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「いもり酒」(『苅萱桑門筑紫𨏍』より)(18歳以上向け)

 九州は筑前国の武将、加藤左衛門尉繁氏には、正妻の牧の方と側室の千鳥の二人の妻がいた。繁氏はどちらにも偏ることなく愛情を示し、二人の妻も日頃から互いに仲良くしているように見えた。
 ある時、二人は一緒に琴を弾いていたが、やがて疲れたのか、二人とも碁盤を枕にして昼寝を始めた。そこに外出先から戻った繁氏が、二人がいる部屋を訪ねようとしたところ、何やら障子の向こうが騒がしい様子である。その時、障子の影に映っていたのは、二人の妻の髪の毛がどちらも蛇のようになって、相争っている姿であった。驚いた繁氏は障子を開けるが、そこには何事もなかったかのように静かに眠っている二人の姿があった。
 繁氏は、二人の妻が内面に持つ嫉妬心の深さを目の当たりにして、人間の業の深さに思い悩んだ。そしてひそかに遺書を書くと、誰にも知られぬうちに城を後にした。繁氏は出家して源空上人の弟子となり、寂昭坊等阿法師、苅萱道心と号した。そして二度と自分の家族に会わず仏道の修行だけに生涯を捧げる棄恩入無為の誓いを立てて高野山に向かった。
 後に残された嫡男は、まだ幼い、九歳になる石童丸であった。加藤家の家老である監物太郎信俊は、石童丸が成長し元服するまで、主君が遁世したのを隠し通すこととした。なぜなら隣国の豊前国には、九州一円に威を張る大内之助義弘がおり、筑前国を虎視眈々と狙っていたからである。もし主君の不在が明らかになれば、その機に乗じて攻め込んでくるかも知れぬからであった。

