見出し画像

たそがれのディードリット[エピソード1・猩々退治]

 その日、家に戻ると屋根の上に二羽のカラスがとまっているのに気が付いた。それ以上、特に気を留めずに玄関の戸を開くと、カラスたちは地面に降りてきてあたしのかたわらに来た。
 家の中に入ろうとすると、カラスたちも歩いて一緒に入ろうとしてきた。カラスは警戒心の高い鳥なので、不思議な行動をするものだと思ったが、あるいはこれは何かあるのかなと思い直した。
「小さな子たち、あなたたちも家に入りたいの?」
 声をかけるとそれに反応するように、小さな脚で歩きながら家の中まで入ってきたので、カラスたちが中に入ったことを確認したところで戸を閉めた。
 すると一瞬のうちに二羽のカラスは黒い人影に姿を変えた。黒いローブを着て、二人とも細身で背が高く、一人は男性でもう一人は女性だった。
「あら、スレインにレイリアじゃないの。お久しぶりね」
「ごきげんよう、ディード。何の前ぶれもなく訪ねて来て申し訳なかったね」
 二人のうちの男性の方、フレイムの魔術師にして旧友のスレイン・スターシーカーが口を開いた。
「本当は生身の身体で来たかったのですけど、あいにくここ最近、私も妻もすっかり足腰が弱くなってしまいましてね……それでつがいのカラスの身体を借りてここまで来たのですが、そのせいで私たちもこんな黒づくめの格好をせざるを得なかったのですよ。まるで葬式か何かのようで申し訳ない」
「あなた……」
 スレインの妻、レイリアがたしなめるように口をはさんだ。二人と会うのは十年前のパーンの葬式の時以来だったので、彼女はそのことを思い出して気にしたのかもしれない。あるいは、スレインがなかなか本題を切り出さないのでじれったくなったのかもしれない。
 スレインもレイリアも、どちらも年齢は八十ほどになっているはずだが、その割にははるかに若く見える。二人とも姿勢が良く、とても足腰が弱っているようには見えない。スレインは若い時から老け顔だったが、それからほとんど変わっていないように思う。レイリアは、神秘的とも思えるような美しく整った顔立ちを保っており、髪の毛も艶やかな黒髪のままだ。もっとも、魔法で黒く染めているのかもしれないが。
「どう、まずは座ってお茶にでもしない? 昨日摘んできたハーブのお茶があるわよ」
「ありがとう、ディード。でもこの身体はカラスからの借り物なので、お茶は遠慮しておくよ」
 そういうとスレインはソファーに腰掛けた。レイリアもそれに続く。
「実は私たちがここに来たのは、ディード、君にお願いがあるからなんですよ」
「お願い? 何かしら?」
「実は……君に私たちの家まで来てもらいたいのですよ」
「あなたたちの家に……?」
「来てもらって、どうしても君にしてもらいたいことがあるのですよ。それも私たちの足腰がまだなんとか立つうちに……残念ながら、私たちは君ほど長生きすることは出来ないのでね」
 レイリアが言葉を続けた。
「ディードリットさん、実はこの問題はどちらかと言えば私自身の問題なのです。今はまだ詳しいことはお話できないのですが……どうかお願いします」
 レイリアは深々と頭を下げた。あたしの視線は否応なく、彼女の額にあるサークレットに引き付けられる。
「分かったわ。すぐにでも行くわ!」
「ありがとう、ディード。でもまあそんなに大急ぎでなくても、二月か三月くらいかけてロードス島をゆっくり巡りながら来てくれたら良いですよ。幸い、ここ数年は各国の間で戦争もなく、世の中も落ち着いているので、旅もそんなに危険はないと思います。もっとも今のロードス島に、「森の乙女」ディードリットを倒せる者などそうそういないと思いますが……」

 そうしてあたしは旅に出ることとした。そしてせっかく旅に出るので、途中でヴァリス王国にも立ち寄って、エトにも会ってこようと思い立った。昔の仲間で他に存命なのはエトだけである。パーンは十年前にこの家で亡くなった。ウッド・チャックことジェイ・ランカードは、それより前の今から四十年ほど前にすでにこの世を去っていた。
 邪神戦争の後、カーラの支配から逃れたウッドは「これからは可愛い子ちゃんのハートを盗むことに命をかけるぜ」とうそぶいて、拠点を定めずロードス島中をさすらっていた。時折あたしたちの家にふらっと現れては一月ほど勝手に居候して、ふといなくなったと思うと一年くらい連絡がつかないということを繰り返していた。ただ不思議なことにスレインの娘ニースは彼になついていて、彼もニースが嫁いだマーモ公国にしばしば滞在していたようだ。そして最後はマーモ公国で晩年を過ごしたのである。
 昔の仲間といえば、ギムのことも忘れられない。彼はカーラとの対決で命を落とし、ルノアナ湖の小島に眠っている。旅の途中に、ぜひ彼のところにも立ち寄りたい。
 そういう訳で、あたしは旅のルートを決めた。まずアラニアに出て、そこからカノンを通ってヴァリスにいたる。そこからルノアナ湖を通ってフレイムを経由し、今のスレインたちの家があるライデンにいたるという、ロードス島を横断する行程だ。
 その最初の経由地であるアラニアで、あたしはジークと知り合ったのである。あたしたちは意気投合し、パブでエールを酌み交わしている間にすっかり仲良しになった。ジークはヴァリス王国に向かう旅の途中であったとのことなので、アラニアからヴァリスまで一緒に旅することとなったのだ。

