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広島市内②[2023.8.2]

平和記念公園を離れ、次はどこに行こうかなと思いながら、炎天下の中を歩く。今日はかなり暑い。とりあえず地下に潜ることにした。地下街は決して涼しくはないが、陽に当たらないだけ全然ましである。

行先の表示を見ていると、「ひろしま美術館」とある。美術館なら涼めそう!ということで、表示にしたがって行くことにした。

地上に出て少し歩くと、すぐに看板が見えてきた。

ぐるんぱの絵だ。小さい時に何度も絵本を読んだ。あれを書いたのは堀内誠一って人だったのか。とりあえず中に入ってみよう。

美術館の中は円形になっている。円形の壁に入口が4つ設けられており、それぞれの入口の先が展示室になっている。最初の部屋はロマン派から印象派。ドラクロワに始まり、ギュスターヴ・クールベ、ミレー、マネ、モネ、ルノワール、エドガー・ドガらの作品が展示されている。

さて、僕はなんたら派の特徴がそれぞれどうなっているのか、全くわからない。この機会に簡単に整理してみよう。18世紀の後半に、ギリシア・ローマの芸術を規範とする新古典主義が出てきた。古典主義がルネサンスのことだから、再度、古典古代の芸術に立ち返るというところか。これは形式や主題を重んじていたらしく、もっと自由を、ということで18世紀の後半に出てきたのがロマン主義。

また、当時パリではマネやモネが活動していた。チューブ入り絵の具の発明により、彼らは野外での制作が可能になる。これが従来とは違うタッチを(おそらく)可能にしたわけだが、画壇を牛耳っていたのは新古典派だったから、形式に沿わない作品はアカデミー主催のサロンで入選することができなかった。

ついに画家たちの不満が爆発することになり、ナポレオン3世は落選者のための展覧会を開催。マネの作品は酷評される。その後マネら一派は印象派展を繰り返し開催したが、画商が印象派をアメリカに紹介するまでその評判が好転することはなかった。

さて、第1展示室を出て第2展示室に入る。ここはポスト印象派と新印象派の部屋。ポスト印象派といえば、セザンヌ・ピカソ・ゴーギャンが代表的である。新印象派はスーラやシニャックに代表される。このあたりは明確にまとまった流派ではなく、見たものをそのまま描く印象派に対して科学的な画面構成を重んじた画家たちであったようだ。

第3展示室はフォービズムとキュビズム。マティスに代表されるフォービズムは、色彩こそ感情を揺さぶる手段だと捉え、平面的な絵を描いた。それに対してピカソやジョルジュ・ブラックは、立体を面に分解し、平面上で再構成した(そうだ)。

最後の第4展示室はエコール・ド・パリだ。1920年代にパリで制作活動をしていた画家たちのことを指し、その作品が並んでいる。

良い感じに涼めたところで、美術館を出る。まだホテルのチェックインには時間がある。もう少しあたりを散策しよう。

ということで、すぐ近くの広島城へ。今は二の丸と本丸の跡しか残っていない。もしかして跡地だけ?と思っていたが、置くまで歩いていくと立派な天守が見えてきた。

広島城は平城である。中世は戦略的な理由から山城が好まれた。だが秀吉の天下統一後、城は軍事の拠点から領国統治の拠点に変わる。1615年の一国一城令によって、城は大名の住居と行政の役割のみを担うことになったことが大きい。もはや山城を立てる必要はなく、平城や平山城が好まれるようになった。

戦国時代に毛利元就が出てきて、中国地方の大半を支配する大名となる。その孫である輝元が広島城を築城。彼は秀吉から中国地方の100万石以上を安堵された。城下町を整えたが関ヶ原の戦いで敗北、領国を諏訪・長門の2カ国に削封されてしまった。

代わって入場したのが、福島正則である。彼は太閤検地を実施し、兵農分離を徹底、インフラの普及にも力を入れたが、城の無断修復を問われて広島から去ってしまったのは有名な話だろう。

広島城内、暑かった…冷房が効いているわけではないので、展示を見ている間も汗が出てくる。他にも色々展示があったけれど、そろそろ降りてホテルに向かうことにした。夕暮れの時間。放課後の高校生が列をなして下校している。今日は本当にうだるような暑さで、若干熱中症気味なのではないかと疑いたくなるほどだ。

2,30分ほど歩き続けて、ホテルに到着した。荷物を降ろし、もう炎天下の中を歩かなくてよいという喜びを噛みしめる。

さて、晩御飯こそお好み焼きだ。川を渡った高架下に、お好み焼き屋さんを発見!

想像していたものとは違い、麺がベースだ。その上に卵やエビが乗っかっている。コテでザクッと切る感覚がたまらない。お好み焼きを食べるという目標を無事に達成し、1日を終えた。

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