 さてそんな折、豊前国の大内義弘は、勅命と称して九州の諸侯に宝物を献上するよう求め、筑前国の加藤家には家宝である夜明珠を差し出すように要求した。もっともこれは言い掛かりのようなものであり、もし出し渋るようならばそれを理由に攻め滅ぼそうという魂胆であった。
 加藤家に伝わる夜明珠は、夜であっても光り輝く宝珠と言われているが、二十歳を過ぎても処女である女性しか触れることができないと言い伝えられていた。もしそうでない者が触れたなら、珠はたちまち光を失ってしまうという。
 そのため大内義弘は、家臣である新洞左衛門の娘で、神に使える巫女の夕しでを受け取りの使者として立てた。そして秋の日の祭日に、新洞左衛門と夕しでが加藤家の城を訪れ、宝物の受け渡しが執り行われることとなった。
 何とか家宝を渡さずに済ます方法はないものかと思案した監物太郎は、妻の橋立に相談をした。そこで橋立は一計を案じた。それは監物太郎の弟で、色男の桑原女之助を呼び、夕しでを誘惑して処女でなくしてしまおうというものであった。
 女之助は確かに美男子であったが、放蕩者であったため家を追い出されていたのであった。監物太郎は急いで女之助を呼び戻し、夜明珠の受け渡しの接待役に仕立て上げた。
 さて受け渡しの日となり、大内側の使者として夕しでと、その供として父親である新洞左衛門が城を訪れた。それを迎えるのは家老の監物太郎とその妻橋立であった。
 夕しでと新洞左衛門が座敷に通されたところで、橋立が二人に向かってこう告げた。
「これより当家の神宝である夜明珠の引き渡しの儀式を執り行います。儀式は奥の神宝の間で執り行います故、新洞様におかれましてはここでしばらくお待ちいただきたい」
「うむ、あい分かった」
 新洞左衛門はうなずいたので、橋立は夕しでを奥の間に案内した。しばらく廊下を進むと、やがて奥の間に行き当たった。奥の間は板の間となっており、そこには神職の装束で身を包んだ女之助が坐していた。その前の供物台には徳利と皿が置かれていた。そして部屋の奥の一段高いところに、うやうやしく白木の箱が置かれていた。
 そうしてたたずんでいる女之助は、神々しいまでの気品を身にまとっていた。そしてその端正な顔立ちと涼しげなまなざしは、浮世離れした神秘性をたたえていた。
 その姿を一目見た夕しでは、何かに打たれたような衝撃を受けたのを感じた。橋立にうながされて座に着くと、使者の口上を述べた。
「私は大内家家臣、新洞左衛門の娘にして、夕しでと申します。このたびはいやしくも神宝の受け渡しの使者として参りました」
 夕しげは一息にこう述べたが、内心はおだやかではなく、女之助の顔をまともに見ることができなかった。夕しでは、これほど美しい男性をこれまで見たことはなかった。
「当家の家宝をお預かりしている、桑原女之助と申します。このたびはお役目、ご苦労様でございます」
 女之助は丁寧にそう応えた。その様子はとてもにわか仕立ての神職には見えない、堂に入ったものであった。
 橋立が、これから受け渡しの儀式を始めることを告げ、最初に夕しでに浄めの酒を飲むように言った。夕しでは、橋立によって徳利から注がれた酒を皿に受け、それを飲み干した。続いて女之助も同じように、注がれた酒を飲み干した。
 続いて女之助は、奥に置かれた白木の箱の方に向き直り、祝詞を唱え始めた。もっとも祝詞は急ごしらえしたものを、女之助が丸暗記をして読み上げているに過ぎないものであったが、こちらも不思議と堂々としたものであり、夕しでもまったく疑いの目を向けることはなかった。
 かたや夕しでの方は、先ほどからの胸の高まりがとどまるところを知らず、さらに身体が熱くなっていくのを感じて、ひそかに狼狽していた。巫女として、神酒を飲む機会はこれまで何度もあったが、まさかたった一杯の浄めの酒で酔ってしまうとは考えられなかった。しかし今となっては、女之助を見て胸が高なっているのか、それとも酒に呑まれてしまったのか、分からなくなってしまっていた。
 女之助の祝詞の声も徐々に遠くなり、夕しでは思わず胸を押さえて前のめりにうずくまってしまった。そこに橋立が寄ってきて、夕しでの肩に手をやって言った。
「どこかお具合でも、悪いのでしょうか?」
 すると女之助も祝詞を上げるのを中断して、夕しでの方に向き直り、にじり寄って言った。
「長旅でおつかれが出たのでしょう。少し休まれますか?」
 夕しでは遠慮する素振りを見せたが、橋立が隣の間のふすまを開けて、
「こちらでしばらくお休みください」
と言った。隣の間は座敷になっており、座布団が敷かれている。
「さあ、立てますか?」
 女之助は夕しでの身体を優しく抱え起こした。夕しでは身体の力が入らず、そのまま女之助の身体に自分の身を預けた。そのまま隣の間まで導かれ、座布団の上に腰を下ろした。
「少し休まれるのが良いでしょう」
 そう言って女之助は手を離そうとすると、夕しでは女之助の腕に取りすがり、潤んだ目を向けながら言った。
「……女之助様、しばらくここに居てくださいませんか……?」
 そう言って、内心最も驚いているのは他ならぬ夕しで自身であった。まるで自分の知らないところで、勝手に自分の口が動いて言葉を発し、それを冷静な自分がなすすべもなく見ているような、そんな感じであった。
 夕しでは女之助の胸元に顔を寄せ、さらにその腕を彼の背中に回した。その様子を確かめて、ひそかにニヤリと笑った女之助は、その長い指で夕しでの顎のあたりを軽く触れた。夕しでは顔を上げ、瞳孔が開いて虚ろではあるが、雪のように清らかなそのまなざしを女之助に向けた。女之助はそのまま顔を近づけ、自分の唇を夕しでの唇に押し当てた。夕しでは抵抗することなく、かすかに身体を震わせたので、女之助はそのまま彼女の身体を強く抱きしめた。

