身体性から溢れる情熱が出発点なのだ!ーCOTEN RADIO 番外編を聞いて #0099
「なんだかわからないけど、ついやってしまう衝動」みたいなものを、誰しも持っていると思うんですよね。
今回のCOTEN RADIO のこの番外編、この辺の話を「そうだそうだ!」と話してくれて、とても良かったです↓(前編は人を選びそうなので、中編を添付w)
自分にもヤンヤンさんと同じような体験があったので、この番外編の内容はとても響きましたよ、ええ。
詳しくはぜひ聞いてもらいたいのですが、わたくしが受け取った内容は「経済的合理性の外側にいる、身体性で生きる人たちにも当たり前に価値があって、『そうだよね!』と思う人たちでゆるく連帯しよう」という話でした。
「身体性」が大事になってくる、という話をされていましたが、これは実感を持って「そうだ!」と言えるんです。
自分の一番の転換点になったのは30歳前後の頃。特にデンマークの学校に行って実感しました。ここでフィジカルな表現の重要性を「思い出した」のです(これは後編で書きますな)。
身体性というのはつまり「衝動」とか「情熱」のようなものだと思っていて、この衝動に正直な人々が「クリエイティブな人」として街を変えていくとわたくしも思っております。
そして思ったのが、クリエイティブな人々というのは自分の専門の庭に寄せて言うと、「パイオニアプランツ」なんだよなーということでした。
パイオニアプランツとはなんぞや
例えば、マツやニワウルシ、オニグルミなんかがありますが、要するに「何もないところに真っ先に生えることができる植物」です。
非常に生命力が強くて、一気に成長、繁殖するので、人間界からは嫌われがちな方々ですな。逆にそれを利用して、マツ林を防風林に仕立てているわけです。
しかし面白いのは、このようなパイオニアプランツがいることで、鳥が来て日陰ができることで、低木類が充実し、土を肥沃にして、別の植物のタネが育って多様性が生まれてくるのです。植生が多様になってくると、次第にパイオニアプランツは消失していき、やがてより多様な「森」に育っていく、というのがざっくりとした植生の変遷なのです。
で、自分もこの「森」を作りたいんだよなーと思うのです。
パイオニアになり得るクリエイティブな人々
街が発達する変遷というのも植物界の変遷と似ていて、アーティスト層がまず、寂れて家賃が安いけど面白そうな場所に集うと言われています。そこに面白そうだ、と飲食店が集まり、家賃が上がっていくと次第に街が整備されて、家族づれなどが住む、、という流れです。
わたくしが好きなブルックリン系の音楽が生まれたブルックリンも、かつて倉庫だけの治安の悪いNYのブルックリンから生まれてきた音楽でした。わたくしがニューヨークに住んでいた90年代なんて、ブルックリンなんて怖くて近づけなかったもんね、、。2000年代以降、ブルックリンはアーティストの宝庫になってすっかり街もおしゃれな感じになり、今やすっかりポピュラーな場所になったと言えます。
アーティストのような身体性を帯びた人々というのは、土地に根付くわけではなく、自分が面白いことややりたいことに集中しているので、結果その場が面白くなって、自分が面白くなくなったら出ていくものなんだと思うのです。
儲からないから価値が低いわけではない
COTEN RADIO で話されていたことで非常に納得感があったのは、「儲からないから価値がないわけではない」という話です。
そりゃそうだ、という感じもするかと思いますが、案外世の中そんなことないんだよね。「儲かっているから成功している」とか、「売れているからいいモノだ」って案外思いがちで、自分もそういうところあるよな、と思うのです。
だからなんとか売れるものを作ろう、と頑張ってしまいがちで(それはそれで悪いわけではないのだが)、そうなると一番困るのは、自分がやりたいこととか好きなものがわからなくなってしまうと思うんですよね。
今って、そういう人多くないですか??
ものごとのはじまり全ては、興味や情熱が発端だと思うのです。
子供を見てるとよくわかりますよね。何でこんなものが好きなの??と思う工作に一生懸命になっていますが、大事なのは作られたものの結果ではなくて、これを作りたい!とかこれが好きだ!という得体の知れない衝動みたいなものだと思うのです。
うまく言えればそれでいいのか
昨年、マーケットなどに出店していて思ったのが、コンセプトに寄ったものの方がよく売れて人が集まっている、という現象をよく見ました。あるいは、近所の飲食店なんかでも、味は「?」なんだが、環境のことを考えている感じの場所に人がよく集っています。
もちろん中には面白いものもあるのですが、コンセプト寄りのもの、つまり「うまく言った人」に人が集まる現象ってあるよなーと思うのです。
昔、実業家の原丈二さんがどこかで言っていた話で面白かったのは、ご本人が在学したスタンフォードで実感したのが、アメリカの大学は「喋り方教室」で「そろばん教室」だ、ということでした。つまり、いかにプレゼンしてよく見せるか、とか株価を高く見せるか、というテクニックを教える場だと。確か例として挙げられていたのが、マイクロクレジットの話。先に開発したNGOがあったにも関わらず、喋り方教室に行ったグラミン銀行が結局それをうまく広げてノーベル賞を取るに至った、というような話でした。
普及をさせるのに、うまくしゃべるが必要なこともあるとは思うのですが、それは根本的に世の中を良くすることなんだろうか、と思うのです。それも深井さんが言っていたように、「文化」でしかないということなんだろうな。
しかし、最近は「喋り方」の話ばっかりだよなーーと思うのです。
コンセプトを先に立てない、順序を間違ってはいけない
大事なことは衝動や情熱があるから表現がなされる、ということですよ。コンセプトを先に立てない。活動していった先に、必要であれば言語化すればいいだけで、大事なのは「なんかいい」とか「これが好き」というものを突き詰めていくことだと思うのです。
間違ってはいけないのは、例えば「こう言えば売れそうだ」みたいなコンセプトを先に立ててからスタートしちゃうことなんすよね。よく見るけど。
そこから何かを作ったりやったりすると、うまいことやろうとすることになってしまって、結果「それっぽい」ものができるだけだと思うのです。素晴らしい技術だって、まず情熱がないと継続的なパワーは出てこないと思うし、パワーは人を魅了します。それこそが自分自身の生きる価値だと思うんですよねーー。
そして、そう言うパワーこそがクリエイティブの源泉なんすよ、ホント。
敬愛する画家の大竹伸朗は、まさにこのエネルギーの塊だからこそ、わたくしは好きなのです。彼は、自分自身でも「何だかわからない」ものを衝動的に作り続けている人で、アーティストってのはこういう人だよなーーと実感します。
で。自分自身がどうなのか、ということをデンマークの学校に言った話を中心に、次回書いてみようと思います!
ではでは!