水分補給
この世の中に一つのものを善悪で片付けられることなんぞ、あるのだろうか。メリーバッドエンドという言葉すら生まれている始末だ。そもそも全てに善悪があったとて、それを人間が判断すること自体が傲慢なような気もする。
私に言わせれば自殺も、その根源にあるであろう希死念慮も、善悪などつけられない。
まず、死んだ、生きながらえた、どちらが悪であろう。根源にある事象も、相対的には悪とは限らない。それを紛らわせてくれている救いも、さらに言えば、死にたいという気持ちすらも。
あまり賢くない私がいうのはよろしくないのかもしれないが、頭が良い人には頭が良い人なりの苦労があるのだと最近聞いた。
私の希死念慮を拭ってくれていたのは、クラスの大半が見て見ぬ振りをする、自主課題の要約だった。
そして、正直なところ、死にたいという気持ちは私にとって負荷であると同時にエンジンであった。死にたいという気持ちは生きるエネルギーだったわけで、だから、勉強のエンジンも希死念慮だったわけで。それに気づいてしまった今、私は歩みを止めないことに精一杯である。人より劣っていて、それを判っているのに。辛いと言う自分すらも認めてあげられないこの矜持を、これはまた大切に抱いて、とうとう日が昇ることに抵抗もできないのだ。
時間が経てばなんたら、というのはすごく都合の良い見方だと思う。すこし矜持を損ねるような気すらする。私は時間の中を流されているわけではない、受動的に解決を待っているわけではない。時間をごくごく飲み込み、わたし自身が変質していく。
まあ、こういう面もあったよね。と言えるまで、時間を嚥下する。子供の頃、サンドイッチのレタスが嫌いでした。まあ、そういう時もあったよね。でもいまとなっては外せないよね。六月も中旬ですよ、置いていかれてはいませんか。時間補給、忘れていませんか。熱中症にはお気をつけて。
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