大分コケ

ナラティブについて物語る

次回のArts Based Educations研究会の打ち合わせをしている中で「ナラティブ」という言葉をヨースケさんとゆりさん、そして僕が各人それぞれの意味で使っていて、すり合わせをしてみるとまったく違うとは言えないけれど、どこか違うということが分かってきました。そして各人が、自分がワークショップや活動をする中で大切にしているある部分を表すのに使いやすい言葉として使っているように感じたので、それでは「ナラティブ」をどういう意味で使っているのかをそれぞれ書いてみましょう、ということになりました。


さて、それでは僕も書いてみようとすると確かにいくつかのことがあるのですが、それは整理されているものではなくて、いくつかの概念がコラージュのように切り貼りされている感じなので、整理されぬままに書きつらねてみて、語ってみることで何かしら見えてくるものがあったら見てみようと思います。


夜明け前

エビデンス、因果律の対抗としてのナラティブ

「ナラティブ」はもともとは「物語り」という一般的な言葉だったが、最近はいろんな意味合いをこめてよく使われるようになってきていると思います。「ナラティブ・アプローチ」「ナラティブ・セラピー」など。これは、従来の治療効果のエビデンスを出すための臨床や事象にはそれを引き起こす原因があるという因果律を前提とした考え方に対抗するものとして使われたのではないでしょうか。僕もプレイバック・シアターの効果について説明する際にナラティブ・アプローチの概念を使って説明していた時期があります。が最近はあまりそれはしなくなってきました。説明しようとすればするほど、結局は因果律の考え方で説明しているのではないかと、はたと思ったのです。プレイバック・シアターはただプレイバック・シアターでいいのではないか、と。

私たちは何かを説明する、伝える際に何か系統だった筋道や明確な論理構成、分かりやすい対比とかを示せると説明しやすい、伝えやすい。それは大切。でもそうでもないものもあるのではないかと。否、書いていて二元論を前提として語っていることに気がついたのですが、その懸念は一旦置いておいて先に進むことにする。



語りたいことがない人、来てください

何が言いたかったんだっけ? わからなくなったとこから始める。具体的なことを書きたくなったので、プレイバック・シアターで起きていることを書いてみる。プレイバック・シアターでは語り手が語ります。最近僕は「何も語りたいことがない人、ぜひよかったら来てください」と語り手の席にさそうことを好みます。何も語ることがありませんという人が語ることに興味がわきます。そこからわき起こってくるものに何か純粋なものを感じるのです。

プレイバック・シアターでは語り手の席は特別な場所です。語り手が語ることを中心に物事が進んでいきます。語り手を大切にすることを何よりも重要視します。さらに語り手は自ら手をあげてその席に座ります。ですから語り手になるということはその人にいろんな影響を与えます。「ちゃんとしたことを言わないといけない」とか「私が言うことをみんなは理解してくれるだろうか」とか「私が言うことなんか劇になるのだろうか」とか。そういったわきでるものに僕は尊さを感じます。「ちゃんとしたことを言わないといけない」とどこかで思いながら語る「ちゃんとしたこと」ではなく、その人の中でその場でその時にわきおこっていることが愛しいのです。ですから重力場の強い語り手の席に何もないというよりどころのない状態で来て、そこで感じた感情から思い起こされた経験、その経験がどうしてそこで浮かびあがったかは分からなくても、それがその場の真実のストーリーだと思うのです。


苔の一閃

ナラティブとストーリー

ここで僕はストーリーという言葉を使いました。少し分かってきました。その人がその場でただ思い浮かんだことを語ること、そうやって語られたことがナラティブだと僕はとらえています。そして浮かびあがってきたある切り口で構成してその場で分かち合われる劇にするプロセスにおいてストーリーとなります。プレイバック・シアターでは「ハートを大切にする」「ハートは何か」とうことがよく言われます。ハートを表現することが大切だと。ハートとは真実とか中心とかという意味なのですが、イメージとしては語られたストーリーからいろんなことをそぎ落として一番最後に残るもの、語られたことを煎じていって最後にのこった凝縮されたもの、のようなものです。僕は、語り手の語るストーリーの根底にある感情だと説明しています。ですからハートを浮かび上がらせたもの、もしくはハートを浮かび上がらせる対象として見るものがストーリーです。


大分首なし地蔵

言いっぱなし、聞きっぱなし

アルコール依存症の人達の自助グループ”AA”のミーティングで、「言いっぱなし、聞きっぱなし」という言葉があります。この「言いっぱなし、聞きっぱなし」の場で語られているのはナラティブで、そこに何らかの真実や大切なものが浮かびあがりストーリーになるのではないか。ただし、ストーリーはただただ語られたナラティブのなかからつむぎだされるもの。ですからプレイバック・シアターのコンダクターは、まずただ語ってもらうことから始める、それを僕は心がけています。

きいてくれる人がいる

最後にもうひとつ、ナラティブ ただ語ること で大切なのはきいてくれる人がいるということ。ひとりで誰もいない場所で、ただ語っているのではない。ただただきいてくれている人がいる。どういうきき方をしているか、とかもあるのでしょうが、そこはここでは触れないことにします。「聞く」「聴く」とかの次元ではないことを書きたいのですが、そこには今日は行きつけそうにないので。

ナラティブには潮時もあるようです。

読んでくれる人がいる。その前提で書きました、ただ書きました。

場づくり、プレイバック・シアター、ワークショップ、企業研修、Arts Based Education そして時々沖縄について語りたいとおもいます