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「天国に行きたい!」と言う利己主義者たち

 幼稚園児や小学生に対して、よくこんなことを言う大人たちがいます。

「良いことをしたら来世で天国に行けるんだよ」

 まぁ、私は親からはこんなことを言われたことはありませんが、幼稚園の頃近所のおばちゃんに言われたような記憶があります。また、学校の先生とか、その先生はいかにも無宗教っぽい人だってのでどこまで本気で言っているかは判りませんが、そういうことを言っていたような気がします。

 子供向けの絵本でも「良いことをしたら天国、悪いことをしたら地獄」みたいな話が、時には教訓として、また時にはコメディとして、描かれていたりするものです。

 が、私はそういう話が嫌いでした。だって、それってこういう意味でしょ?

「天国に行くために良いことをしよう!」

 そう、彼らは結局「自分のため」に行動している利己主義者なんですよね。

 そういう人は「良いことをしても利益にならない」とか「悪いことをした方が利益になる」と判断した瞬間、悪人に変貌してしまうでしょう。そのような人が、偶々あるかないかも判らない「天国」行きの切符を求めて善業を積んだところで、彼らは「善人」と言うことが出来るでしょうか?

 私は人間が善なことをするのは「利益になるから」ではなく「本能だから」だと思っています。

 古代中国の孟子の有名な話に「もしも赤ちゃんが井戸に落ちていたら、どんな人でもその赤ちゃんを助けようとするだろう。それが人間の本性だ。」と言う旨のことがありますよね。

 現実問題、昔の井戸の深さは知りませんが、井戸に落ちた赤ちゃんを助けるのは大変でしょう。ただ、赤ちゃんを助けない人には「赤ちゃんを助けるのは難しい」とか「他の人に助けてもらった方がいい」とか、そういう助けない理由がある訳ですね。

 逆に助ける理由は無いはずです。だって、赤ちゃんを助けるのは人間の本能なんだから。

 ワニでも赤ちゃんの泣き声を聞くと助けに行くそうですね。ワニが一々「天国に行くために良いことをしないと!」等と考えているはずがありません。それが本能だと言うことです。

 ところが、人間は一方で本能の壊れた生き物とも言われています。

 世間では「理性は高尚で、本能は低俗」みたいなことを言っている人がいますが、むしろ人間が悪事を犯すのは「利益を求めて理性を悪用した時」に多いものです。

 かつてTwitterで痴漢被害者らしき方が「痴漢は理性の無いバカじゃない、むしろ理性を使ってターゲットを狙っている!」みたいなことをツイートしていましたが、そういう風に理性を悪用している方が世の中には少なくありません。

 政治屋の皆さんなんか、その知能をフルに活用して一生懸命、日本を悪くしようと頑張っておられる方が少なくありません。彼らが本能のまま野生に生きていたら、むしろ政治になど関心を持っていなかったことでしょう。

 こういうと「いや、利益を求めるのも本能だ!」と言う人もあるかもしれません。

 それはそうです。しかしながら、本能が求める利益には限度があります。

 いわゆる「人間の三大欲求」とされる「食欲」「性欲」「睡眠欲」は、それぞれ「満腹になったら終わり」「排泄したら終わり」「熟睡したら終わり」と、限界があるものです。むしろ本能が壊れて欲望への限界がなくなった場合は過食症や性依存症、過眠症と言った病気であると判断されます。

 つまり本能が壊れていない、健康な人たちは欲望にも限度がある訳ですね。

 そう考えると、自分の利益を底なしに追求する人たちは、どんなに理性的であっても本能が壊れていると言わざるを得ません。

 世間では年収10億円を超えている超高所得層もいるそうです。その多くは株式譲渡益で稼いでいると言うことですから、頭は使っている訳です。つまり、彼らはとても理性的です。

 しかし、いくら理性的に何十億円を手に入れたところで、その金を何に使うのでしょうか。衣食住にいくら注ぎ込んでもあまりが出てくることでしょう。

 中国人の中には巨万の富を得た後で、先祖の為の壮麗な廟を作ったりする人もいるようです。先祖を大切にするのは本能だと思いますが、それも行き過ぎると弊害が生じてきます。

