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『魔法科高校の劣等生』がネトウヨ的価値観なのは言うまでも無いが『とある科学の超電磁砲』はどうなのか

 『魔法科高校の劣等生』は従兄から貰った本を数冊、それぞれ小説版と漫画版とに目を通したのだが、確かに旧制高校のナンバースクールを思わせる設定が合ったりして中々興味深いところもあったものの、かと言って全巻読破した意図は中々思えなかった。
 人気ラノベでも『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズだと飽きずに読むことが出来るのだが、どうして『魔法科高校の劣等生』シリーズは違うのか。
 それは超能力物で設定が細かいのもあるかもしれないが、むしろそういう細かさは私みたいな「設定マニア」とも言うべき人間にとっては良い部分である。
 しかしながら、「設定マニア」だからこそ作者の思想が透けて伝わってしまうのである。
 例えば「魔法使いが優遇されているのは才能があるからであって、他の職種と違いはない!」と言う主張は、そのまんま新自由主義者の主張であると言える。
 しかも反魔法集団の本当の目的は「日本の国力を下げること」であり、その背後には中国がいる、など完璧ネトウヨの世界観である。
 まぁ、政治的な設定を出している分、リアリティを演出しているつもりなのだろうが、しょうもないのだ。とは言え、ラノベは往々にして政治的設定が粗いことが多いものだが。
 いずれにせよ、作者がネトウヨ的世界観を持っていることを隠そうともしていないことは、この作品を駄作ならしめていると言える。
 言ってみれば、左翼の作家が天皇や右翼を悪役の作品を書くようなものである。
 その典型例が雁屋哲氏であろう。彼は、私は実は優れた漫画原作者だと思っている。また、政治的にも聡明な人だと思う。
 彼の左翼思想全開の著作である『日本人と天皇』も、漫画作品としてみると別に悪くはない。だが、「右翼団体の抗議で大学の部活に圧力がかかる」等と言う現実的にあり得ない冒頭場面はツッコまざるを得なかった。
 現実には、我々の行動を制約しているのは「右翼の抗議」よりも「左翼の抗議」である。右翼がいくら騒いでも世の中は変わらないが、左翼が少しでも騒げば色々と変わる。立憲ユースなんか、左翼の電話一本で副代表の首が飛ぶ。
 このように「右翼の圧力」は都市伝説乃至陰謀論であることは言うまでも無いが、反体制派の運動をすべて「中国の謀略」扱いするのも十分陰謀論である。
 『とある魔術の禁書目録』は第三次世界大戦の敵国をロシアとしているが、それはまぁネトウヨ的とまでは言えないだろう。私からすると、そんなことによりもアメリカでヒスパニックの大統領が3人誕生しているぐらいの未来で首里城の2000円札が通用しているという謎設定についてツッコミたいところである。
 だが『新約とある科学の禁書目録』で食蜂操祈が蜜蟻愛愉に語るセリフは新自由主義そのものであった。もっともネタバレにならない程度に言うと、それは「食蜂の読みが浅かった」という文脈で書かれている。
 「とある」シリーズは作者の政治思想を出すのを注意深く避けているともいえるであろう。無論、『とある魔術の禁書目録』第1巻ではエホバの証人への偏見が見られるなど、政治色が皆無な訳ではない。
 『創約とある魔術の禁書目録』第4巻では遠回しにスーパーシティ構想の欠陥が登場人物のセリフで語られるという、中々痛快なことをしてくれている。まぁ、そういうところに注目して読んでいるのは私ぐらいだろうが。
 とは言え「お守りを持っているだけで非科学的と言われる」というぐらい徹底した唯物論の世界である学園都市を舞台にしたこの作品は、むしろ唯物論文明の発達に反発する心性が少しは反映されている、と言えるだろう。
 だから「とある」シリーズの『アストラル・バディ』の最終場面が墓参りなのは驚いたが、それも作者の感性を示すものであろうと思い、好意的に見れる。
 一方、やはり「とある」シリーズもネトウヨ的な層をターゲットにはしているのである。
 『とある科学の超電磁砲』では馬場とか言う露骨なミソジニストが出てきたが、ネット上でフェミニストらしき女性が「ミソオタが女子中学生にやられる図」を痛快に思ったらしいツイートをしていた。
 だが、その場面は別にフェミニストをターゲットにしたわけでは無かろう。むしろ、ミソジニー的要素を持っている男がターゲットだからこそ、ミソジニストが悪役なのだと考えた方が良い。
 あれはミソジニストへの反感ではなく、ミソジニストの自嘲であり自白であろう。現実には女子中学生にも劣るような三流以下の男がミソジニーに染まっているという、ありのままを描写しているだけである。
 そしてまぁ、ミソジニストを悪役にしている点が『魔法科高校の劣等生』や多くの三流ラノベとの違いであろう。三流ラノベではミソジニストがむしろ主人公として活躍してしまうものだ。
 言い換えると、『魔法科高校の劣等生』は著者の価値観を客観視できていないのに対して、『とある科学の超電磁砲』では著者の価値観が客観視されていてネタにもなっている、と言うことである。
 似たような作品としては『愛国戦隊大日本』がある。これも右翼的な価値観をネタにしているのである。
 ラノベはネタなのが本質なのであるから、著者が自分の価値観を正義と思って書いてしまうと駄作になる訳だ。それには左右は関係ない。

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