【映画】「その手に触れるまで」

2019年の映画「その手に触れるまで(Le jeune Ahmed)」(フランス・ベルギー合作、ジャン=ピエール・ダルデンヌとリュック・ダルデンヌ兄弟が監督)。

ムスリムの過激思想に染まった、ベルギーで暮らす13歳の少年アメッドのお話。

80分強と短い作品だが、それこそ過激なムスリムの連中に、反ムスリム的と殺害予告でも受けそうな、けっこう衝撃的な内容だった。

一月前までフツーのゲーム好きヲタク少年だったアメッドは、兄と一緒に街の小さなモスク(礼拝堂)に通ううちに、そこの導師の教えに感化され、コーランを学習して、日々の礼拝にも真面目に取り組む敬虔なイスラム教徒となった。
家族は、アメッドの変化に戸惑い、母親はイスラム過激派になって死んだ従兄のようになってほしくないと悲しむが、アメッドには、その従兄が憧れの存在となっていた。
そんなある日、学校の担任のイネス先生がアラビア語を歌を通して学ぶ授業を提案する。
アメッドはその提案をモスクの導師に話すと、導師は「聖なる言葉を歌で学ぶなど冒涜的だ」といい、イネス先生は背教者で、ジハード(聖戦)の標的だと教える。
保護者との会合でも、アメッドは「先生の新しい彼氏はユダヤ人だ」とイネス先生を攻撃する。
イネス先生は「コーランは異教徒との共存を認めているのよ」と教えようとするがアメッドは聞く耳をもたない。
とうとうアメッドは意を決して、靴下にナイフを隠してイネス先生のアパートを訪ねる。ドアから出て来たイネス先生に襲い掛かろうとするが、先生は部屋に逃げて、アメッドは先生を殺すことはできなかった。
彼は導師に促されて警察に自首、少年院に入ることに…。

まだ何も知らない純粋な少年だからこそ、一旦、染まってしまうと容易に過激なことに手を出してしまいがちだろう。思い込んだら一直線。

でも、最後に自分の身が危うくなる経験をして、イネス先生の手を握って「先生、ごめんなさい」と泣いて赦しを乞うことになる。

しかし、女性との握手を拒否し「大人のムスリムは女性に触らない」とか、「異教徒は殺さなければならない。ユダヤとキリストは敵」とか、「アラーの道を進み闘え、邪魔するものは殺せ、見つけ次第排除せよ」とか、聖典コーラン以外は絶対認めないとか、一見、人間のあらゆる活動を狭めることしかしないように見えるムスリムって、一体何のためになってるのだろうか?それも神と共にあり神の下に行くなんて、全くの概念、いや単なる空想妄想のためにだ。まあ、それが宗教なのだろうがね。

少年院の課外活動で出会った女の子が積極的でアメッドにキスを迫り、彼の心は揺れ動くことになるが、このシーンこそ、とても人間的な自然の感情の表れであろう。

過激な宗教に囚われた人間の洗脳を解くって、とても困難なことで、表面的には瓦解して受容したように見えても、奥に強固に残ってたりするものだ。映画のように更生プログラムでも無理で、やはり女の子との触れ合いなど、宗教では抑えられてた人間の根源的な欲を刺激する方法が良いのかもしれないね。

やっぱり何も知らない少年に過激思想を植え付けた大人が悪いのだろうか。単純にそれだけでは済まないような感じもする。たいてい過激思想に染まる者は思想からではない。自分が持つ不安や不満、不幸感を発散させて覆い隠すために思想に手を出すのだ。

すぐ近くで肉迫するようにアメッドを撮るカメラが臨場感を盛り上げてもいる。

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脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。