捕鯨デモ

「鯨肉給食」に反対する――歪んだ「愛国パフォーマンス」の暴走

 「永遠の昨日」という言葉があります。どんな伝統であっても永遠に守っていかなければならない、という思想です。
 このような伝統主義はキリスト教やヒンドゥー教、儒教に謙虚にみられるもので、新しい物好きで有名な日本人もこうした「伝統主義」に無意識に影響を受けていることがあります。
 その典型例が捕鯨でしょう。「昔から鯨肉を食べていたのだから、捕鯨は問題ないどころか、むしろ推奨するべき」――私もかつては、そう考えていました。
 現在、超党派の国会議員が捕鯨給食の再開を求めているようです。捕鯨議連には野党の政治家も参加しており、政界の中にもかつての私と同意見の方が少なくないようです。
 しかしながら、今の私はそのような主張に与することは、出来ません。商業捕鯨にも鯨肉給食にも反対します。

市場が淘汰した産業

 鯨肉給食推奨について次のようなニュースが流れました。

学校給食でクジラ 商業捕鯨再開で超党派議員が法改正案
2019年11月16日 13時57分
商業捕鯨の再開を受けて、超党派の国会議員は、学校給食でクジラの利用を促進することなどを盛り込んだ法律の改正案をまとめ、今の国会で成立を目指すことになりました。
超党派の国会議員は、日本がIWC=国際捕鯨委員会から脱退し、31年ぶりに7月から商業捕鯨を再開したことを受けて、調査捕鯨に関する法律の改正案をまとめました。
改正案では、法律の目的を、クジラの「科学調査」から、「持続的な利用」に改めるとしています。
そして、捕鯨業の円滑な実施のため、政府が、船舶や乗組員の確保を支援することや、食文化の継承のため、学校給食でクジラの利用を促進することなどが盛り込まれています。
また、捕鯨業は国際法に基づき、科学的根拠をもとに算出される捕獲可能量の範囲内で実施するなどとしていて、国際社会の理解を得るねらいもあるとみられます。
超党派の国会議員は、こうした改正案を今月中にも参議院に提出し、今の国会で成立を目指すことにしています。

 まず、この記事を読んで思ったのは「彼らは市場原理と言うものを理解しているのか?」ということです。
 「食文化の継承」のために税金をつぎ込む、というのは、要するに「伝統的な鯨肉の消費者が減っているから、学校給食で鯨肉文化に触れてもらう」ということでしょう。
 鯨肉の消費者が減っている以上、捕鯨産業が淘汰されるのは市場原理の必然です。我が国は統制経済の国ではありません。「伝統的な食文化」で消えていったものは、数多くあります。
 例えば、我が国は平安時代にはすでに「カエルを食べる伝統」がありました。ウシガエルも元々、食用にするために輸入されたのです。しかし、今の日本でこの「伝統のカエル食文化」は廃れています。
 では、カエル食文化を継承していくために政府が税金で「蛙肉給食」を促進していくべきでしょうか?
 「需要があるから供給がある」というのが、市場経済の大原則です。そして、「需要がないならば、税金で需要を作ればよい」というのが、上述の議員たちの主張です。
 公共性のある事業ならば、それでも良いでしょう。私も公共事業の必要性を否定はしません。ですが、捕鯨に関しては公共性があるようには、感じないのです。

「伝統=絶対」ではない

 もしも「伝統ならば、需要がなくても守るべき」という考えが「正しい」とします。それも「一つの思想」としては、ありでしょう。
 例えば、先述した「カエル食文化」も守る、「蛙肉給食」にも賛成する、当然「鯨肉給食」にも賛成する、という人が出てきた場合――そんな人は今のところ、管見の限り存在しませんが――それも「一つの思想」として見ると「筋が通っている」と言えます。
 しかしながら、こうした「伝統主義」的な主張が必ずしも道徳的・政治的に正しいとは、限りません。
 例えば、フェミニストの中には「堕胎は昔からあった行為であり、それを禁止するのはオカシイ」という旨の主張をされる方がいます。しかし、確かに江戸時代にも堕胎が行われていた記録がありますが、この時代は「嬰児殺し」も行われていたのです。そのような「生命軽視」の時代にできた風習が仮に「伝統」であったとしても、今の時代に継承するべきかについては、別問題でしょう。
 伝統と言うものは、アプリオリに守るべきものでは必ずしもなく、「良い伝統」ならば守るべきである、と考えなくてはなりません。そして、何が「良い伝統」かはその時代と状況によるでしょう。
 インドの不可触民階級の人たちは屠殺の仕事を押し付けられていました。そして、貧困ゆえに自らが屠殺した動物の肉を食べていました。これをとらえて「肉食の伝統」ということも、或いは可能かも、知れません。
 ですが、「不可触民の父」と呼ばれるアンベードカル菩薩(インド共和国初代法務大臣)は自らもマハールという不可触民カーストの出身でしたが、同じマハールの人たちに「屠殺・肉食をやめるように」と呼びかけました。
 そもそも、ヒンドゥー教・仏教を問わずインドの多くの宗教は概ね肉食に否定的です。不可触民たちは好き好んで肉食をしていたわけではなく、それは差別や貧困の結果でした。
 ヴィーガニズムについても旧しばき隊系の左翼の人たちが「屠殺・食肉産業の否定は部落差別や在日差別につながる」という旨の批判をしていますが、同和地区出身者や在日外国人が屠殺や食肉関連の産業についていることこそが差別の結果である、という視点が彼らの中からは抜けています。
 堕胎や嬰児殺しについてもそうですが、差別や貧困を理由として「やむを得ず続いた『伝統』」なるものは、決して「守るべきもの」ではなく「乗り越えていくべきもの」です。捕鯨についても蛋白質の共通源が充分でなかった時代と、逆にクジラの数が減っていて問題になっている時代とで、同列に扱うべきではありません。

