立憲民主党岩手県総支部連合会は、令和元年(西暦2019年、皇暦2679年)の岩手県知事選挙で事実上自民党及び公明党の推薦候補を利する言動を行うなどしていた階(シナ)猛衆議院議員に対し、昨年訴訟での控訴を行わないことを決めた上に、今月10日には階猛議員に対して「謝罪」をするという大人の対応を行い、和解をしました。
この問題についての経緯を説明します。
シナ猛議員は、平成19年(西暦2007年、皇暦2667年)に当時民主党所属の衆議院議員であった達増拓也先生が岩手県知事選挙に出馬する際、その後継者として民主党公認で衆議院議員選挙に出馬し、当選しました。当時は小沢一郎先生や達増拓也先生と親しく、平成24年(西暦2012年、皇暦2672年)には小沢一郎先生に離党届を預けた上で政府の消費税増税法案に反対票を投じ造反しました。
ところが、離党届を提出されると自分が小沢一郎先生に預けていたにも拘らず「勝手に提出された」として離党届を撤回。これを受けて、民主党は寛容にも党員資格停止2カ月の処分で済ませました。
それ以降、シナ猛議員は小沢一郎先生や達増拓也先生を逆恨みします。
シナ猛議員は民主党が民進党へ合流した時もそのまま合流に従い、平成29年(西暦2017年、皇暦2677年)に民進党が希望の党への事実上の合流を決めた時も希望の党から衆議院議員選挙に出馬しました。そして希望の党と民進党が正式に合流して旧国民民主党を結党した時もそれに反対はしませんでした。
令和元年(西暦2019年、皇暦2679年)に旧国民民主党と自由党が合流する際、シナ猛議員は近藤和也先生らと共に合流反対の立場に立ちました。しかしながら、近藤和也先生ら多くの合流反対派は合流が決定するとそれ以上騒ぐことが貼りませんでした。
にも拘らず、シナ猛議員は自由党との合流に反対して離党しました。その時、朝日新聞社の運営するオピニオンサイトで次のように述べました。
ここでシナ猛議員は「『希望の党』失敗の教訓がいかされていない」「『希望の党』から『国民民主党』へのプロセスに支持が集まらず、野党への不信感を大きくした」等と述べていますが、希望の党への合流も旧国民民主党の結成も、全てシナ猛議員自身が賛同してきたことです。
自分たちの仲間の行為を他人事のように批判していますが、それらはすべてシナ猛議員自身が行っていた行為なのです。そうした自分の行為を棚に上げて、かつての仲間と訣別したと言っているのです。
さらにシナ猛議員はこの記事で当時別政党である旧立憲民主党の黄川田徹氏を擁護していますが、彼はこの年の岩手県知事選挙で自民党推薦候補を応援し問題視されました。
ここで黄川田氏は立憲民主党(当時)の党員でありながら、党にも野党連携にも反対する暴挙に及んだ訳です。
シナ猛議員もそんな黄川田氏と縁を切るどころか、岩手県知事選挙では中立を守ります。自分と近い人間が自民党を応援している状況での中立は、事実上の自民党支持です。自民党のスパイ扱いしても文句を言えません。
しかも、シナ猛議員は小沢一郎先生との合流について「『大きな固まり』からはむしろ遠ざかっている」と述べましたが、逆に小沢一郎先生らの尽力により旧立憲民主党と旧国民民主党の合流が実現しました。
シナ猛議員の予測は完璧に外れた訳ですが、シナ猛議員は悪びれもせずに何食わぬ顔で立憲民主党の結党に参加します。
その上、何故かかつて自分が見捨てた玉木雄一郎先生が立憲民主党に合流しなかったことを攻撃しだすのです。立憲民主党の議員が共闘野党の代表を攻撃することは、野党共闘を危うくする行為でした。
このような様々な問題行動にも拘らず、立憲民主党岩手県連は寛容にも、ただ旧国民民主党から持ち出した政治資金の返還を求めて裁判を行い、その他の点は一切不問としました。
なお、過去には政治資金を持ち出して他党に移動した政治家に返金命令が下ったことがあります。
しかしながら、自民党の影響下にある裁判所は自民党側の人間に有利な判決を下すことで知られていますが、その例にもれず盛岡地裁は岩手県連によるシナ猛議員への返金要求を却下しました。
このような過去の判例と異なる判決は当然に控訴の対象となり得るものでありますが、岩手県連は寛容にも控訴を行わず、シナ猛議員との和解を模索しました。
そしてこの度、極めて寛容なことに、シナ猛議員に対して「謝罪」まで行うという大人の対応を行い和解をされたのです。
これまでシナ猛議員がしてきた行いは、決して許されるべきことでは、有りません。
しかしながら、野党共闘の大義のために筋を大きく曲げに曲げてまで和解を決断された、立憲民主党岩手県連の皆様を、心から称賛します。