田沼意次と松方正義の違い――財政再建の方法
最近、物価上昇で多くの庶民が苦しんでいるため「これまでの政府のインフレ誘導政策は間違いだ!」と言う人が増えつつあります。
特に野党の中では、これまで安倍政権がインフレを目標にしていたこともあって「デフレの方がいい!」と言う人が出てきているようです。
私は逆に、むしろ安倍さんが「インフレ率2%を達成する」と言いながら出来なかったことをこそ野党は追及するべきであって、あべこべにデフレ誘導政策なんかをすると、99.99%の確率で中小企業の経営者らから「安倍政権の方が良かった!」と言われると思いますが・・・って、なんで野党の党員の私が安倍さんを評価するようなことを言わんとアカンのやねん。
今の物価上昇は、アベノミクスの効果ではなく、むしろ逆でアベノミクスが失敗して岸田政権がインフレーションではなくスタグフレーションを実現した結果です。
インフレーションとスタグフレーションの違いを簡単に言うと、給料が上がるのがインフレーション、給料はそのままだけど物価だけ上がるのがスタグフレーション、です。
より正確に言うと、インフレーションとは貨幣の価値が下がることです。一方、スタグフレーションは貨幣の価値はそのままなのに一部の物品の価格が上がることです。
さて、インフレを巡っては過去に対照的な二人の為政者がいました。田沼意次と松方正義です。
この2人も今の日本と一緒で政府の財政再建を課題としていました。しかし、その解決方法は正反対でした。
松方正義はデフレをすることにより財政再建を行おうとしました。
デフレとはインフレの逆で、お金の価値を上げることです。当時の日本では物価が上がっていました。物価が上がると政府の支出も増えて困るので、お金の価値を上げて物価を下げようとしたのです。当然、増税もしました。
デフレにすると物価は安くなります。だから庶民も喜ぶと勘違いする人がいますが、違います。
これまで高いお金でも売れた商品が、安い値段にしないと売れなくなるのです。いくら働いても売り上げが伸びない訳ですから、勤労意欲は下がります。しかも、そんな中で頑張って売り上げを増やしても増税で政府に取られるだけです。
特に大変なのが農家です。農家はそもそも急激に生産量を増やすことはできません。そんな中で生産した農産物の値段が下がった上に、増税です。
当時の税金は地租、今の固定資産税の前身が主でした。地租の値段は変わりませんから、豊かでない農家は農地を手放し小作人となりました。それどころか、農業自体を止めて都市部へ流入する人も増えました。江戸時代から始まっていた東京一極集中ですが、松方デフレはそれを加速させたのです。
さらに地主も地主で、農地だけ持っていても稼げないですから、事業の中心を農業から都市部での商業に移します。寄生地主制の誕生です。
格差拡大や過疎過密問題といった今の日本に通ずる問題は、松方デフレに始まると言っても過言ではありません。
また、松方正義の「功績」と言われるのが日本銀行の設立です。この流れでも判るように、日本銀行は日本をデフレにするために出来た中央銀行です。
一方、江戸時代の田沼意次は正反対のことを考えました。それは
「財政再建をしたければ、インフレにすればいいじゃないか!」
ということです。
インフレと言うと物価上昇のイメージだけが注目されますが、実際には市場に流通する貨幣の量が増えた分、生産量も増えれば急激な物価上昇にはなりません。また、財政と言う観点から言うと、インフレで貨幣の価値が下がるという事は、借金の価値も下がる訳ですから、中長期的な観点から見ると財政再建がしやすくなります。
田沼意次の時代には、既に商品作物の栽培や工業制手工業の発展で生産量は増えていました。その状態でインフレにするのは合理的な判断でした。
さらに田沼意次は印旛沼干拓や北海道開拓によって農業の生産量をさらに増やそうとします。また単なる干拓ではなく、印旛沼に水路を作って商業の発展もさせようとします。しかし彼の政策は先進的過ぎてあまり理解されず、印旛沼干拓が実現したのは戦後になってからでした(何百年も前から提起されている課題をやらないのが日本の政治屋であって「今だから言える事」という擁護論は通用しません)。
田沼意次の政策は「貨幣の発行量を増やし、公共事業も増やす」と言う、アベノミクスと一見類似したものです。と言うよりも、恐らく安倍さんのブレーンには田沼意次のファンがいたのでしょう。
しかし、安倍さんは結局公共事業を殆ど増やしませんでした。野党はここで「公約通り公共事業を増やせ!」と追及するべきだったのに・・・いや、仲間の批判はやめておきます。
田沼意次の政治について天明の飢饉や浅間山の噴火によって失敗した、という人がいますが、これは表面的なものです。災害による政策の後退は一時的なものだからです。このことは「東日本大震災さえなければ菅直人首相は成功したのか?」という問いを立てると誰でもわかる話です。
むしろ冷害や不作が続く中、田沼意次が失脚するまでの間は大きな混乱もなく政治は進んでいました。天命の打ちこわしは田沼意次が失脚した後に起きた事件です。
田沼意次の政治が続いていれば、江戸幕府は近代にはいっても続き明治維新が起きなかった可能性すら、あります。
象徴的なのが、田沼意次蟄居の翌年に起きた御所千度参りです。
宝暦事件で竹内式部が弾圧されて以降も、京都では尊皇思想が燻っていました。竹内式部から「親を誅殺してでも天皇陛下に帰一せよ!」という薫陶を受けていたかつての若手公家が重鎮となっていた時代です。
竹内式部の弟子の一人であった柳原紀光は、光格天皇から宮中を追放されても勤皇思想を貫いています。それは竹内式部の教えに「大君たとひ如何なるくせ事を仰せ出さるゝも、始めより一命をさへ奉り置く身なれハ、いかで怨み奉る事あるべきや」(天皇にどんなことを言われても、天皇に命を捧げている公卿がそれを恨みに思うようなことがあってはならない)というものがあったからです。
このような強烈な尊皇思想は、仮に当の陛下から疎まれてもその自分を失脚させた陛下を尊崇ぐらいのものですから、幕府の弾圧ぐらいで消えるものではありません。そんな思想が広まっている中で、田沼意次失脚後の幕府は飢饉に手を打てない状況となったのです。
民衆は京都御所を訪れて陛下に陳情をしました。これが「御所千度参り」です。これを受けて光格天皇は幕府に民衆救済の要請を出しました。
これは『禁中並びに公家諸法度』を無視する行為ですが、幕府はこれを受け入れました。こうして朝廷は幕府の傀儡から脱却したのです。
竹内式部存命中は単なる精神論であった尊皇思想が、現実の政治に影響を与えた瞬間でした。これが幕府崩壊の最初の一歩となったのですが、田沼意次を失脚させた人たちはそのことに最後まで気付かなかったのでしょう。
むしろ田沼意次失脚後の幕府は、デフレ誘導政策を推進します。幕府は田沼意次のインフレ政策で米価が上昇したことが打ちこわしの原因だと判断したのです。
しかし、それはあまりにも短絡的な判断でした。既に述べた通り、デフレになって米価が下がると農家は損をしますから、却って農村荒廃が進んだのです。しかも幕府の財政を支えていたのは農村からの米の年貢ですから、農村を荒廃させた上に年貢として徴収できた米の価値は下がると言う最悪の結果となり、幕府は自分で自分の首を絞めてしまったのです。
思想だけでは体制は覆りません。愚かな経済政策を取る政治家が人気を博した時、その体制は盤石に見えて崩壊の一歩を歩みだしています。そこからさらに数歩歩むと、もう流血の事態は避けられなくなるのです。
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