 ジークことシグルドは、もともとヴァリス王国の出身だという。その父はヴァリスの従騎士であったが、ジークが幼い時に「不名誉」な最期を遂げたという。ジークは人づてにモス公国の小国の領主に預けられて養育され、十五歳の時に国を出て独り立ちし、それ以来傭兵として生活してきたのだという。
 モス公国に預けられた後、ジークはヴァリスには立ち寄っていないという。ただヴァリスには彼の母がおり、今はファリス神殿の中で暮らしているはずだという。今回、彼がヴァリスを訪れるのは、母に会いに行くのが目的なのだという。
 ジークの生い立ちを聞いていると、どことなくパーンのそれと似ているように感じた。パーンの父もまたヴァリスの聖騎士であったが、命令に背いたために命を落とし、このことはパーンの人生にも影を落とした。英雄戦争の後、パーンは一度こそヴァリスの聖騎士の任に就いたが、すぐに辞めてしまったし、その後の人生においてもついに国家に属することなく、「自由騎士」の立場を貫いた。もっとも彼がそうした生き方を選んだからこそ、あたしは彼に付いて生きることにしたのだった。
 あたしはジークにも「ヴァリスに行って仕官するつもりなの?」と聞いてみたが、彼はあいまいな表情ではぐらかしたので、それ以上は聞かなかった。やはり父のことで複雑な感情を抱いているのだろうと推察した。
 ただジークの性格は、あまりにも真っ直ぐすぎたパーンに比べると、少しばかりクールなようにも見える。それでもその言動にはまだまだ無邪気なところもあり、まあこれも現代っ子らしいと言えばらしいのかもしれない。
 旅の途中、ジークとは何度か剣の手合せをした。彼の武器はバスタードソードで、片手でも両手でも扱えるものだが、彼はシールドを持っていないのでもっぱら両手持ちで使っていた。その剣筋は正式な訓練を受けた者が持つ気品を備えており、従騎士であった父によって幼い頃から手ほどきを受けていたのかもしれない。
 ただあたしから見ると、そのあまりにも正統派すぎる剣筋のため、相手をあざむくような狡猾さに欠けるところが気になった。
 あたしが打ち込んだ一撃を、ジークは軽々と剣で受け流した。そのまま彼は剣を横に振り払うので、あたしは脚をさばいて斜め後方に引き下がった。彼は追撃のためにさらに一歩、踏み込んだが、何かにつまづいて転倒した。
「ユリ、今何かズルしただろう!」
 ジークが起き上がりながらふくれっ面であたしを見た。
「ふふっ……これが実戦なら命取りよ」
 あたしはひそかに大地の精霊ノームを召喚しておいて、彼が踏み込んだところの地面をほんの少しだけ、盛り上げさせたのだ。
 ジークには、あたしが精霊使いであることは打ち明けていた。ただ自分がエルフであることは依然として隠しておいた。
 正直なところ、剣だけの勝負ならジークの方に分があるだろう。旅の道連れとしては頼もしいことこの上ないし、何より久しぶりに剣の話を交わすことが出来る相手であることがうれしかった。
 亡くなったパーンは、あたしが剣を取るのを内心こころよく思っていなかったようなので、彼とは剣の話をしたり、ましてや手合わせをしたりすることはなかった。彼はそういう意味で古いタイプの人間であった。あたしは彼のことが大好きだったのだけど、いくつか不満に思うことがあったのも告白しなければならない。ひとつはこのことであった。そしてもうひとつは……いや、ここではあまり関係のないことなので、やめておこう。

