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ブラジルでお世話になった玉木さんの話

1995年の4月、僕は初めてブラジルに行きました。

サンパウロ、グァルーリョス空港に迎えにきてくれたのはお二人の方。

ブラジル在住の玉木さんと、日系ブラジル人のケンジ清原さんでした。

2つの大きなスポーツバックとエナメルのバックを持った僕は、そのお二人に連れられて車に乗り込み、快晴で太陽が眩しい、ブラジルらしい天気の中、サンパウロ市内の東洋人街、リベルダージに向かったのを覚えています。

余裕があり堂々としたイメージの玉木さんと、タレントの大橋巨泉によく似た清原さん。清原さんの奥さんや弟さんのジョルジさんにもお世話になりましたが、やはり玉木さんに対しての感謝は今でも変わることはありません。

クラブ間とのトラブルが起こるようになり、それまでメインで色々と動いてくれていた清原さんが、清原さん曰く『最高顧問』の玉木さんに解決を依頼されてから、玉木さんに強くお世話になることになりました。

サンパウロ州のサントス市にあるACジャバクアラの練習に参加ができなくなり、サントスの砂浜やホテルの駐車場で自主練せざるを得なくなってから2週間、玉木さんが僕らが滞在していたホテルに現れました。

『明日もうここから出るぞ』

今までの経緯を含めて、環境を変えなくてはいけない。救われた気分でした。

翌日、ジャバクアラの役員がホテルを訪ねてきて、『明日から練習に参加していいから』と言っていましたが、もうその必要はありませんでした。

やはりサンパウロ州のECサンジョゼの練習に参加することになりましたが、練習カテゴリの関係等も相談し、前に練習に参加していたミナス・ジェライス州のユーラカンFCに移らせてもらう等の我儘を聞いて頂き、その1週間の間でだいぶご迷惑をおかけしたなぁと、振り返ると思います。

その後、サンパウロ州のウニオン・クルゼイレンセに移ってからは、月に1回くらいひょこっと様子を見にきてくれました。

リベルダージ(前述の東洋人街)で、『ラーメンもたまには食べたいだろ?』と、ギザギザのパッケージのカップスターを買ってきて頂いたり、日本から玉木さんのお宅に届いた手紙を持ってきてくれたり、『そこで売ってたんだけど、美味そうだったから。誰か料理して食べろ』と、海老を買ってきてくれたり…常に笑顔だったのを覚えています。

日本に帰国した後も、年に数回ブラジルから日本を訪れ、『ちょっと来られるか?』と都内まで呼んで頂きました。それだけでなく、『困ったらこの人を訪ねろ』と、某社を紹介して頂き、アルバイトさせて頂くきっかけにもなりました。

国際電話で色々とお話もする機会がありましたが、当時はその電話代もとんでもない額だったでしょう。

数年前、ブラジルで一緒だった友人と電話で話した時、玉木さんが亡くなっていたとの話を聞きました。

友人は新婚旅行でブラジルに行き、玉木さんのお住まいを訪ねたところ、奥さんから亡くなったと伺い、お線香をあげてきたとのことでした。

気がつけば連絡が無くなり、こちらからも連絡をしなかったことを後悔しています。

玉木さんにお世話にならなかったら…ブラジルでの生活はどうなっていただろう?それくらい玉木さんには感謝しています。

また、玉木さんの奥さんや娘さん達には、僕たちに玉木さんが時間をかけることでご迷惑をおかけしたと思います。

あの頃があったから今があるわけで…本当に感謝しかありません。

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玉木さん、ご恩は忘れません。ありがとうございました。

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