精進料理も「伝統食」ではないのか

 最近、ムスリムの方への学校給食が話題になっています。ムスリムは戒律で豚肉を食べません。豚肉以外の肉についても「原則、禁止」であって、例外的にハラルに該当するとされた屠殺法で殺された動物のみ、食べても良いことになっています。
 日本は明治の時代から既にトルコから少なくない数のムスリムを受け入れています。トルコが親日国であることを知っている方は少なくないでしょうが、トルコに限らず多くのムスリムは親日派であるにもかかわらず、日本人のムスリムへの配慮の欠如には驚かされます。
 また私もそうですが、日本では近年ヴィーガニズムによる菜食主義者が増えています。ヴィーガンというと「厳格なベジタリアン」と誤解される方が多いのですが、より正確には「倫理的理由で(動物を苦しめないために)菜食を実践する人」が、ヴィーガンです。
 このヴィーガニズムの考えは大乗仏教と共通しています。上座部仏教では肉食は全面禁止ではなく、お釈迦様も最後は豚肉を食べて亡くなりました。

※因みに、インドでは(中国でもですが)
豚は残飯やゴミのようなものを食べて育っています。
そんな豚の肉をお釈迦様に供養するのは失礼だとついつい考えてしまいますが、
当時も今も仏教徒には(食物を選べない)被差別民が多く、
お釈迦様もそうした事情に配慮して(本人は菜食主義者でありながら)
あえて供養された豚肉を食べて亡くなられたのだと思います。

 しかし、大乗仏教では徹底した菜食主義です。その理由は動物も救済の対象である「衆生」に含まれるからです。(因みに、大乗仏教の戒律は上座部仏教よりも緩い、というのは誤解です。ただ、戒律違反に対して寛容である、とは言えます。)
 動物を救おう、と言っている人間が動物の肉を食べているのは問題である、というのが大乗仏教で肉を食べないそもそもの理由です。ですから、大乗仏教の精進料理はアニマルライツに基づいたヴィーガン料理と思想も内容も全く同じです。
 こうした精進料理が日本の「伝統」であることは言うまでもありませんが、学校側にヴィーガン対応の給食を求めると拒否される事例は数多くあります。
 同じ「伝統」であっても需要の少ない鯨肉は促進され、需要が増えつつある菜食には冷淡――このようなダブルスタンダードの背景には「利権」があること、言うまでもないでしょう。