 あたしたちはアラニアからカノンを通って、ヴァリスの国境近くまで来ていた。これまでの旅は順調で、カノンの王都では物見遊山することさえした。このところ各国間の外交関係も良好で、治安も安定しており、魔物たちもおとなしくしているようだった。
 そうした旅の最中で、あたしたちはナヌカという荘園に立ち寄った。そこはカノンの辺境の、主要の街道から外れた脇街道に位置しているため、どちらかというと寂れた雰囲気の集落であった。
 この集落にたどり着いたのは夕方だったので、あたしたちは宿屋を探した。集落には人の往来も少なく、どことなく暗く沈んだ雰囲気を感じた。そんな中、集落の中心に大きめの建物があり、そこが宿屋を兼ねていることが分かったので、あたしたちはそこに泊まらせてもらうことにした。
 そこの番頭さんは、あたしたちのために部屋を用意してくれたが、申し訳なさそうな表情でこう言った。
「旅の方、今日はお越しいただきありがとうございます。ただ当家は今、立て込んでいることがありまして、十分なおもてなしが出来ないかもしれません。なにとぞご容赦いただければ幸いです」
「それは構いませんが、何かご不幸でもあったのですか?」
「ええ、それは……いえ、お気になさらないでください」
 そう言うと番頭さんは奥に引っ込んだ。
 あたしたちはそれぞれ自分の部屋に荷物を下ろした後、一階のレストランで夕食をとった。番頭さんは十分なおもてなしが出来ないとは言っていたが、出てきた料理はなかなかのものだった。ナヌカは内陸に位置していることもあり、ジビエ料理が売りとのことだった。イノシシの肉を、シイタケや白菜、ネギ、ゴボウ、サトイモと一緒に鍋で煮込み、白味噌と八丁味噌で味付けしたもので、あたしたちは存分に舌鼓を打った。
 すっかり満腹になった頃に、番頭さんが現れて、おそるおそるあたしたちに話しかけてきた。
「……旅のお方、おくつろぎのところ恐縮なのですが、当家の主人がぜひ、お話をさせていただきたいと申しておりますので、今少し時間をいただけませんでしょうか?」
 丁重に依頼されたので、あたしたちはこころよく承諾し、主人の部屋を訪ねることとした。
 通された部屋は、この家のプライベートな居間のようで、主人とおぼしき男性がひとり、そのかたわらに若い女性がひとり、あたしたちを待っていた。
「お呼び立てして申し訳ありません。当家の主人のホフマンと申します。そしてこちらはひとり娘のローザです」
 若い女性がお辞儀をした。年齢ははたち前後であろうか。上品できれいな顔立ちだが、その表情は憔悴し切っているように見えた。
 そして主人はことの経緯を語り始めた。
 
 このナヌカのほど近くにある山には、昔から猩々の化け物が住んでいるのだという。その化け物ははるか以前に封じ込められていたのだが、三年前に復活し、ナヌカの集落を襲い始めたのだという。
 当初は集落の若者たちが武器を手に立ち向かったのだが、とてもかなわずに、多くの者が殺されたり重傷を負ったりした。
 集落に伝えられている古い伝承によると、年に一度、集落の処女を人身御供として献げると、猩々は一年間は大人しくしているのだという。
 最初は多くの者が反対したが、ある娘が自ら生贄になることを名乗り出たため、三年前に最初の人身御供が献げられた。はたして、その後の一年間は猩々は集落を襲わなかったが、娘は帰って来なかった。
 次の年、さすがに自ら名乗り出る娘はいなかったので、年頃の娘たちの間でくじを引かせて、人身御供となる者を決めた。箙に矢入った矢を引き抜き、矢の鏃が赤く塗られていた娘が選ばれるというやり方が取られた。この頃には猩々と戦おうと言い出す者はわずかであった。
 一昨年、昨年はこうして人身御供が選ばれた。そして今年、赤い矢を引いたのが、ここにいる娘だったのだ。

「旅のお方……あなた方はさぞ武芸にひいでた方々とお見受けしました。どうか、化け物の猩々を退治してください!」
 主人はあたしたちに懇願した。
 あたしたちは顔を見合わせて、しばし思案した。旅の途中にあえて危険を犯す必要はないが、このような不条理な話があってたまるかという義憤も湧いてきた。猩々がどれほどの化け物かは分からないが、ジンやイフリートを召喚すれば倒せない相手ではないだろう。
「ご主人……この集落の領主様は、化け物の問題をどう考えているのですか?」
 ジークが冷静に尋ねた。
 主人の話によると、ナヌカの領主はもともと有力な荘園領主で、カノン王国の爵位を持つ家柄だったそうだ。しかし現在は没落し、若い女伯爵がただ一人、家督を継いで残っているという。集落を見下ろす高台に館があるが、今となっては先代から仕えている家老の男性が一人で館のいっさいを取り仕切り、あとは雇われ人の守衛と家政婦と庭師が合わせて数人、いるだけだという。しかも女伯爵は数年前に病となって床に臥せっており、ここ数年は館の外に出ることもなく、姿を見た者もほとんどいないという。
「……じゃあ、ここの領主様はまったくあてにならない訳ね」
 あたしはわざとため息を付いて言った。主人は黙ったままだったが、その様子からあたしの言葉に同意しているようだった。
「それで、娘さんが人身御供に出されるのはいつなの?」
「それが……明日の晩なのです……」
 主人は沈痛な面持ちで言った。
「わかったわ! その依頼、お引き受けするわ。いいわよね、ジーク」
「もちろんだよ!」
 ジークは笑顔で応え、その笑顔を娘さんにも向けた。あたしも娘さんを安心させるためにウインクしてみせた。

