見出し画像

映画『うる星やつら2』ビューティフル・ドリーマー

前回『異性の友達って。』という記事を書きました。「なんでこんなことが今になって思い出されるんだろう?」と思っていたら、その後「この映画を観る流れになっていたからか」と分かりました。「映画を観たから、過去のことが思い出された」という順番ではなく、「映画を観ることになっていたら、その内容はまだ知らなくても、このことが思い出された」ということが意識にはあるものです。私たちの意識は本来直線的な時間軸流れではないので。
ひとつ前の記事はこれ。

それで、その後観たその映画は、『うる星やつら2』ビューティフル・ドリーマー(1984年公開)です。この作品は、原作が高橋留美子、脚本・監督が押井守です。この作品に関して、高橋留美子氏が押井守氏に対して怒っているという話があり、作品を観たことがなかったので、「何に怒っているのかなぁ?いつか観よう~」と思っていました。

本編を観なくても、予告編動画を見るだけでも、「めっちゃ押井守や!」と思うのですが(今初めて見た)、この映画ではまるで主役?という活躍ぶりで出てくるのは、巫女であり保健室の先生であるサクラさんです。この記事トップ画像の女性ですが、それが、GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊 (1995年公開映画)の草薙素子↓の原型が、サクラ先生でもうできていたのかと思うくらいの目力とアングル。

攻殻機動隊・草薙素子

話もキャラも違うのに、初期から使われているこの表現は、押井守監督にとって、どういうものを象徴している目力?瞳?視線?なのだろうか。

実際に『ビューティフル・ドリーマー』を観たら、作品自体はすごいと思うし、これが押井守監督の出世作と言われるのも頷けます。

頷けるのですが!『うる星やつら』ではないと私も思います(笑)観てちょっとショッキングでもありました。実際に高橋留美子氏が怒ったのかというと、ご本人が「怒ってはない」と言っているそうで、ではどのように言ったのかが下記の通り。

『ビューティフル・ドリーマー』は)押井さんの『うる星やつら』です。— 高橋留美子、平井和正『語り尽せ熱愛時代』、平井和正『高橋留美子の優しい世界』(共に徳間書店)「押井さんは天才」、「『2』は押井さんの傑作で、お客さんとして非常に楽しめました」とも語っている[21]

Wikipedia

押井は、高橋による評価について、『人間性の違いです』ってその一言言って帰っちゃった(笑)。これは自分の作品じゃないと言いたかったんですね。— 公開対談「野良犬の塒」[22]

Wikipedia

高橋留美子氏は、「私の『うる星やつら』ではない」と意味していて、「人間性の違い」と言っていて、「作品自体は傑作だ」と言っているんですよね。高橋留美子氏は、懐が深いと思います。当時彼女は27歳くらいだと思います。押井守氏で30代前半。すごいレベルの話だなと思いますが、「人間性の違い」と27歳が言ったのかと思うと感心してしまう(笑)まぁ、大学時代に「うる星やつら」が生まれているので、その時点で天才だと言われている人なのだけど。

私のひとつ前の記事で、男女に関することを書いたのですが、男女というか、「男女に関することでの人の感覚の違い」ということを書きました。

押井守脚本・監督の『ビューティフル・ドリーマー』は、ものすごく男臭い感覚で描かれた世界に私は感じられ、それをご本人が分からずしてしているというよりは、高橋留美子先生に対して意図やメッセージでもあったのかなと私には感じられてしまうほどでした。作品は素晴らしいのですが、高橋留美子の『うる星やつら』が『うる星やつら』であって、そこで描かれている人物ではもはやないと思う感じがラムちゃんや諸星あたるの発言や行動にあり、高橋留美子の描いている彼らではないというところが、『うる星やつら』のなんたるかを根底から違えているような?!とモヤモヤしました。作家にとったら、ある意味作品(原作)に対する冒涜って思われても仕方ないようにも思うんだけど、けれどそういったものが「傑作」と言われる作品になったのだから、アートは面白いですよね。

作品自体は本当に面白いので、気になる人は見てみて♪と思うのですが、「なんか違和感!」って思ってしまったことの2つだけ挙げてみるとしたら、ラムちゃんが「こんな(普通の)毎日がずっと続いたらいいのに」という気持ちを話すシーンがあるのですが、その時、「ダーリンやお父様やお母様や、テンちゃんや、終太郎やメガネさんたちとずうっと、ずうっと楽しく暮らしていきたいっちゃ。それがウチの夢だっちゃ」というシーン。あたると家族以外に挙げた名前が男だけ。でも彼女の日常でもっと絡んでいるのって、しのぶや、サクラ、竜之介。ラムちゃんはあたるのことではやきもちを焼くけれど、ラムちゃんの日常って男女関係なくワイワイしているそういう世界観な気がするのだが・・・。なんか、、随所に変に明るくない女臭さを感じさせるこの映画でのラムちゃん・・・。怖い。そういう女ではないと思うぞと、違和感すぎました。しかもこのシーンが映画の展開にすごく関わっているので、「じわじわ恐ろしいわ・・・」と。

そして、これはこの映画ではよく言われていることのようですが、原作者の高橋留美子は、「最後まであたるに(ラムのことを)好きと言わせない」ということを決めて「うる星やつら」という作品を作っていたのに、第三者にですが「俺はラムに惚れとる」と映画の中であたるに言わせていること。しかもその言ってる流れと背景が、素敵とは言い難い方向で男臭い。高橋留美子は、簡単に言葉にしないことで感じさせる重みや本気さを結構重要視している作家のように思うのだが。「なんの挑戦状ですか?押井さん何か苛立っていたのですか?」としか思えません(笑)

当時まだ20代であった高橋留美子氏にどんな世界観や恋愛観が本当にあったのか、作品にどんなものを本当にイメージしていたのか、それは分からないですが、その後沢山の彼女の作品を読んできた今の私の感じ方としては、高橋留美子の描く作品や登場人物は、女性ならではの女性が持つロマンというのはすごく感じます。それが男性臭い男性にとっては、「そんなことあるかいな(女性都合や、女性の夢物語のように感じてしまうといった)」と思ったりするのかな~と感じていたので、押井さんの中でそういう苛立ちみたいなのもあったのかなと妄想してしまいました。

高橋留美子氏がこの作品に対して「人間性の違い」と一言押井守氏に言ったのは、男女が性を気にするのは自然なことで、性的にも男として見る、女として見るということは、あることはおかしくはない。あっても良いけど、「男、女以前に、私たちは人間だから。人間としてどう感じ、考え、選択するというものがあるでしょう」というところに、高橋留美子氏は重きを置いているのかなと、私は感じました。ある種の倫理観というか。

しかし、この映画が「傑作」と評価されるに至った背景として、押井守監督にとっては「自由に作品を作りたい」「自分の思うように作品を作りたい」という挑戦を思い切ってしたというのがあるのかなとも思いました。全部推測ですけど。

原作者にとっては、自分が生み出したキャラをある意味踏みにじられたかもしれないのならば、「許せない」と感じてもおかしくないものを、「作品自体は傑作」と評価する高橋留美子氏を私はすごいと思います。そしてそれこそ作家としてプロだと思うから、私は作家ではないですが見習いたいと思うくらいです。アート(芸術・モノづくり・創造性)の持つこういった何かを飛び越えていく力は、本当にすごいな~と、ある意味「問題作」ではあるのかもしれないけれど、同時にいろんな意味で面白いなぁと思うこの作品です。

異空間に出会うしのぶ
DNAみたいな意識の世界?を彷徨うあたる。もはや、あたるに見えない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?