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戦争を終結に導いた「平和の軍神」田中静壹大将――母校・龍野高校が誇る偉人

 戦争によって、多くの人が命を投げ出しました。

 しかし、戦争を終わらせて、平和を築くために亡くなった人のことは、あまり注目されていません。

 「一億玉砕」――このようなスローガンが飛び交っていた、戦時中の日本。一人の大将がいなければ、無事戦争を終えることなど、出来ませんでした。

戦争継続派のクーデターを鎮圧した田中静壹大将

 私がかつて修行していた、宝蔵神社の楠本加美野前宮司の次男である楠本忠正先生(現在、龍宮住吉本宮勤務)が次の投稿をされていて、思わず感謝の気持ちが湧いてきました。

 本日はお盆の最中、終戦記念日でもあります。
 75年前のこの日この時、敢然と立ち向った人がいます。
 東部陸軍司令官である田中静壱大将。
 国民一丸となって一億玉砕してでも戦い抜くぞ!と覚悟を決めているとき、天皇陛下のお言葉(終戦詔書)つまり、玉音放送が全国に公布されました…その「終戦の詔書」(玉音放送の録音)を守り抜き、降伏に反対する軍人等のクーデターを鎮圧された陸軍大将が、田中静壱公であります。
まだまだ戦い抜くとクーデターを起こした反乱軍を説得するのは至難の技。
その時、田中静壱大将はお守りとして『甘露の法雨(お経)』を片手にもっていたのであります。
勿論、その反乱軍は田中静壱・大将を射殺し、畏れ多くも「終戦の詔書」を奪い、一億玉砕するまで戦い抜くと強固な信念のもと、クーデターを強行しようとしていたのであります。
そんな反乱軍が、田中静壱大将に向けたピストルを発射できなかった。
それは、片手に持っている紫色の文包みに入った『甘露の法雨』を、天皇陛下の御諚と勘違いしたからであります。
つまり、その片手に持つ「文包み」に何かしらの威光を感じたからであろう。
斯くして、終戦を迎えることができた。
もしあのまま戦争が続行されていたら、南から攻めてくる米国と北から攻めてくるソ連により、朝鮮j半島の二の舞になっていた可能性がある。つまり、国の分断の可能性である・・・
田中静壱大将はその9日後、8月24日に自決された・・・

 これだとまだよく事情が呑み込めない人もいるかもしれませんが、ここに出て来る田中静壹大将こそが、12年も続いた大東亜戦争を終結させた、まさに「平和の偉人」とも言うべき方なのです。

私と田中静壹大将の不思議な縁

 実は、私は田中静壹大将と不思議な縁があります。

 私の母方の家が田中静壹大将と遠戚なのです。

 また、田中静壹大将の出身校である旧制龍野中学は私の母校である兵庫県立龍野高等学校です。

 そして、私の尊敬する光明思想家の故・多湖周子先生は、新婚時代に稲荷たみえ先生という、光明思想家のお婆さんの家に何度か行かれていたとのこと。

 その、稲荷先生はなんと、田中静壹大将の実のお姉さまであったということです。

 前置きはこのぐらいにして、田中静壹大将の話をさせていただきたいと思います。

 田中静壹大将は陸軍のいわばエリートであり、海外留学の経験もある軍人でした。親交を深めた軍人の中には、マッカーサー元帥もいます。

 大東亜戦争(私は支那事変と太平洋戦争を合わせた十二年戦争の意味で用いています)中、当時中将であった彼は中国戦線で軍功を上げ昭和16年(西暦1941年、皇暦2601年)には東部軍司令官となり、日米開戦後には参謀本部附となっていました。

フィリピンの独立への田中静壹大将の貢献

 昭和17年(西暦1942年、皇暦2602年)8月、田中中将は宮中に招聘されました。内容は、フィリピン方面最高司令官に任じる、というものでした。

 当時のフィリピンはかなり日本軍によって平定されており、後はフィリピンを親日政権として独立させることが出来れば、目的は達成です。(少なくとも、日本政府が掲げていた目的は。)

 その為には、現地人の民意を掌握することが大切。田中中将は「民心把握の要訣は軍紀の厳正にあり」と掲げ、機会あるごとに現地の巡視を行いました。フィリピン人が生活に使っていたヤシ林を「ゲリラが隠れないようにするため」という理由で切り開いた舞台を詰問するなど、本来の大東亜共栄圏に反する行いを抑えようと努力します。

 そして、現地人女性を買うことが常態化するなどして風紀の乱れていた軍人たちを諌めつつ、巡視の際には必ずその州のフィリピン人の現地の政治家と会い、フィリピン独立への準備を進めていったのです。

 が、その結果、マラリアと呼ばれる難病に罹患。軍部は田中中将を帰還させようとしますが「陛下の勅命で来たのだから」と、あくまで仕事を続けようとします。

 愈々生死をさまよう状態になったのを受けて、大本営は陛下の勅命によって田中中将を帰還させました。

 田中中将赴任中は達成できませんでしたが、昭和18年(西暦1943年、皇暦2603年)にフィリピンはアメリカの植民地支配から独立することとなります(フィリピン第二共和国)。

「私は軍人が大嫌いです」――弾圧されていた光明思想

 帰還して陸軍第一病院に入院中の田中大将の奥さんである田中操夫人は、もう夫は助からないと思い、せめて心の中の不安は取り除いてやりたいと思っていたところ、東条英機首相の夫人から中嶋與一先生という光明思想家を紹介されました。

 操夫人は中嶋先生の講演会に行き、講演後の控室で中嶋先生に次のように伝えて夫の名刺を渡します。

「夫が病気で重態です。すでに諦めてはおりますけれども、何か心の中に苦しみがあるように思えるのです。可哀そうで見ていられないので、その心の苦しみを取去って安心させてあの世へ送りたいのです。」

「どこの病院ですか?」

「陸軍第一病院です。」

 すると、名刺に「陸軍大将田中静壹」とあるのを見た中嶋先生は、こう言います。

「これは軍人さん、大将閣下ですね。すみませんが、私はお断りします。」

「なぜでございます!」

「私は近頃の軍人さんは大嫌いです。私は軍人恐怖症で、ことにあなた様の御主人は大将さんですから恐ろしいです。とてもお会いする勇気がありません。」

 当時、光明思想は軍部によって弾圧されていました。中嶋先生も憲兵によって気を失う程の取り調べを受けたことがありました。

 理由は、戦時中「準国歌」的扱いを受けていた「海ゆかば」です。「海ゆかば」と言うのは、次のような歌詞の歌です。

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