 人身御供の儀式が行われるまでまだ丸一日あるので、その晩はあたしたちはゆっくり休んで英気を養うこととした。
 翌朝、あたしたちはナヌカの領主の館を訪れることとした。没落してあてにならない領主とはいえ、この集落では最も古い家となるので、猩々の化け物に関して何か知っていることがあるかもしれないと踏んだからである。
 集落の高台にある館は、石造りの二階建てで、壁は蔦に覆われており、なかなか雰囲気のある建物だった。かつては栄華を極めていたのかもしれないが、今見ると森の中の遺跡のようにひっそりとしていた。
 玄関の前で守衛に取り次ぎを頼むと、しばらくして初老の男性が現れた。彼がここの領主にただ一人仕える家老であった。
「それがし、当家に仕えるウォルターと申す者です。旅のお方、どのような御用の向きでお越しでしょうか?」
「突然の訪問、平にご容赦ください。あたしたちはこのナヌカに伝わる猩々の化け物の話を伺いたく、参りました」
 そう言うと、彼は一瞬、あたしたちを怪しんだような目で見た。しかし、
「……良いでしょう。中にお入りください」
と言ってあたしたちを館の中に入れてくれた。館の玄関の扉には、伯爵家の紋章とおぼしき、ワイバーンの意匠が施されていた。
 あたしたちは館の一階の応接室に通された。すぐに家政婦さんが紅茶を淹れて持ってきてくれた。
「すでにお聞き及びのことと存じますが、当家の主人、エリザベート伯爵は現在、病のためご挨拶することが出来ません。ご容赦ください」
「……いえいえ、お気遣いには及びません。ところで……」
 あたしたちは本題を切り出した。家老は、深刻な面持ちのまま語り始めた。
「猩々の化け物の伝承はずいぶん昔からこの地に伝わっているようです。ただ、なぜ三年前から再び世の中に出てきて人々を襲うようになったのかは分かりません。本来であればこの荘園を守るのが当家のつとめ。しかしご覧の通り、今の当家にはその力はありません。情けない限りです」
 ここで一息置いて、さらに彼は続けた。
「しかし、化け物のことはあくまでナヌカ自身の問題です。旅の方が関わるのは、御身のためにならないと存じます」
 彼の言葉と表情からは、あたしたちがこの問題に関わることへの拒絶感が伝わってきた。
 あたしたちはいくつか質問をしたが、彼の答えはいずれもかんばしいものではなく、慇懃な態度は終始、崩さなかったが、明らかにあたしたちが介入することを警戒し、拒否する感情が感じられた。あたしたちはあきらめて、席を辞することとした。
「なんなの、あれ! まるで他人事じゃない。あれじゃ娘さんが可哀想すぎるでしょ」
「ムラ社会だから、よそ者が入ってくるのがイヤなんだろうね……」
 あたしはだからこそ、あたしたちで何とかしないといけないという気持ちを固めた。
 その後あたしたちは、これからの化け物退治の計画を話し合った。それは次のようなものである。

 これまで、人身御供となる女性は白木の棺に入れられて、集落のはずれにあるほこらの前まで運ばれることとなっていた。そこには棺だけが置かれて、他の者はすみやかに立ち去る必要がある。誰もいなくなると、猩々が現れて、女性をねぐらまで連れ去り、そこでゆっくり食べるのだという。
 そこで娘さんの身代わりに、あたしが棺の中に入ることとなった。娘さんの服を着て変装しつつ、東洋の剣を隠し持っておくこととした。そして棺がほこらの前の広場に置かれたとき、ジークはその近くに隠れて潜んでいるという手筈にした。そして猩々が現れた時、ジークが叫んで合図し、あたしは東洋の剣で猩々を返り討ちにするというのが、計画のあらましである。

