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見えない世界を視る。「ブラインド・マッサージ(推拿)」

施術師が全員盲人のマッサージ店で繰り広げられる人間模様を、障害者を扱う作品にありがちな感動フィルターを通さず生々しく伝える群像劇『推拿』。

てっきりソフトな内容だと思って見に行ったらものすごい質量で叩きのめされました。2つの点でとても引き込まれ、映画の後も延々と考えてしまうくらい余韻の残る作品でした。

”見えない”ということを見る作品である映画で表現すること
”見えない人”のリアルな生活や考えに迫っていること

見えない人たちの生き方から、”見える”ことは”分かる”ことなのか?という問いを喉元に突きつけられたような気持ちになりました。

あらすじ-----------------------------------------------------
幼い頃の事故で視力を失ったシャオマー。

以後盲人としての人生を歩み、盲学校で習得した技術により按摩師として就職。マッサージ店ではそれぞれの悩みや事情を抱えた視覚障害者が集団生活を送っている。

客から美しいと評判のドゥーホン。
盲人の世界で生きる彼女には、美しさは何の意味も持たない。

ドゥーホンの美しさ、それを一目見たいと渇望し、錯覚的に恋愛に陥っていくシャー。

少しずつ視力を失う病気のジン。
完全に失明する前に、同僚の盲人按摩師を落とそうと躍起になっている。

そして盲人同士の結婚を親から反対され、駆け落ち同然で店に転がり込んできたワンとコン。
シャオマーは恋人のいるコンに女の色気を感じ取り、次第にコントロールが効かないほど惹かれていく。見兼ねた同僚がシャオマーを発散させるため風俗店に連れて行き、シャオマーは風俗嬢のマンに入れ込むようになり・・・
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 盲人という設定を除けば平凡なストーリー。盲人も恋をして、嫉妬をして、時に人を蔑み、健常者と何ら変わらない生活がある。その上でこの映画は、その描写を健常者と盲人の感覚を使い分けてパラレルに描くことで、“見えない”ということを徹底的に追及しています。
 例えば、盲人の視点として目のくらむようなピントの合わない映像や音に特化したシーン、暗闇のシーンをふんだんに使用しています。複数の登場人物が手癖ならぬ音癖を持っています。このようなシーンによって見えない生活を擬似的に体験しながら、鑑賞者は盲人の世界に入り込んでいきます。

 また、見た目に左右されない恋愛も、深層心理の違和感と伴に鑑賞者に”見えない”ことを体感させる重要なテーマです。見えないことにより掻き立てられる様々な妄想。視線が合うことはない、匂いや体温の触れ合いによる盲人の手探りの恋愛は健常者以上に直接的で、しかもそれを一般の盲人の女性が演じているので、なんだか目を逸らしたくなるほどに艶かしい。私は同僚と見ていたのですが、正直気まずかった。笑
 役立たずな美貌に嫌気が差しているドゥーホンや、目が見えるが故に健常者の視覚的ヒエラルキーに囚われれているジンのサイドストーリーも、盲人と健常者の世界のパイプとして機能しています。

 一方で”見える”ことをはっきりと意識させる仕掛けが、作中数度ある唐突なスプラッターシーン。なんと開始数分で主人公は一度自殺を図るのですが、真っ赤な鮮血は思わず目を覆いたくなります。以後諸事情により数度のスプラッタ・グロシーンが発生するのですが、見えないからこそ感じない恐怖や、見えるからこその恐怖もあると初めて知りました。

 また、上述した「盲人社会にも健常者となんら変わらない生活がある」というテーマと対比させる形で、健常者との係わり合いの中で「教養はある。漢詩も知っているが漢字は知らない」「盲人は金を(誇りを持ち自立して生きるため)何よりも大切にする」「盲人は健常者を自分より一級上の存在として見ている」等、マジョリティである健常者が作り上げた社会での生きにくさもしっかりと描写しています。日本もさることながら、100%表意文字の中国において音のみでの言語理解というのは更に健常者と壁を感じる原因になりそう・・・。
 しかし世の中には盲人優位となる場合もあります。突如停電となったマッサージ店で、冷静に行動するシャオマー達。環境が違えば立場など易々と変わる。私達健常者の平凡な生活の偶然性について改めて気づかされます。点字の手紙を回し読みするシーン等、何が起こっているのか把握できず、たった数秒のシーンで私はまるで世界から突き放されたかの様な感覚になりました。

その他、主人公シャオマーの通いつめる風俗店では、金の亡者の同僚VS
主人公シャオマーとの盲目な恋に突き進む風俗嬢マンのキャットファイト。
嫌な客を取らされているマンに居合わせたシャオマーは見て見ぬ振りができず、見えないディスアドバンテージを抱えながら暴力沙汰の大喧嘩、会社の寮に帰ればどうせ見えないだろうとある同僚だけをえこひいきする寮母さん等々・・・

これらの登場人物一人ひとりの出来事から、「見える」とは何が見えていて何が見えていないのか、見えている者は本当に社会の優位者なのか、本質を見抜いているのは誰なのか、と頭がかき乱されたまま、映画は一旦終わります。

ものすごーく消化不良な暗澹たる気持ちでいると、
シャオマーと風俗嬢マンのエピローグが。

都会南京を2人で逃げ出し、田舎の貧しい村でひっそりとマッサージ店を開いたシャオマー。点字の道しるべも無いような舗装されていない道路。雪が降っているので、東北でしょうか。明らかに、生活の水準は下がっています。その証拠にマンは真冬なのに、共用の屋外水道で髪を洗っています。しかしシャオマーはその音を聞きながら目を閉じ、穏やかな笑みを称えます。見えなくても大丈夫と、初めて自分の運命を引き受けたかのように。

一度自殺未遂まで図った彼には今、希望が見えている。
最後のシーンで、ずっしりと重かった心に光明が差し込みました。

 ダラダラと書いてしまいましたが、見えるとは社会生活上のアドバンテージでしかないというのが私の結論です。逆境・不幸の種類は十人十色。だからこそ誰かが作り上げた価値観に囚われず、自分を見失わないこと。そのために自分で見、聞き、判断を下すことを恐れないこと。それが光の速さで終わる人生を慈しむ最良の策である。

◇◆補足◆◇
①この映画は中国20万部のベストセラーの原作小説 『ブラインド・マッサージ(畢飛宇 作)』だそう。(中国の人口に対して20万部でベストセラーってどうなの?小説市場を知らないので良く分からないけど)
映画は群像劇で様々な人の出来事が入り乱れて起こる感じですが、小説は一人ひとりの名前で章立てして進んでいくようで、こちらも見てみたい。

②本作シャオマー役の黄轩、最初は18歳くらいの子供か?と思ったのですが見てるうちに惹きこまれました・・・ベビーフェイスでクリーンな感じなのに色気漂う・・・中性的とはまた違うような?日本にはいないタイプな気がします。。

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