた後、87年の『危険な情事』のアレックス役でセンセーションとなる。彼女はマイケル・ダグラスの浮気相手だが、彼が手を切ろうとするとストーカーと化し、彼の家族を脅かし、ついには彼の妻を殺そうとする。クローズはアレックスの狂気だけではなく、その孤独や悲しみを共感を込めて表現し、ギリシア悲劇のメディアや能の道成寺の清姫のような壮絶なヒロインに昇華させ、初のアカデミー主演女優賞にノミネートされた。
翌年の 『危険な関係』(88年)でもセックスを武器に人の心を操る貴婦人の邪悪さと心の奥底の虚無を演じて主演賞にノミネートされた。これでしばらく強烈な悪女のイメージができてしまったが、2010年に自ら製作・脚色・主演した『アルバート氏の人生』では、男性社会から身を守るため、男性としてひっそり生きてきた女性を静かに静かに演じ、今度こそ主演女優賞間違いなしと思われたが、惜しくも親友のメリル・ストリープの『マーガレット・サッチャー鉄の女の涙』にオスカーをさらわれてしまった。
そして『天才作家の妻』である。クローズが演じるジョーンは、作家ジョセフ・キャッスルマンを40年にわたって支えてきた妻で、我が子にすら言えない秘密を隠している。だからクローズはセリフではなく表情だけで語る。ノーベル賞受賞の知らせを知った時、一緒に受賞した科学者の妻を紹介された時、授賞式で夫が「言葉の達人」と称えられ、国王から勲章を受けた時、夫が壇上で妻に感謝した時、どれもクローズは表情だけで物語を語っている。それが彼女以外にできるだろうか。
逆に夫ジョー役のジョナサン・プライスは常に落ち着きなくしゃべり続け、歩き回り、何かを食べ続けている。教授時代に彼は「作家は絶えず書き続けてないと飢えてしまう」と言うが、彼自身は書く代わりに欲望のままに食べ、女を追いかける。それにじっと耐えるジョーンは、言葉に出せない愛や名声の飢えを小説で吐き出す。
妻が夫のゴーストライターだったといえば、2014年のティム・バートン監督作『ビッグアイズ』を思い出す。妻マーガレット・キーンが描いた絵を「女の名前じゃ売れないから」と夫ウォルターが自分の作品として発表して名声を独り占めしていた事件の映画化だ。
だが、『天才作家の妻』はもっと複雑だ。ジョーンは最初の小説もジョーの前妻について書いたもので、夫の名前で出したデビュー作『クルミ』も夫が自分の体験を基に書いた小説を書き直したもの。その後の作品も、夫の母や女性との関係にアイデアを得たものばかり。夫は受賞の挨拶で「妻は私のミューズです」と感謝するが、実は、ジョーこそジョーンのミューズだったのだ。メアリー・シェリー、フリーダ・カーロなど、芸術において夫の作品を超えた妻たちは、夫に対する批評や愛憎がその創作の源になっている場合が多い。
ただ、これは芸術家の夫婦だけの話ではない。クローズはインタビューで「これはすべての夫婦についての映画です」と語っている。
ジョーンはナサニエルの推理を否定するが、それは秘密を守るためではない。
開いたノートの白紙のページに手を置いたジョーンの目は輝く。言葉がとめどなく湧き出しているのだろう。今までのような夫の物語のためではなく、天才作家の妻の物語のために。
そのグレン・クローズの表情こそ、どんなスペクタクルも及ばない、この映画の最大の見せ場だ。(劇場用パンフレットから転載)