 そしていよいよ日が暮れ始めた。あたしたちは簡単な食事を取った後、準備に取り掛かった。あたしは娘さんの服を借りて袖を通した。幸いなことにサイズはぴったりだった。
「大丈夫! あたしたちに任せておいて」
 不安そうな娘さんにそう声をかけた。
 そしてあたしは白木の棺の中に入った。ジークはひと足先にほこらに向かい、潜んでいるはずだ。棺はこの家の使用人たちによってほこらの前まで運ばれた。棺は決して乗り心地の良いものではなく、あたしは少し気分が悪くなったが、これくらいなら戦いに影響するほどのものではないだろう。
 ほこらの前に着いて、棺が地面に下ろされると、運んできた使用人たちはすぐさま逃げ帰ったようである。あたしは棺の中で辛抱強く、猩々が来るのを待ち構えていた。
 しかし二時間ほどたっても、あたりの様子は何の変化もないようである。あたしがしびれを切らしそうになった頃、ふいにジークの声が聞こえた。
「ユリ、様子が変だ。出てきてくれないか」
 何事かしら? あたしが外に出ると、そこにはジークの姿だけがあった。ずっと狭いところに閉じ込められて心細かったので、彼を見て安心感に包まれたが、彼は怪訝な表情だった。
「集落の方が何か騒々しい……行こう、ユリ!」
 ジークはあたしの手を取って駆け出した。あたしも遅れまいと駆け出した。
 集落に戻ると、宿屋の周囲に多くの人が集まって騒いでいる。中に入ると、そこであたしたちは凄惨な現場を目にした。
 あたり一面は血の海だった。あたしたちの世話をしてくれた番頭さんが、血まみれで倒れて死んでいるのがまず目に入った。背中には、かぎ爪のようなもので切り裂かれたような傷が残されていた。
 他の使用人たちも、みな血まみれで倒れていた。奥の部屋に入ると、主人のホフマンさんも血まみれで絶命していた。そして娘のローザさんの姿はなかった。
 気が付くと周りには集落の人々も駆けつけて、あたしたちを取りまいていた。多くの人はこの惨状に悲痛な声を上げていたが、やがてそのうちの一人が、
「あんたらが余計なことをしたから、こんなことになったんじゃないのか!」
と言って、あからさまにあたしたちに非難の目を向けた。すると、他の人々もあたしたちに敵意の視線を向け始めた。
「……ジーク、逃げるわよ!」
 今度はあたしがジークの手を取って駆け出した。ジークも遅れまいと駆け出した。背中に罵声と怒号を受けながらも、あたしたちは家を飛び出し、通りを駆けて行った。
 確かに今回のことはあたしたちの計画の杜撰さが招いた結果だった。依頼人の期待に応えられず、それどころか依頼人を死に至らしめたのだから、完全な失敗だ。責めを免れることはできないだろう。
 気が付くとあたしたちは、先ほどまでいたほこらの前まで来ていた。後を追って来た者はいないようだ。あるいは、再び化け物猩々が出てくることを恐れたのかもしれない。
「ちくしょう……どうしてこんなことに!」
 ジークは悔しがったが、何か思い直したように続けた。
「……ユリ、何か腑に落ちない」
 あたしもうなずいた。
「ジーク、気が付いた……? 亡くなった人たちの様子」
「えっ?」
「かぎ爪で殺された人もいたけど、明らかに剣で斬られた傷の人もいたわ」
「どういうこと?」
「つまり……誰か人間がからんでいる、ということよ」
 ジークは驚いた顔を見せたかと思うと、腕組みをして考え込んだ。
「あの娘さん……まだ生きているかも。どこに連れて行かれたのか、手がかりがあればいいんだけど……」
「手がかりなら、あるわよ」
 あたしは自分の胸に手を当てて答えた。
「えっ?」
「あたしの着ているこの服……あの娘さんのものだから」

