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「神裔」とは全ての衆生のことである――『國體の本義』を読んでも絶対に判らない天皇陛下を尊ぶべき本当の理由

 『國體の本義』と言う本がある。これは昭和7年3月に発刊されたのであるが、その年の7月7日に支那事変が勃発、大東亜戦争は法的には支那事変を含むものとされるから、これは言わば「大東亜戦争勃発、直前」に発刊された書物であるということが出来る。

 戦時中、政府はこの『國體の本義』に反する思想を異端として退け、これが正しい尊皇愛国の思想であると宣伝した。戦後になっても、左翼は『國體の本義』を激しく批判する一方、保守派の反論もその多くが『國體の本義』の域を出ないものであり、未だに『國體の本義』の影響は激しく残っているのである。

 しかしながら、この『國體の本義』は重大な欠陥があるのである。それも、保守思想家にとっては重要な、天皇陛下に関する部分での欠陥である。

 例えば、次のような一節である。

かくて天皇は、皇祖皇宗の御心のまにまに我が国を統治し給ふ現御神であらせられる。この現御神(明神)或は現人神と申し奉るのは、所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏き御方であることを示すのである。

 戦後、左翼が「戦前の日本の国家神道は、天皇を絶対心とする一神教であった」と非難すると、保守派から決まって「いやいや、天皇は絶対神ではない!左翼は『現人神』の意味を誤解している!」という意味の反論が来たが、そうした反論の「種本」がこの『國體の本義』なのである。

 『國體の本義』は天皇を「絶対神」ではなく「天照大御神と皇祖皇宗の子孫」である、という理由で「神裔」であり「現人神」である、とする。

天皇は天照大神の御子孫であり、皇祖皇宗の神裔であらせられる。天皇の御位はいかしく重いのであるが、それは天ッ神の御子孫として、この重き位に即き給ふが故である。

 だが、「神々の子孫であるから現人神なのだ!」と言う理屈が通用するならば、『新撰姓氏録』によると我が国の氏族は帰化人を除くと、庶民の氏姓と言われるものもみな何らかの神々の子孫であると記されているから、我が国の国民の多くは何らかの形で「神裔」であり「現人神」である、ということになってしまう。

 従って、『國體の本義』の説明ではどうして天皇陛下だけが比類なき貴い存在であるのか、全く説明していないのである。そして、その説明をせずに天皇陛下への忠を説くのである。

我が国にあつては、伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二尊は自然と神々との祖神であり、天皇は二尊より生まれました皇祖の神裔であらせられる。皇祖と天皇とは御親子の関係にあらせられ、天皇と臣民との関係は、義は君臣にして情は父子である。この関係は、合理的義務的関係よりも更に根本的な本質関係であつて、こゝに忠の道の生ずる根拠がある。個人主義的人格関係からいへば、我が国図の君臣の関係は、没人格的の関係と見えるであらう。併しそれは個人を至上とし、個人の思考を中心とした考、個人的抽象意識より生ずる誤に外ならぬ。我が君臣の関係は、決して君主と人民と相対立する如き浅き平面的関係ではなく、この対立を絶した根本より発し、その根本を失はないところの没我帰一の関係である。それは、個人主義的な考へ方を以てしては決して理解することの出来ないものである。

 この文章も、伊弉諾尊と伊弉冉尊とが自然と神々の祖であると述べているが、つまりは、この二神の子孫は天皇陛下以外にもいると言うことである。天照大御神の子孫も多くの皇別氏族が存在する。どうして天皇陛下なのか、ということについて『國體の本義』は全く説明していないのである。これだと左翼にツッコまれるのも無理は無いのである。

 ただ、唯一、皇室の特別な点を主張しているのが、この部分である。

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