見出し画像

今までの歩みとプロフィール第1章

初めまして
高橋知幹です。

本日の記事は、初めてこのページや私のアカウントをご覧になってくださった方に向けて書きたいと思います。

野球・スポーツのコンディショニングに、
ピラティスとトレーニングでケガしない体作りとパフォーマンス向上を専門にしているトレーナーの仕事をしていますが、自分がどんな人間なのか自己紹介させていただきます。


野球少年だった自分がプロ野球トレーナーになるまで


野球少年がやりたい事を見つける

1985年生まれ、東京都目黒区出身

小学校4年生から野球を始め、中学時代はシニアリーグに所属し、全国大会に出場したりと野球が大好きな少年でした。

中学時代は、毎日、父と近所の駒沢公園でランニングやトレーニングをして、その後、バッティングセンターに通い詰めて、ひたすら練習をしていました。

毎日、バッティングセンターに連れていってくれて1000〜2000円も打たせてくれた父には感謝しています。

中学2

高校へは野球推薦で西東京の高校に入学し、甲子園を目指して日々野球に明け暮れていました。

しかし、
小・中・高とケガの連続で、ケガばかりしていました。

大事な大会前にケガをしてしまったり、
仲間が上手くなっていくのを間近で見ていて素直に喜べなかったり、
レギュラーを取られて戻る場所がなくなるのではないかという不安や悔しい思い出ばかりでした。

大学でも野球をしたかったし、体育教師にもなりたいとも思っていましたが、

自分はケガが多く苦しんだので、ケガで好きなスポーツを断念したり、ケガで苦しむアスリートを救いたいと想い、身体に関わる仕事に興味を持ち始めました。

ケガした時に、近所の鍼灸整骨院に通い、鍼を打ってもらっていたこともあり、鍼灸への興味が湧いてきました。


その後の進路は、

身体に関わる仕事がしたい、

野球やスポーツに関わりたい、

手に職を付けたいと考え、トレーナーになるために鍼灸の道に進みました。

鍼灸師の道へ、そして第1のターニングポイント


鍼灸学生の頃、

病院でリハビリ助手のアルバイトをしていた時に、一冊の本に巡り合いました。

病院のリハビリ室の机の上に

『整形外科理学療法の理論と技術』という本が置いてあり、

おもむろにその本を開いて読んでみると、そこに書いてあった内容が面白すぎて、感銘を受けたのを今でも覚えています。

まだ鍼灸の学生だったので、本に書いてある内容は難しかったですが、自分がやりたい事はこういう事なんだと気づいたタイミングでした。

もっともっと身体の事を勉強したいという想いが強くなりました。

この本の著者である理学療法士の

山口光圀先生、入谷誠先生、福井勉先生のようになりたいと思い、

理学療法士の道に進む事を決めました。


当時、

鍼灸学生の中には、卒業後に柔道整復師の資格を取りに行く人がいて、将来は鍼灸整骨院の開業を目指す人が多かったです。

鍼灸師と柔道整復師のダブルライセンスを持った人は多くいましたが、

鍼灸師と理学療法士の組み合わせはまだ珍しく、

他の人と違う事をしたいと思っていたのも理学療法士を目指したきっかけの一つでもあります。


これが、人生の第1のターニングポイントでした。


鍼灸師の道から理学療法士の道へ

理学療法の学校に入学後、午前中は鍼灸整骨院で働き、午後は学校の自習室と図書館に通い詰めました。

4年間で1,000冊の本を読もうと決めて、とにかく本や文献など読み漁りました。

就職の時期になり、周りは幅広い知識と経験を積むため総合病院や大きな病院などに就職を決めましたが、

この先、専門性を持たないと生き残れないと思い、スポーツと整形外科に絞りました。


身体の部位で肩関節が好きだったので、肩と野球に力を入れている病院を就職先として探し回りました。

関東だけでなく、関西にも見学に行ったりしていました。

就職先の選び方は、“この人(上司)についていきたいと思えるか”を基準に選びました。


なので、

見学に行く先々で、“理念や哲学、想い“などを聴いて回りました。


その中で一番、情熱的で胸に刺さったのが、千葉県にある松戸整形外科病院でした。

そして、松戸整形外科で理学療法士としての人生がスタートしました。

画像3

あの時、本で感銘を受けた憧れの先生方と同じステージは立てましたが、臨床はそんなに甘くはありません、毎日打ちのめされる日々でした。

たくさん文献や書籍を読み漁り、本に書いてあることを実践してやってみるもののも実際の患者さんに対しては、効果的ではなかった事もあり、悩む日々でした。

目の前の患者さんを良くするためには、きちんと患者さんに向き合うことの方が、よっぽど大切な事だと痛感させられました。

めげていても翌日には患者さんが来ますので、

同僚の身体を借りてテクニックの練習をしたり、

あれやこれやと患者さんの事を考えて翌日の準備をしていると、気づけば時計の針がてっぺんを回っていた事も多々ありました。

中学生の頃から毎日コツコツとやるのが好きな自分は、毎週、毎週、講習会やセミナーにコツコツと受講し、総額は高級外車を買えるくらいになっていました。


松戸整形外科ではたくさんの出会いがありました。

頭でっかちになっていた自分に決めつけない事を教えてくれた先輩

理学療法士の独立というチャレンジングな背中を見せてくれた上司

入谷式足底板の権威で、職人魂を見せてくれた上司

情熱とリーダーシップを見せてくれた上司

そんな諸先輩方のいる松戸整形外科での時間は非常に濃い時間でした。


第2のターニングポイント

これから病院で理学療法士として、レベルアップをしていこうと思った時に、

プロ野球のトレーナーの公募を見つけました。

アスリートのケガを救いたいという想いで、この世界(業界)に入りましたが、プロ野球のトレーナーは別世界、別次元の話だと思っていました。

一度は憧れるプロ野球のトレーナーですが、まさか、目の前に挑戦権があることに驚いたのを覚えています。

このまま病院に残って、理学療法士として経験を積んでいくのか、新たな挑戦をするのか。

悩みに悩みました。


正直、すぐには決断できなかったと思います。

でも、

人生を振り返った時に、こうしておけば良かったなと思う人生を歩みたくなかったので、挑戦することを決意しました。

自分で挑戦するために辞めると言い出したからには、採用されなかったからって病院に戻るわけにはいかないので、背水の陣でした。

画像2

これが人生の第2のターニングポイントでした。

暖かく送り出してくれた松戸整形外科に感謝です。

そんなこんなで、なんとかプロ野球のトレーナーになれたのですが、この先の奮闘記はまた今度書きます。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

そして、


こうしてプロフィールを書いていると様々な人たちに支えられて、今の自分がいるんだなと想い、関わってくださった方々に感謝の気持ちでいっぱいです。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?