 一時間ほど後、あたしたちは集落からほど近い山のふもとの、洞窟の入口の近くにいた。
「ありがとう、ここまで連れて来てくれて。あとはあたしたちだけで行くから、あなたは帰っていいわよ」
 あたしはオオカミの頭をなでて、ビーフジャーキーを与えた。オオカミは尻尾を振りながらそれをくわえ、そして森の中へと去って行った。
 あらためて洞窟の入口に目をやると、黒い服を着たふたつの人影が見えた。手には槍のようなものを持っている。
「やっぱり、ここで当たりのようね」
「どうする、ユリ?」
「あたしに任せて」
 あたしは精霊語(サイレント・スピリット)で「眠りの妖精」サンドマンを呼び出した。精霊は目に見えない存在で、精霊が語りかけてくる時は頭の中に直接、語りかけてくるが、こちらから精霊に語りかける時は、精霊語を言葉として発音しなければならない。
「親愛なる友人、あの者たちの目に砂をまいておくれ」
 すると二人の人影は、脱力したようにその場でくず折れた。あたしたちが近付いてその様子を見ると、すっかり眠りに落ちたようである。
 彼らが着ている黒いローブの留め金を見ると、禍々しい意匠が施されていた。明らかにそれは、暗黒神ファラリスのシンボルであった。
「裏にいるのは、暗黒神の信徒の一派のようね」
 そうと分かれば遠慮することはない。あたしとジークは同時に剣を抜き、二人の心臓に刃を突き立てて、二度と目覚めることがないようにした。
 洞窟の中は迷宮になっているわけではなく、しばらく細い通路を進んでいった。松明を灯すと侵入が発見される可能性があるので、あたしが夜目を効かせ、ジークの手を引いて進んだ。エルフの目は、人間では見ることが出来ない赤外線もとらえることが出来るのだ。
 やがて通路の先に明かりが見え、その向こうは広い空間となっているようだった。息を潜めて近付くと、そこは広さ五〇メートル四方、天井までの高さは二〇メートルほどの大空間となっていることが分かった。そこには二十ほどの黒衣を着た人影があることが確認でき、いちばん奥には祭壇のようなものがあるのが見えた。遠目にも、その祭壇の上には横たわった人影があるのが認められた。
 様子が分かったので、あたしとジークは作戦を練った。彼らが暗黒神の信徒集団だとしたら、やはり警戒すべきは暗黒魔法である。それさえ封じて物理的な戦闘に持ち込めば、相手が二十ほどいてもさして恐るるに足りないだろう。そこで、風の精霊シルフに命じて、この空間の空気の振動を五分間だけ止めてしまうことにした。そうすれば暗黒魔法の呪文を唱えることは出来ない。もっとも、通常の会話も出来なくなるので、あたしとジークは二人の間で意思疎通を取るためのハンドサインを決めておいた。
 あたしは念のため、娘さんから借りていたワンピースを脱いで、キャミソールとペチパンツだけの姿になった。乱戦となることが予想されたので、少しでも動きやすい恰好にしたのだ。
 いよいよ襲撃の時である。
 あたしたちは音もなく駆け寄ったので、暗黒神の信徒たちはまったく気付いていなかった。たちまちあたしとジークの剣で四、五人の首がはねられた。彼らはおそらく何が起こったかすら気が付かないまま絶命したことだろう。
 他の黒衣の者たちも、さすがに襲撃に気付いたようだが、声を上げても音にならないので、明らかに狼狽している様子だった。そうしている間にも、あたしたちの剣によって次々と血祭りに上げられていった。あわてて武器を取った者たちも、しょせん暗黒魔法が使えないので、あたしたちの敵ではなかった。
 奥の祭壇には、ひときわ立派な黒衣を着て、手に錫杖を持った老婆がいた。きっとこの老婆が司祭でありリーダーなのだろう。声を上げようとしているのか、あるいは暗黒魔法を唱えようとしているのか分からないが、あわてている様子である。そこにジークが襲いかかり、バスタードソードを横なぎに振り払うと、老婆の首が宙を舞った。
 しかし老婆は首をはねられる前に、祭壇の近くにあったレバーを引いていた。すると何も音はしなかったが、洞窟の地面に何かの衝撃が伝わるのを感じた。
「……何か来る!」
 あたしは心の中で叫んだ。ジークも気配に気付いたようだった。
 すでにこの時、二十人ほどいた黒衣の者たちで生きている者は残っていなかった。あたしたち二人は合流し、何かが来るのを待ち構えた。
 すると洞窟の奥から巨大な物影が現れた。明るいところに出て来たところで、その姿がはっきりと見えた。それは高さ五メートルほどの、巨人のような姿をした生き物で、全身は褐色の体毛で覆われていた。その腕と脚は筋肉のかたまりのようで、手には鋭いかぎ爪があった。その顔はどことなく人間のそれに似ていたが、口からは牙をむき出しており、その目は木炭のように黒かった。これこそ、ナヌカの伝説で語られてきた猩々の化け物だろう。
「逃げるわよ!」
 あたしはジークにハンドサインを送った。
 あたしたちは当初から猩々の化け物が出てくることは予想していた。そして現物を目の当たりにして、まともに戦うのは危ないと判断した。しかしシルフに命じた沈黙の魔法の効果が切れるにはまだもう少し時間がかかりそうである。そのため、その効果が続く間はひたすら逃げ回り、効果が切れたところで攻撃魔法を用いてかたを付けようということにしたのだ。
 猩々の動きは意外と俊敏で、あたしたちはフェイントを駆使してなんとかその攻撃をかわし続けた。しかし猩々は次々と攻撃を繰り出してくるので、あたしたちはたちまち洞窟の中の袋小路に追い詰められてしまった。
 猩々は殺気に満ちた目でにらみ、あたしたちを屠らんと足を踏み出した。
 ところが猩々はそれ以上、一歩も動くことは出来なかった。その脚には、洞窟の地面から伸びてきた無数の腕のようなものが絡みついていた。
 あたしたちはその隙を見逃さなかった。二人は飛びかかり、あたしの剣は猩々の右眼に、ジークの剣はその左眼に、それぞれ深々と突き刺さった。
 すると猩々は断末魔の叫び声を上げた。ちょうどこのタイミングで、沈黙の魔法の効果が切れたようであった。
 あたしたちの作戦勝ちだ。
 あたしは風の精霊シルフに命じて沈黙の魔法をかける前に、土の精霊ノームを呼び出し、洞窟の地面の一部に潜んでおくように命じた。そしてその地面の上を歩くものがあったら、その腕で捕らえるようにあらかじめ指示しておいたのである。
 あたしたちは闇雲に猩々から逃げ回っていたのではなく、この罠を仕掛けた場所まで猩々を誘導するようにしていたのだった。ノームには事前に命じていたので、洞窟内に沈黙の魔法の効果が続いていても、その効果は自動的に発動するのだ。
 少しばかり地味な魔法の使い方であったが、結果的にはこれが一番効果的だったと思う。あたしが使うことが出来る精霊魔法は、炎の魔人イフリートや大地の怪獣ベヒモスといった強力な精霊を召喚することも可能だが、洞窟の中でイフリートを召喚するとあたしたちまで酸欠になってしまうし、ベヒモスを呼び出したりすると洞窟そのものが崩れてしまうだろう。強力な魔法だからといって、それだけでかたを付けることは出来ないということなのだ。
 あたしが勝利の余韻にひたっている間に、ジークは祭壇の方に駆け寄っていた。あたしもあわててそちらに向かった。
「ちくしょう……遅かったか!」
 ジークは曇った表情でそう吐き捨てた。その様子であたしも何が起こったのか理解した。祭壇の上に横たえられたものの上には黒い布がかけられていたが、祭壇の周囲の地面には血糊がたまっていた。そして祭壇の横の台座の上には、ガラスの鉢が置かれており、その中には赤黒い塊が入れられていた。
 ジークはゆっくりと黒い布をはがした。祭壇の上に横たわっていたのはあの娘さんで、衣服は着けておらず、その胸から腹にかけては縦一文字に切り裂かれており、肝臓が取り出されていた。ジークは手でそっと娘さんの目を閉じた。あたしは言葉もなく、押し黙った。
 ジークはショックを受け、しばらくその場から動く様子がなかったので、あたしはあたりを見て回った。祭壇より奥に、小部屋のようになった空間があった。中に入ると、そこは司祭の使っていた場所だったようで、机の上には乱雑に羊皮紙の束が積まれていた。そこに書かれているのはおそらく暗黒魔法のルーンやシンボルで、あたしには読むことは出来なかったが、禍々しい雰囲気は伝わってきた。
 ふと部屋の片隅に置かれた革袋が気になったので開けてみると、中には金塊が入っていた。金塊をよく見ると、どこかで見た記憶のある刻印がなされていた。
「ワイバーン……?」
 そしてさらなる違和感がわいてきた。暗黒神ファラリスの信徒たちが若い女性、とりわけ処女を生贄にするというのはよく知られた話である。しかしそれはもっぱら、暗黒神を降臨させる依代として使うためであり、このように生肝を取り出す、というところに、引っかかりを覚えたのだ。
 あたしは小部屋を出ると、祭壇の前で黙ったまま立っているジークの肩に手を置き、言った。
「ジーク、行くわよ!」
「えっ……?」
「まだ終わってないわ、この事件。黒幕はまだ……他にいる!」

