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「捕鳥部萬」は「穴穂部皇子」である――九州王朝による大和政権への干渉

 『日本書紀』「崇峻天皇紀」に「物部守屋の資人」として登場する「捕鳥部萬」の正体が「畿内八国」の支配者である可能性を冨川ケイ子氏が指摘した(註一)。私もその帰結に基本的には異論はないが、このいわゆる「河内戦争」の記事を根拠に「捕鳥部萬」が畿内八国を支配した「河内の独自勢力」であるかのように扱う仮説には同意できない。
 私は「捕鳥部萬」と記される人物の正体は「穴穂部皇子」であると考える。ここではそのことを論証する。

【前提となる仮説】

※九州王朝説について理解がある方(支持はしていなくとも「どういう説かは知っている」という方)は、この節はスルーして大丈夫です。

 まず、本稿の前提となる仮説について説明させていただきたい。
 私は九州王朝説の立場に立つ。基本的には古田史学の会内部の主流派とほぼ同じ見解ではあるが、一部には異なる部分もある。
 具体的には「神武天皇以来の大和政権は、西暦8世紀になるまで倭国を代表する政権では無かった(古田武彦先生は神武天皇実在説)。倭国を代表する政権は九州王朝であった。」というものである。
 私が九州王朝説が正しいと考える理由については、以下の記事を読んでいただけるとお判りいただけるはずである。

  「そもそも九州王朝説って、何?」という方は次の記事を参照していただけると幸いである。

 従って、本稿では7世紀の大和政権の上位に九州王朝が存在したことを前提としている。とは言え、別の前提に立つと当然に結論は異なるであろうが、本稿における問題提起自体が無意味になるわけではない(同じ問題提起に別の観点からの回答が得られる)と考えるので、九州王朝説否定論者にも本稿は読んでいただきたい。

「河内戦争」記事の概要

 全文の引用は割愛するが、いわゆる「河内戦争」記事は「蘇我・物部戦争」(丁末の乱)記事の直後に「物部守屋の資人」である「捕鳥部萬」が「朝庭」に討伐される、という内容の記事である。しかし、「蘇我・物部戦争」直後の時点ではまだ泊瀬部皇子(崇峻天皇)は即しておらず、大和政権に「朝庭」と呼ばれるような存在はいない。
 即位前の段階で穴穂部皇子を「朝庭」と表現している記述も他になく、ここにおける「朝庭」は大和政権の人物ではないであろう。すると「九州王朝の天子」と解釈するのが適当であると思われる。
 また、この「朝庭」が「捕鳥部萬」の遺体を「八段に斬りて、八つの国に散し梟せ」と命令しているが「一、資人」にこのような措置は大袈裟であり、実際には「捕鳥部萬」というのは「八国」に影響力を持った有力者であると考えられる。

「捕鳥部萬」とは何者か

 それでは「捕鳥部萬」とは、何者なのか。「八国」に遺体をさらされるほどの「大物」であるにもかかわらず、『日本書紀』には他に「捕鳥部萬」の記事は載っていない。そして、九州王朝による討伐の対象である。このことから、「捕鳥部萬」の正体は次の二条件に当てはまる人物である。
A九州王朝から討伐の対象と見做されている
B大和朝廷にとって都合の悪い存在である
 そうすると、これに当てはまるのは次の3パターンである。
a九州王朝内部の反逆者
b大和政権内部の反逆者
c九州王朝・大和政権以外の独自勢力

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