 気がつくとその座敷にいるのは夕しでと女之助の二人だけであった。夕しでの白装束はすでに解けて、その絹のように細やかな肌があらわになっている。女之助もやはり神職の装束を脱ぎ捨て、その引き締まった筋肉質な身体があらわになっている。
 仰向けになった夕しでは、その小ぶりながら先端がつんと立った胸をあらわにしている。女之助はその上に覆いかぶさり、下唇をその先端に軽く当てた。夕しでは、
「あっ……!」
と甘い声を上げるので、さらに女之助は胸の膨らみの下の方から手を当て、優しく揉みほぐした。夕しでは、
「ああ……駄目!」
と声にならない声を上げる。
 そのまましばらく女之助は夕しでの胸を愛撫し続け、夕しでは悶え続けるしかなかった。さらに女之助は夕しでの脚を押し広げ、その太ももの内側に唇を這わせた。夕しでは声にならない叫び声を上げるが、女之助の動きを押しとどめることはできずに、なすすべもなく初めての感覚の波に押し流された。
 そしていよいよ女之助は、夕しでの股の間に顔を埋め、その舌先を夕しでの敏感な箇所に当てた。夕しでは身体をビクンと震わせ、蜜壺からはとめどなく愛液が流れ始めていた。たまらず夕しでは女之助の頭を押さえつけるが、女之助は秘部への攻めの手をゆるめることなく、規則正しい動きで夕しでの敏感な箇所を刺激し続けた。
 目から涙を流し、ほとんど心ここにあらずという表情になった夕しでに、女之助は口づけをすると、その怒張した陽物を夕しでの秘部に押し当て、一気にそれを貫いた。
「あああ……っ!」
 悲鳴とも嬌声ともとれない声を夕しでが上げるので、女之助は自分の唇でそれをふさいだ。夕しでの充血した秘部は女之助の陽物によって無理矢理に押し広げられ、そこから破瓜の朱が滲みだしていた。夕しではそこから逃れようとあがくが、女之助のたくましい太ももがしっかり夕しでの身体を挟みつけているので、逃れることはできなかった。しばらくは女之助もその姿勢を保っていたが、夕しでの秘部から愛液がさらに湧き出してきて、つながっている部分が潤ってくるのを認めると、女之助は規則正しい動きで夕しでの芯を何度も突き上げた。そのたびに夕しではただ喘ぎ声を上げる他に、逆らうすべがなかった。
 やがて女之助の腰の動きがにわかに速くなったかと思うと、ついにその陽物が奥までぐっと押し込まれ、そこから熱いものが放たれた。その後もそれは何度も脈動し、夕しでは自分の中に女之助の精が注ぎ込まれているのを感じていた。
「女之助様が……私に……」
 脈動がおさまると、夕しでの中を満たしていた女之助の陽物がゆっくりと引き抜かれた。夕しでの秘部からは、白く濁った液体に破瓜の朱が混じったものがゆっくりと流れ出し、褥の上に敷かれた白装束に染みとなって広がった。

 夕しでが奥の間に通され、新洞左衛門はそれから一時(2時間)ばかり座敷で待たされていた。その間、監物太郎と、奥の間から戻ってきていた橋立の二人が、何とか間を持たそうとしていた。橋立が夜明珠にまつわる言い伝えを物語仕立てにして語ったり、酒を進めたりしていたが、新洞左衛門のいらだちはつのるばかりであった。そしてついには立ち上がり、自ら奥の間におもむいて様子を確かめてくると言い始めた。廊下をずかずかと歩き出す新洞左衛門を、監物太郎と橋立は何とか押し留めようとするが、ついには奥の間の前まで行き当たってしまった。
「新洞左衛門でござる。いざ、御免!」
 新洞左衛門は奥の間のふすまに手をかけ、勢い良く開け放った。するとそこにいたのは、白木の箱を前にし、白装束の姿で居住まいを正している夕しでと、神職の装束でその横に同じように座している女之助の姿であった。
「これは新洞左衛門様。長らくお待たせして申し訳ありませんでした。先ほど、神宝の引き渡しの儀式を終えたところでございます」
 女之助は涼やかな声でそう告げた。夕しでは視線を白木の箱に落としたままである。
「それでは早速、宝物を改めさせていただきたい」
 新洞左衛門はそのまま板の間の床の上に座り、女之助と夕しでを見据えた。夕しでは黙ったまま、白木の箱の蓋をゆっくりと外した。
 箱の中には、天鵞絨(ビロード)の敷物の上に、鶏の卵ほどの大きさの珠が安置されていた。しかしそれは光輝いてはおらず、むしろ黒檀のように一切の光を放たないものであった。
「これは一体、いかなること!さてはそなたら、たばかったか!」
 新洞左衛門はそれを見て激昂して叫んだ。橋立は芝居掛かったように言った。
「まあ、何ということでしょう。これはもしや、生娘ではないお方が触れたからではありませんでしょうか?」
 実のところ、この宝珠は真っ赤な偽物。夕しでが計略にはまることを見越して、本物の夜明珠とすり替えておいたのだ。
「……夕しで!これは一体?」
 新洞左衛門は夕しでの方を向いて言ったが、夕しでは沈黙を守ったままであった。
「そなたら、計ったな!」
 新洞左衛門は、供物台の上に置かれたままの徳利に気がつくと、それを手に取るや床に叩きつけた。すると中から、交尾したままの格好で燻されたつがいのいもりの黒焼きが出てきた。いもりの黒焼きといえば、言うまでもなく「惚れ薬」の原料である。
 それを見て新洞左衛門はさらに頭に血が上り、刀の柄に手をかけると、女之助を見据えて、
「おのれ、許さんぞ!」
と今しも斬りかからんとした。その時、
「お父様!」
と夕しでの悲痛な声が響いた。
 その場にいる一同は驚いて、夕しでの方を見た。夕しでの両手には、髪に指していた白羽の鏑矢が握られ、その先端は夕しでの胸に深々と突き刺さっていた。そして白装束がみるみる血で赤く染まっていった。
「……お父様、どうか女之助様を斬らないで下さい。神への誓いを破り、この身を汚したのは私の罪……私は一目、女之助様を見た時から、心を女之助様に奪われておりました……」
 肩で息をしながらも、夕しでは絞り出すような声で続けた。
「……仮の契りとはいえ、私のただ一人の夫は女之助様。どうか許して差し上げて下さい」
 そこまで言うと夕しでは力尽き、息絶えた。
 新洞左衛門は夕しでの身体を抱きしめた。この計略を企てた監物太郎、橋立、そして女之助さえも、この凄惨な結末に衝撃を受け、ただ涙を流して身を震わすほか、なすすべがなかった。
 しばらく夕しでを抱きしめて無言のままであった新洞左衛門は、ようやく顔を上げ、立ち上がった告げた。
「そなたらへの恨み、許せるものではないが、娘の思いゆえ、この珠を頂いて参る。まことの珠は、結納代わりに置いていく」
 そう言って新洞左衛門は漆黒の珠を取って、それを懐に仕舞うと、夕しでの身体を抱え上げ、そのまま一人で立ち去っていった。