 例えば、蔣介石は「私の遺体は墓に埋めるな!大陸を再び奪還してから私の墓を作れ!」と遺言したそうです。自分が死んだ後も大陸で大戦争をしろと言う、恐ろしい遺言です。本能が壊れているとしか言いようがありませんが、それでも台湾に住んでいる国民党系の人たちの中にはその遺言を本気で守ろうとしている人もいる訳です。

 先祖を祀るのも「俺が死んだあともこうやって祀ってほしい!」と言う願望の表れかもしれません。それならば彼らは本質的に利己主義者です。

 人間は本能が壊れると、自分の現世だけではなく死後のことまで欲望が渦巻きます。その一つの現れが「来世は天国に行きたい!」と言うものなのでしょう。

 「来世は天国に行きたい!」と言うのは、キリスト教の最後の審判やヒンドゥー教の輪廻転生の影響もあるかもしれません。

 ヒンドゥー教の輪廻転生観は「良いことをしたらよい人生が、悪いことをしたら悪い人生が待っている」と言うことから出発して「被差別民は過去世で悪いことをしているんだ!」という、おぞましいカースト差別を生みだした有害なものです。

 キリスト教にも本能の壊れた人たちがいました。

 ジョン・ロックという思想家がいます。学校で「社会契約説を唱えた人」とか「『市民政府二論』の著者」とかとして習った人も多いでしょう。

 彼の思想は『アメリカ合衆国憲法』や『日本国憲法』にも影響を与えています。そんなジョン・ロックの著書に『キリスト教の合理性』と言う本があります。

 この本、日本の岩波文庫で出版されたのは令和元年(西暦2019年、皇暦2679年)になってからです。つまり、平成までの日本ではほとんど注目されていませんでした。

 が、キリスト教圏である欧米はジョン・ロックがキリスト教について書いた本となれば、大きな注目をしたはずです。それで私が本屋でこの本を手に取ってみると、表紙にはこう書いてありました。

その後の理神論への道を開いた、ヨーロッパの宗教思想史を語る上で不可欠の書。

 理神論についてはまたの機会に述べますが、近代における重要な思想史の潮流です。それがジョン・ロックから始まった、と言うのは、Wikipediaにも書いていないことですが、岩波文庫の本に書いてあると言うことは、アカデミックの世界では常識だと言うことです。

 さて、この『キリスト教の合理性』の内容は衝撃的なものです。

 ジョン・ロックの『聖書』解釈によると、人間が死ぬ理由は「律法を破った」からです。

不死であることと天上の喜びとは義人に帰属し、神の律法に厳密に合致する生を送った者に死が及ぶことはないが、楽園からの追放と不死であることの喪失とは、何らかの形で律法を破った者、ある一つの侵犯の罪によって律法に完全に従わなかった者に対して[神が]割り当てたものである。(ジョン・ロック『キリスト教の合理性』岩波文庫版、25頁)

 そして、彼に言わせればその「律法」とは「理性」によって判る「自然法」のことなのです。

この律法が理性の法、あるいは、いわゆる自然法であることがおいおい判明するであろう。そして、もしも、理性的被造物[である人間]が自らのその理性に従って生きないとすれば、誰もそれを大目に見てはくれないであろう。(引用前掲書、26~27頁)

 つまり、自然法に従った者には天国で永遠の生を与えられ、従わなかった者には永遠の死が与えられる、というのがジョン・ロックの主張なのです。

 そして、ロックの言う「自然法」には革命権も含まれていますから、もしも政府が自然法に逆らっていたと理性で判断したならば革命を起こすことは「不死であることと天上の喜び」を得ることに直結する、と言う訳です。

 これを読んで、私はどうしてフランス革命が過激化したのか、が理解出来ました。彼らは「天国に行くために」革命を起こして、王様を殺したわけです。怖ろしい不道徳です。

 「天国に行くためには良いことをしないといけない!」という考えと「天国に行くためには悪い奴らを殺さないといけない!」という考えに、一体、どれほどの違いがあると言うのでしょうか?

 どちらも「自分の利益」を今世のみならず来世にまでも止めようと言う、おぞましい利己主義者であることには変わりありません。そのような利己主義者の説く道徳など、一顧の価値もあるとは思えないのです。

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