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○○だから

最近ネットやYouTubeで森さんの発言が問題になっていますね。私も何回か見てますが、そこから私が考えたことを書きます。

「女性がいると会議が長くなる」「話が長い」など、、ここまで大きな問題になっているのは、発言した人が森さんだからですよね。地位のある方なので、注目もされますから、確かに言葉には気をつかったほうが良いと思います。

ただ私が考えていたのは森さんがどうこうということではないのです。

世の中には森さんと同じように思っている人は一定数いると思っています。私の親や祖父母は「女なんだから」とよく私に言ってきます。そう言われると腹が立つこともありますが、まぁそういう環境で育ってきたのだから仕方ないよね、と思っています。
生きてきた時代や、家庭環境、教育現場、友人関係等で人の価値観って変わると思います。現代ではジェンダー平等が当たり前に浸透しているので、こういった女性を軽く見てしまうことに対して違和感を感じるのは当然だと思います。

私が考えていたのは、
・カテゴリで括りすぎではないか
ということです。
どういうことかというと、女性も時に「男は単純だから」「男は子供だから」と言っていたりしませんか?ジェンダーのみでなく、国や人種のカテゴリで括ってしまうこと、ありませんか?他にも「トランプ支持者は」「バイデン支持者は」などなど。。その中の個人個人はみんな違うのに、一括りにして話すことに違和感を感じるなぁ、と考えていました。

もう一つ、女性をこの人数入れよう、というのもどうなのか、と思います。
ここは難しいところで、考えれば考えるほど複雑だなぁと思っているのですが。
確かに、女性だからはいれない、ということもあったでしょう。最近だと大学の入試で女性だから受からなかったというニュースもありました。ただ、単純に女性枠を増やしましょう、ではいけないのではないかと思います。「何人女性を入れます」となった時、能力のある男性が残りは女性枠だから入れない、ということも起きてくると思います。そうなると不満が出てきます。
アメリカの人種問題でも似ている部分があるなぁと思います。黒人差別をなくすために黒人の方を優遇し、白人の方がそれに対し声をあげていると。一方で黒人の方は黒人であるが故に怯えている部分もある、と。どちらも事実で、あると思います。

現代は、外国人と関わることが増えましたし、ジェンダー平等も浸透してきているからか、その部分で気になることはあまりないと感じます。事実、職場の20代の子達と話していると性別や人種関係なく個人対個人として接している子が多いなと感じています。
この先何十年か、今10代20代の人たちが社会を回していく時代になれば、ジェンダーギャップや人種差別は自然と減るのではないかと想像しています。

カテゴリではなく、人が個人を見ていく世界になり、自分と意見や考え方の違う人を認められるようになるには、どうすれば良いのかな、とよく考えます。
そこには、私をカテゴリではなく個人単位で見てほしい、という欲求が根本にあります。でも、それでいいんだと思います。そのためには自分がまず個人単位で人を見れるようにならないといけない、と思っています。人の価値観なんてそう簡単に変えられないです。その人が自分で気づくしか方法はないです。ただ、自分ができていないのに人に気づかせるなんて不可能なので、自分が変わるしかないです。
かと言って気づかせたいと思っているわけでもないのですが。。究極、人は人、自分は自分、なんですよね。
自分が変われば、自分の見える世界が変わり、そこからまた何か新しいものが出てくると思っています。

色々の書きましたが、正直、この類の話をするには知識不足な部分があると思います。なので、間違っていることもあるかもしれません。私が知っている中で、私が思ったことを書いてみました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

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