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「不協和音と反骨精神」

新しい地へ来て早くも2週間。相変わらず体調は変わらず。毎日20分バイクを漕ぎ、僅かですが体重も増えました。来たる日に向け、自分にできることを日々コツコツとやっております。

ありがたくも面会や差し入れはできるかの旨、たくさんお問い合わせいただいているのでこの場を借りて。基本的に無菌室は刑務所と思っていただけたら分かりやすいかと思います。外界と遮断する必要があるので「無菌室」となっており、コロナ禍で本来は家族ですら面会謝絶(これは現在多くの病院共通と思われます)ですが、こちらは1日1名家族に限り可となっております。

もちろん病室の外に出ることも基本NGで、トイレとシャワーなど最低限の行為のみに限定されています。だから病院のコンビニに行くなどという自由は、無事釈放されてからになります。当然食事もかなり厳密に管理されており、病院から出されるもの以外で食べて良いものは基本ありません。。。

みなさまの思いいつもとても励みになっております。本当にありがとうございます。


前回の「青いりんご」についで、今日も自分を鼓舞するパワーを自分自身に注入するために書きます。

川久保玲という人に会ったのは、京都の大学院を出て最初に入った内装の施工をする会社にいた時だった。施工のせの字もわからなければ、デザインがなんたるか。もっと言えば自分には何ができてどこに向かいたいのかもわからないただの25歳には、彼女の人間の本質を射抜いて来るような眼は驚異だった。

自分が生み出したいものを徹底して作り上げていく情熱と、怒りにも似たマグマのような、どんどん湧き上がって来るものづくりのパワー。口火を切るととても早口でその思いが連綿と語られる。それらの言葉はその当時まだ世の中に存在していなかったいわゆる3Dプリンターのような感じで、発せられる側から立体になっていった。あらゆる面の構成、色彩、音楽、においまでもがアウトプットされる時には完璧に作り込まれている。そんな印象だった。

ただそれは今こうして随分時を経てはじめて言語化できているのであって、その当時の私は日々彼女のいうことをノートに走り書きしスケッチに起こすことに必死で、俯瞰して見る余裕などなかった。でもとにかく毎日が刺激的で、川久保さんに会うたびにアメーバみたいに形を成していなかった私の骨格に配筋が施され、少しずつニンゲンとして形になっていくような。ビリビリ気まくる体験だった。

2004年青山骨董通り。きっとコムデギャルソンファンの方の中では伝説になっているだろう「Colette meets Commde des Garcons」というのが、その時関わらせて頂いていた仕事だった。

この頃川久保さんは、コムデギャルソン本社から数十メートル歩いたマンションの路面店で、定期的に期間限定のゲリラショップをやっていた。毎回テーマごとに内装も何も全て変える。今回はパリの有名なセレクトショップColetteとのコラボレーションということで企画されたものだった。

これも今思えばだが、きっと当時すでに川久保さんの頭の中には「DOVER STREET MARKET」の構想があったのではないかと思う。国内外、有名無名に関わらず彼女の琴線に触れた様々なジャンルのアーティストと掛け合わせてものを作る。多くは洋服として表現されていたけれども、オブジェから茶器、ボールペンや小さな箸置きのようなものに至るまでアウトプットはすでに無限大で、彼女らしい毒やユーモアに溢れたセレクトは、見ているだけでドキドキするものばかりだった。

私の仕事は彼女のイメージを現場の中に落とし込んでいくこと。内装施工監理として、業者さんを動かし空間を仕上げていくことだった。川久保さんは現場を訪れてはいくつかの細かい指示を出していく。昨日まで白かったものが急に黒になるというようなこともたくさんあった。半端なデザイナーがこれをやると当然現場で嫌われる。こねくり回した結果、仕上がりが悪くなることを職人さんは嫌うからだ。でも川久保さんが赤と言ったら赤。それは力関係でそう封じ込めるというのではなく、皆もその「赤」に変えることでさらに何かが良くなるのではないかというワクワクを共有できることを知っているからだ。ものづくりは一人ではできない。一方で人を巻き込み力を貸してもらうことは容易ではない。そういう野暮な世界を超越した圧倒的なところに川久保ワールドは展開していた。

あれから20年近く経って、この鬱屈とした時代に今、彼女が何を思うのか。滅多にメディアで話すことのない人から出てきたのは「不協和音」、違うものがぶつかるエネルギーを心地よいと思いたいという言葉だった。

https://www.youtube.com/watch?v=KTZvz1Tdh0E

悪い状態を強く前にいくパワーにしなければならない。「こんなことあっていいのか」という反骨精神をエネルギーに変えて進む。人間はハンディがあれば、苦しいことがあれば、それをバネにしてもっと前にいける力がある、

40年変わらずその一心でやっている人がいる。変わらないどころか年々その思いは増幅されていて、止まることなんてあり得ない。

私自身も今、ほぼ型の合っていない造血細胞という不協和音を手にしようとしている。互いにぶつかり合うことを身体へのリスクと捉えるのでなく心地よい変革なのだと捉えて、強く前へ進む力に変えて。今日も元気に生きる。

一線を超えた人が見る風景は、いつもどこか似ている。