「私の文学史」

町田康氏は、パンク歌手の“町田町蔵”時代、法政学館か日比谷野音でライブを見た。バンド“INU”のアルバムも持ってる。
確かに音楽よりも詩に重きを置いたような曲だった。
風貌がジョン・ライドン(ジョニー・ロットン)みたいで、映画「爆裂都市 BURST CITY」のガイキチ兄弟をやったこともあって、当時はパンクそのものだと思ってたが、活字を愛するインテリだったとは。

そういえば、最初の詩集「供花(クウゲ)」もあまり面白くはなかったけど、すぐに入手して読んだなぁ。文壇デビューしてからは、いくつかの小説と随筆、読者からの質問に答えた本などを読んだが、あまり良い読者ではない。

この新書は、町田氏が表題のタイトルで12回に渡ってラジオ放送された講座の記録。

まず、自分が、現実に自分を認識しながら生きている世界を「この世」、小説や映画など、自分という意識がなくなって、離れたところからただ見ている世界を「あの世」と分けるのがイイね。

2つの世界の間は断絶してるのが普通だけど、時に概念として境界線があやふやになって、「あの世」が「この世」に大きな影響を与える場合がある。実践すると危ない人だけど、多分、それが“良い小説”ではないだろうかと思う。

基本的に文学は嘘の世界だけど、現実でも欺瞞と建前は社会では欠かせないものであるし、そういう意味では、文学はめちゃくちゃ現実の世界に則してる最も身近な表現形態ぢゃないかと考えるね。

著者は詩集も出してたけど、言葉には「わかるからわかる」「わからんけどわかる」「わかるけどわからん」「わからんからわからん」の4つがあるという。

詩は“感情の働きを言葉にしたもの”だから、この中では「わからんけどわかる」、こういうものが詩というものではないかとしている。

たいていの詩はつまらないものだけど、なんかわからんけど、感情が揺さぶれる、なんで揺さぶれるかはわからんけど、スゴいコレはわかるわぁ、ということだろうな。

細々としたことは抜きにして、自分にとって大切なことって一体なんやろう?究極、それは自分が、まさにこの世界に存在して生きてることぢゃないか!と。それを感じさせてくれる詩こそが面白い詩といえるのではないだろうか?

絶対に面白い文章を書くコツは、本当のことを書くこと、本当の気持ちをダイレクトに書くことに尽きるという。文を書くのが上手いとは別。ホントのことを書いてる人はプロでも少ないと。

それには技術ももちろん必要だが、カッコつけや、こう読まれてるという自意識、勝手なイメージを限りなく排除することでもある。中身よりも表面的な意図(つまりはカッコつけ)が見え見えの文章のなんとつまらなくて読みにくいことか。自意識を完全に排除して、丸裸になって書くことだ。

他にも、いろいろと示唆されることも多かった面白い新書であった。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。