 その部屋は夜も更けた時間にもかかわらず、まだ灯りがともっていた。あたしたちはオーク材の扉を開けると、館の執務室のデスクには家老のウォルターが座っていた。彼はあたしたちの突然の来訪に驚き、
「何事です!」
と声を上げ、立ち上がって机の端に置かれたハンドベルに手を伸ばそうとした。
 しかしそれは果たせなかった。彼が気付かないうちに彼の周囲を取り巻いていた蔦が、彼の身体に巻き付き、その動きを完全に封じていた。
「館の守衛たちはみな眠っているわ。悪く思わないでね」
 あたしは冷静な口調で語りかけた。
 そう、あたしは植物の精霊ドライアードに命じて、この館を覆っている蔦を、ひそかに窓からこの部屋の内部に侵入させておいたのだ。精霊の力を得ているので、普通の人間ではこの蔦のしがらみから逃れることは出来ないだろう。
「ウォルターさん、あたしたちはたった今、ナヌカの人喰い猩々と、それを操っていた暗黒神の信徒たちを退治してきたところなの。残念ながら娘さんを助けることは出来なかったけど……そしてあなたたちにも、詳しく話を聞く必要があるわ」
 あたしはこの館にあったものと同じ意匠の刻印が付けられた金塊を取り出して、続けた。
「伯爵様も、呼んでいただける?」
「何事ですか!」
 あたしの言葉に続くかのように、若い女性の声がした。見ると、執務室の奥の扉が開かれ、そこには白いシルクのワンピースを着た女性が立っていた。
 彼女は色白の肌に長い金髪で、青い目をしており、全体的に色素が薄い印象だった。顔立ちははっとするほど美しかったが、その左半分は皮膚病におかされ、皮膚が硬くなってただれていた。手には杖を持っており、まっすぐ立ってはいたが、どこか左右非対称な印象を受けた。
 あたしは、はっとした。どうやら、思い違いをしていたようだ。
 あたしは彼女の方に向き直り、丁寧にお辞儀をした。
「伯爵様、ご無礼のほど、平にご容赦ください。あたしはユリケンヌと申す旅の者です。そしてこちらはシグルド。あたしたちは伯爵様に危害を加えるつもりは毛頭ございません」
 彼女は警戒した表情を解くことはなかったが、その青い目はまっすぐあたしに注がれていた。横にいるジークは、事態を飲み込めずに困惑しているようだったが、あたしは続けた。
「あたしたちは先ほど、このナヌカを長年悩ませてきた人喰い猩々を退治してきました。また、化け物を操っていたのは暗黒神ファラリスの信徒たちであることも分かりました。そして、このことはすべて……伯爵様のご病気と関わりがあるのです。伯爵様……あたしの話を聞いていただけますか?」
 伯爵は、黙ってうなずいた。あたしは、この事件の真相について推理したことを語り始めた。

