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米沢[2023.5.1]

今回は東北を巡る旅。仙台国際空港からのスタート。仙台駅までは、空港から電車が出ている。

仙台駅についたのが10時半ごろ。予定では、今日は岩手観光をするつもりだったが、時間が足りないことが(当日になって)分かったので、明日に回すことにした。というわけで山形県米沢市へ。

仙台と山形の間は、奥羽山脈を横断する仙山線が走っている。山を切り開いて線路を引いた感が満載。しきりに警笛を鳴らして進む。

12時前に山形駅に着き、東京行きの新幹線に乗り換えて米沢駅に到着。

米沢といえば米沢牛だが、貧乏学生には高すぎるのでビーフカレーという形で妥協。

米とカレーが別れているケースはなかなかレアなんじゃないか。家で作るカレーに似ているが、結構こってり。1日か2日か寝かした感じの味。

昼ごはんを食べ終え、目的の上杉博物館へ。

特別展をやっているのは知らなかった。「上杉景勝と関ヶ原合戦」展。上杉氏といえば、室町時代に関東を管理するために置かれた鎌倉公方を補佐する関東管領を担っていた一族である。今回の展示は、関ヶ原の戦いに上杉氏と東北がどう関わったかに焦点を当てた展示となっている。

そもそも、関ヶ原の戦いというのは、豊臣秀吉の死後、合議制を打破して自らが権力を握ろうとした家康の東軍と、合議制の維持を図る石田三成の西軍が関ヶ原でぶつかるという戦いである。

少し時代を遡る。秀吉の統一事業後、奥州(会津)の伊達氏の影響力を削ぐために蒲生氏郷が会津に入った。ただ、そのあと彼が急死したためにお家騒動があり、上杉景勝が東北の諸大名の監視をすることになった。

秀吉の死後、五大老による合議制ができあがるが、景勝もその一人であった。同じく五大老の家康は合議制を破って自らに権力を集中させようとしたが、景勝はこのことに反対。したがって、家康から上洛せよと言われても従わなかった。このため家康は会津征伐を決行する。家康軍と出羽の最上氏が景勝軍を挟み撃ちにする計画であった。ところが、家康が東へ向かう隙をついて石田三成が挙兵。家康は西上し、両軍は関ヶ原で戦うことになる。結局家康と景勝が戦うことはなく、景勝は「後顧の憂いを絶つため」(Wikipediaより)最上氏と戦うことになった。

関ヶ原の戦い自体は家康の東軍が勝利したので、景勝は戦後処理を受け、米沢へ減移封となった。上杉氏が米沢藩を治める時代はここから始まるのである。

米沢藩と言えば、9代藩主の上杉鷹山が名君として知られている。彼は苦しい藩財政をかなり改善した。リストラと倹約の奨励で歳出を抑えると共に、絹の専売といった産業振興で歳入を増やした。また、他の藩のモノをできるだけ買わず、米沢藩内でお金が回るようにしたようだ。

上杉謙信を祀っている上杉神社にも寄ってみた。何かのお祭りをやっていたようで、出店が沢山並んでいた。学校帰りの中学生とか高校生が多かった。

米沢駅に戻る道中で撮った風景を載せておこう。手前は最上川。

17時前の新幹線で米沢駅をあとにし、行きと同じルートで仙台に戻った。さすがに奥羽山脈横断の往復は疲れました。




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