クジラの自由


 自民党の二階幹事長は捕鯨が盛んな和歌山県の出身です。そうした選挙区事情への配慮もあって商業捕鯨の再開を推進した、と考えられています。

“愛国”というパフォーマンス

 この問題をややこしくしているのは「捕鯨賛成=愛国」「捕鯨反対=左翼」みたいなレッテル貼りが横行している、という事実です。私もかつてはそういうレッテルを無条件に信じ込んでいる人間でした。
 そもそも「対中売国外交」を推進している二階議員が「愛国者」のわけがなく、これは自民党界隈の人間が良く行う「愛国パフォーマンス」にすぎません。しかし、この「愛国心のパフォーマンス化」が今の日本を歪にしています。
 誤解を恐れずに言うと、私は愛国者です。いや、「自称愛国者」ほどイカガワシイ存在はないので「愛国者を目指す人間」と言いましょうか。機会があれば靖国神社にも参拝しますし、愛国心の欠如している今の日本人の状況には危惧を抱いています。
 私にとって「愛国心」とは「家族愛」同様の自然な愛情であり、それを否定する左翼の人間は基本的に「愛のない人間」であると考えています。事実、福島瑞穂元社会民主党党首が著書で「私は、子供が18歳になったら“家族解散式”というのをやろうと思ってい」る、と述べているのは有名です。
 ただ、「家族を愛しています!」というパフォーマンスをしている方がいたら「胡散臭い」と思うでしょう。同様に、「愛国パフォーマンス」をしている人間――特にネット上で匿名での“愛国的”な言説を語るネトウヨたち――には胡散臭さしか感じません。
 私が憧れる偉人の一人が「鳥も魚も含めて一切肉は食べないし、蟻も螻も殺さない」と宣言した、日蓮聖人です。日蓮聖人も倫理的理由で肉を食べない、今でいうヴィーガンでした。
 そうした「菜食の伝統」には見向きもせず、「肉食の伝統」「捕鯨の伝統」ばかりを強調する方の言う「愛国」とは一体何なのか、と私は考えてしまうのです。彼らにとっての「愛国」とは、自分を良く見せるためのツールにすぎないのではないか、と。
 私が「右翼」になった中学生の頃、政府は菅政権でした。右翼というのは権力の不正に立ち向かう存在だったのです。
 今の時代のネトウヨは、権力側の流す情報を無批判に受け入れているように思えてなりません。

鯨たちへの感謝を忘れずに

 よく「感謝して食べれば肉食をしても問題ない」という方がいます。
 そもそも今の世界では穀物の三分の一が家畜の飼料となっているため、貴方が「感謝して」肉を食べる行為が食糧危機を推進し、動物どころか間接的に人間の命をも奪っているのですが、それは捕鯨とは関係のない話なのでここでは割愛します。
 日蓮聖人が「アリ一匹殺さない」という旨のことを述べているように、仏教(特に大乗仏教)では昆虫を含めたあらゆる動物を殺してはならない、と考えます。もっとも、何事にも優先順位があり、杓子規定にそれを守らせるわけではありませんが、皆様にも参考にしてほしい考え方です。
 最近、イカにも知能のある種類がいるのではないか、という研究報告が出てきており、動物には我々が思っている以上に知能の発達している可能性が出てきています。特に鯨のような高等哺乳動物はかなり知能が発達していると考えられ、こうした動物の命を守るのは大乗仏教では菩薩行の実践であると考えられます。
 人間を殺してはならない理由の一つが、相手の人間やその家族が苦しむからでしょう。そして、その理由は鯨にも当てはまります。鯨は殺されると、殺される当事者はもちろん、その家族も哀しむのです。
 そんな状況を放置していることが、本当に鯨に感謝している行為なのか、は議論があってしかるべきです。少なくとも「需要がないのに、政府が税金を出す」だけの必要性のある行為である、と考えることは、私にはできません。
 鯨を保護することは海洋の生態系を守ることにも繋がり、それは回りまわって日本のため、人類のためにもなります。

◆漁業とクジラ保護の対立
 一方で、漁業に従事する人たちの一部からは、クジラが網にかかった魚を食べてしまうとして、数十年にわたり不満の声が上がっていた。中でも日本政府は積極的で、「クジラが我が国の漁業の脅威」になっているため捕鯨は必要だとする、極端な主張を展開するに至っている。
 国際舞台で捕鯨に関する交渉に携わった人物の1人、小松正之氏は、2001年にオーストラリア放送協会(ABC)のインタビューでミンククジラの個体数は「多すぎる」と指摘し、これを「海のゴキブリ」と呼んだことで知られている。
 だが、ローマン氏はこの意見に異を唱える。
 同氏はクジラのポンプやコンベアーベルトとしての働きに触れ、「これははるかに複雑な話だ」と指摘する。「我々が新たに検証した複数の研究では、クジラのような大型捕食動物が存在するほうが、生態系における魚類の個体数が多くなることが明らかになっている」。
 ローマン氏によれば、次のステップは、これらのプロセスを検証するためにより多くの現地調査を行うことになるという。こうした調査は、プランクトンや他の生物がクジラの存在に反応する、正確なメカニズムを把握する一助になると期待できる。(「巨大クジラ、漁業資源の増殖に貢献?」より)

 日本を含む世界の人類は鯨たちの存在によって恩恵を被ってきたわけです。報恩感謝の気持ちで鯨たちを守っていくことが今の時代に求められる、と考えます。

ここまでお読みくださり、本当にありがとうございます。 拙い記事ではありますが、宜しければサポートをよろしくお願いします。 いただいたサポートは「日本SRGM連盟」「日本アニマルライツ連盟」の運営や「生命尊重の社会実現」のための活動費とさせていただきます。