 伯爵がかかった重い皮膚病は、しばしば神の呪いとして恐れられる病である。その原因は、神の呪いであるとか、前世の因縁であるとか語られることが多いが、あたしたち精霊使いは違う見解を持っている。それは、目に見えない小さな生物が人間の身体に入り、寄生することによって、体内の精霊力のバランスが崩れるために生じる病であると理解している。
 この病を治療するのは非常に難しい。まず病の原因となっている、目に見えない寄生する生物を見つけ、これを取り除かなければならない。その上で、体内のアンバランスになった精霊力を時間をかけて元に戻していかなければならない。
 一般には、この病の治療法と称するものがいくつか知られているが、いずれもあたしから言わせると迷信である。特によく知られたものとして、処女の肝臓を原料とした薬というものがあり、まったくの迷信に過ぎないのだが、残念なことに未だに広く信じられている。
 伯爵は数年前にこの重い皮膚病にかかったようだ。このことは家老によって隠され、館の外の人々には秘密にされてきたが、どこからか暗黒神の信徒たちが聞きつけたのだろう。あるいは家老が治療法を探しているうちに、彼らと接触したのかもしれない。
 暗黒神の信徒たちは家老に、この病の治療法として処女の生肝が効くと吹き込んだのだろう。そして両者は取り引きをした。暗黒神の信徒たちは生肝の薬を家老に渡す代わりに、家老は彼らに金品を提供する。ナヌカに古くから伝わっていた猩々の伝承も都合良く利用した。年に一度、人喰い猩々への生贄として集落から処女を出させることで、生肝が確実に入手出来るようにしたのだ。おそらく猩々の化け物も、伝承で語られていた本物ではなく、暗黒神の信徒たちが作り出した魔法生物なのだろう。
 この館に乗り込んだ時、あたしには伯爵や家老がこの事件にどの程度、関与しているかについての確信はなかった。おそらく伯爵こそが黒幕であろうと踏んでいた。しかし実際にエリザベート伯爵本人に会ってその様子を見て、彼女はこの陰謀にはかかわっていないと洞察した。おそらくこれは家老のウォルターが一人で動いたことなのだろう。

「ウォルターさん、あたしの言ったことで、だいたい合っているわよね」
 彼は黙ってうなずいた。伯爵も驚いた顔をして立ちつくしていた。
「ウォルター……本当なの?」
「お嬢様、申し訳ありません……」
 彼女はショックで顔が青ざめ、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……私のせいで、何人もの娘さんの命が奪われたのね」
 そして家老の方を向いて言った。
「ウォルター、ごめんなさい。私のために、あなたにこんなことをさせてしまって……」
 エリザベート伯爵は杖を取り落とした。乾いた音が部屋に響いたかと思うと、彼女は先ほどまで杖をついていた人物とは思えないほどの速さで窓に駆け寄り、その身体を外に投げた。
 とっさの行動に、あたしもジークも反応が出来なかった。そして窓の外から鈍い音が聞こえた。ウォルターは叫び声を上げた。
 あたしたちは急いで階段を降り、館の外に出た。開け放たれた窓の下に、伯爵が倒れていた。ジークが駆け寄ってその身体を抱え上げたが、彼は首を横に振った。彼女の頸は折れ、即死の状態だった。

 まだ夜も明けていなかったが、あたしたちはこっそりと集落に戻り、ホフマンさんの家に置きっぱなしになっていた荷物を回収して、ナヌカを後にした。道中しばらくはあたしたちの口数も少なく、疲労と眠気にも見舞われたので、夜が明けてきたところで休憩を取ることにした。荷物を下ろし、道のかたわらにあった丸太に腰掛けながら、携帯していたパンと葡萄酒で簡単な朝食を取った。
「……あれで良かったんだろうか、ユリ?」
「あの事件はあれでおしまいよ。あれ以上、あたしたちに出来ることはなかったわ」
 あたしたちは伯爵の館をそのままにして立ち去った。植物の精霊ドライヤードに命じた蔦のしがらみは、一時間ほどで自然に効力が切れたはずだ。その後、家老のウォルターがどうなったのかは、あたしたちは知らない。
「あたしたちは裁判官でも正義の味方でもないから、あの家老を斬る理由もないしその必要もないわ。確実なのは、ナヌカで猩々の化け物に関する悲劇は、もうこれ以上起こらないということよ」
 ジークは釈然としない様子だったが、あたしはつとめて冷静な表情を保った。
「でも……オレたちは、あの娘さんも、女伯爵も、救うことは出来なかった……」
 人が人を救うことなんか出来ないわよ。それが出来るのは神様だけよ。
 あたしはそう言おうとしたが、やめた。ジークが顔を伏せて、震えているのに気付いたからだ。
 あたしは彼の横に座り、彼の肩を抱きしめた。こんなことをすると、彼は嫌がるかな……とも思ったが、彼はそのまま、黙ってうつむいたままだった。










 
 
 

 


 
 
 

 

 


 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?