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「千年の愉楽」

若松孝二監督の遺作となった「千年の愉楽」(2013)を観た。無頼派作家・中上健次の連作短編小説の映画化だ。

ある“路地”(中上健次は被差別部落のことをこう表現した)といわれる海辺の町に住む産婆のオバァと夫の毛坊主(剃髪しない僧侶)。オバァが取り上げた男たちの不運な生き様を描くのだが…。

“路地“には、“名家・中本家に生まれた男たちは代々、女が放っておかないイケメンでありながらも、若くして不運な運命を辿る”という言い伝えがあった。なぜなら中本家の先祖がある罪を犯したため、“中本の血は汚れてる”と言われてきたためだ。

オバァが産婆となって初めて取り上げた子・半蔵から、次に取り上げた半蔵の祖父と浮気相手の女との間に出来た子・三好、最後に半蔵のいとこ・達男の3人の若者の生き様。

血筋からは誰も逃れられない、どんなに取り繕っても結局、祖先と同じ道を辿ってしまうという血縁を重んじる日本の土着的な風習、文化、習慣。

そんなこといったら、俺なんか絶対に世間体ばっかり気にしてた親のチンケな小市民っぽい生き方をするしかないのか。

若松監督ではお馴染みの寺島しのぶがオバァを演じる。最後に達男に言い寄られて抵抗しながらも結局身体を任せてしまうオバァを見てると人間の欲の業を強く感じる。

善悪は別にして、これも人間が生きるということなのか。年老いて寝てるオバァが囁く。「生きて、死んで、生きて、死んで、生きて、死んで…オバァはいつもここにおる」。

全てを受け入れて手を合わせて祈るオバァの懐の深さを感じるが、やっぱり女はスゴい、かなわねえ。

日本映画の極端な欲の描き方には必ず女が出てくるね。秩序もルールもないところで絡み合う。

“路地”という閉ざされた世界では自分の宿命といったものに翻弄されるしかないのだろうか。3人の若者達も外に出れば血筋からは独立することができたかもしれないね。そもそも血筋に高貴も穢れもないがなぁ。

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脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。