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『養老律令』は「廃止」されてはいない!

 よく「律令は形式的には明治維新まで有効で、明治維新の後に廃止された」等という言葉があります。
 私も当初、そういう言葉を真に受けていて「では、いつの時点で『養老律令』は廃止されたのだろうか?」と調べました。例えば、明治維新の後に
「これまでの法令はすべて廃止する!これから明治政府が定めた法令だけが有効だ!」
というような勅令が出ていたら、その時点で『養老律令』を含む過去の法令が廃止されたことになります。
 が、実際にはそう言う法令は存在しませんでした。結論から言うと、実は『養老律令』は「廃止」されたのではなく「失効」しただけなのです(正確には「実効性喪失」)。

律令法は「後法優位の原則」が適用される

 『養老律令』はいわゆる「憲法典」(成文憲法)のような「最高法規」ではありませんでした。
 どういうことかと言うと、憲法典の場合は「憲法に反する法律は無効」となりますが、律令の場合は「律令に反する法律も有効」なのです。
 つまり、『養老律令』は「実質的意味の憲法」ではあっても「形式的意味の憲法」ではなかった、と言い換えることが出来ます。
 今のイギリスもそうです。イギリスの立憲主義は『マグナ・カルタ』から始まったと言われていますが、『マグナ・カルタ』は貴族政治を擁護するための法典ですから、貴族に実権の無い今の時代には『マグナ・カルタ』に反する法律が沢山できています。しかし、言うまでも無く『マグナ・カルタ』に反する法律は有効です。
 イギリスでは他国だと「憲法改正」に相当する行為を「法律」の形式で行っています。例えば、『マグナ・カルタ』には貴族によって構成される議会(今の貴族院)の同意無くて課税できない旨の規定がありますが、今は『下院優位法』の規定により逆に貴族ではなく庶民の代表である庶民院が貴族院の反対を押し切れるようになっています。
 これは『マグナ・カルタ』と『下院優位法』が“同格”であるため、同格の法律同士の場合は後からできた法律によって以前の法律が事実上改正されるという「後法優位の原則」が適用されるからです。
 『養老律令』も同じで、例えば『墾田永年私財法』のような『養老律令』の精神に正面から反するような法律も「有効」に成立しています。ちなみに、『墾田永年私財法』が失効したのは、豊臣秀吉による「太閤検地」の時です。
 豊臣秀吉も明文的に『墾田永年私財法』を廃止にしたのではなく、太閤検地の際に新しい法令(朱印状の形式)で『墾田永年私財法』等の効力を無視したのです。そして後法優位の原則により、豊臣秀吉の主張が通ったわけです。

明治維新後も有効だった「官位令」

 このように『養老律令』の内容はどんどん新しい法律によって無視されていったわけですが、あくまでも無視されたのは、権力者にとって都合の悪い部分です。
 つまり、法律の「実態」に関する部分は権力者の利権のためにどんどん無視されましたが、「形式」「名目」の部分は直接利権に関係ある訳では無いので、残されました。その典型が「官位令」です。
 「官位」とは「官職」と「位階」のことです。
 官職は「太政大臣」とか「左大臣」「右大臣」「大納言」「中務卿」「大蔵卿」等と言ったものです。位階は「正一位」から「少初位下」までの30段階の位(序列)を指します。
 官職と位階は概ね対応していました。これを「位階相当制」と言います。(もっとも、これもどんどん例外規定が出てきますが。)
 一方、時代に進むにつれて権力者は「官職」や「位階」を無視できる地位を求めるようになります。
 その代表的なものが「摂政」「関白」や「征夷大将軍」です。
 律令のどこにも「関白」や「征夷大将軍」の規定はありません。実は関白や征夷大将軍に対応する位階も存在しません。理屈を言うと関白や征夷大将軍よりも上の官位の人がいることもあり得ました。
(例:徳川秀忠が征夷大将軍になった時点では内大臣であり、右大臣である豊臣秀頼の方が官位は上であった。)
 しかしながら、関白は天皇陛下の代理人であり、征夷大将軍は軍事権を握っており、どちらも大臣達をしのぐ権力を持っていました。
 では、権力の無くなった大臣たちはもう要らないから廃止したらよいのか、と言うと、そうはならなかったのです。形だけの「名ばかり大臣」が「官位令」の規定に基づき任命され続けたのです。
 明治維新の際、「王政復古の大号令」で「関白」や「征夷大将軍」の役職は廃止されました。しかし、当時太政官のトップであった九条道孝は「左大臣」のままでした。
 無論、九条道孝は「左大臣」とは言っても何の実権もありません。彼はむしろ幕府に近かったので、明治政府の中では何の実権もなかったのです。
 明治政府で実権を握ったのは「総裁」「参与」「議定」と言った役職の人たちです。しかしながら、実権は彼らが握っているにもかかわらず、九条道孝は「左大臣」の地位を失いませんでした。
 と言うよりも、左大臣という肩書に何の意味も無いからこそ、誰も彼から左大臣の位を奪おうとはしなかったのでしょう。

「職員令」によって「官位令」は“失効”した

 明治2年になって明治政府のメンバーは「そう言えば新しい役職を作るよりも、これまであった官位と言うものを利用した方が便利じゃないか?」と言うことに気付きます。
 そこで制定されたのが「職員令」です。この「職員令」により「官位令」の内容は事実上“全面改正”されました。位階は30段階から20段階にかわり、「左大臣」や「右大臣」と言った官職は残されましたが、その仕事の内容は大幅に変わったのです。また、律令には無い新しい官職も作られました。
 しかし、これも『養老律令』改正の手続きが取られたのではなく、新しい法令により『養老律令』の規定が実質的に改正された、と言う形式をとったのです。
 こうして『養老律令』の規定は実効性を喪失したわけですが、それにより日本は革命などを起こすこと無く平和裏に近代化を達成できた一方、新しい問題も生まれました。それは「権力者が自由自在に法律を変えられる状態で本当に良いのか?」と言うことです。
 『養老律令』の欠陥の一つが、「どんな法律でも有効」としていた点です。これでは権力者の暴走を抑えられません。
 そこで明治天皇は「立憲政体の詔書」を発布し、立憲主義の導入を決めました。
 ここで言う立憲主義は、成文憲法を制定するということです。これにより、憲法に違反する法令を政府が制定できなくしたのです。
 「立憲政体の詔書」は「汝衆庶或は旧に泥み故に慣るること莫く、又或は進むに軽く為すに急なること莫く、其れ能朕が旨を体して翼賛する所あれ」という一文で締めくくられています。
 つまり、「旧」時代の古いことに捉われても困るし、「軽く」改革を「進」めて混乱を起こされても困るので、「憲法」というものに基づく政治を行おう、と言うことです。
 これは『養老律令』に反する法律がどんどん制定されて、ある時は必要な改革が行われず権力者の既得権益が守られ、またある時は権力者が陛下を無視して身勝手な「改革」(と言うよりも「改悪」)を推進してきた、歴史への反省の意味もあるのでしょう。
 このように我が国は立憲政体へと移行しましたが、それは『養老律令』等の「実質的意味の憲法」の廃止を意味する「革命」とは全く違った方法によるものでした。

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