 首尾よく夜明珠を手に入れることができなかった大内義弘は、加藤家を征伐するべく兵を挙げた。家老である監物太郎は、ひそかに繁氏の嫡男である石童丸と正室である牧の方を城から逃した。その護衛には弟である桑原女之助を付けた。
 城を預かる監物太郎は、大内の軍勢を迎え撃ち、壮絶な最期を遂げた。妻の橋立も、落城と共に自害して果てた。
 落ち延びた石童丸の一行は、何度も大内家の追っ手に遭ったが、その都度、剣技に秀でた女之助の活躍によって危機を脱し、無事に九州を脱出することができた。そして父である繁氏が出家した高野山を目指した。ついには紀伊国の学文路に至り、高野山まであと少しというところになった。一行は慈尊院という寺院に宿を借り、一夜を過ごした。
 その夜、女之助は牧の方と通じる夢を見た。同じ時、牧の方も女之助と通じる夢を見ていた。夢の中とはいえ、忠義を誓った主君の御台に邪念を向けたことを恥じた女之助は、遺書をしたため、自害して果てた。
 高野山の麓の九度山まで至った石童丸と牧の方であったが、高野山は女人禁制。牧の方は九度山に留まり、石童丸一人が高野山に登った。
 石童丸は一人の修行僧に出会い、出家した父の行方を尋ねるが、修行僧によるとその僧はすでに二月前に亡くなったという。石童丸は嘆き悲しむが、この世の無常を知り、自分も出家する決意を固め、その修行僧に弟子入りを申し出た。
 実はその修行僧こそ、石童丸の父である繁氏改め苅萱道心であり、石童丸こそ自分の息子であることを知っていたが、決してそれを明かすことはなかった。石童丸も、師である苅萱道心が実の父であることを遂に知ることなく、高野山で修行に励んで立派な僧侶となった。二人が暮らした高野山蓮華谷には苅萱堂と呼ばれる庵が結ばれ、今でも二人の高僧の遺徳を偲んで、訪ねる者が後を絶たない。

【注釈】
 
・ 本作は人形浄瑠璃の演目『苅萱桑門筑紫𨏍(かるかやどうしんつくしのいえずと)』より「いもり酒」の段を下敷きとしている。作者は並木宗輔(1695-1751)で、初演は1735年の豊竹座とされる。もともと説教話や謡曲で伝えられていた「かるかや道心」の物語を脚色した演目であり、オリジナルの物語は高野山で石童丸が父と再会するエピソードから成っている。本演目ではこの部分が「高野山」の段として上演される機会が多い。一方で「いもり酒」の段は、本演目においてはサイド・ストーリー的な位置付けであるが、媚薬が登場する珍しい趣向のものであるため、独立した演目として上演されることも多い。

・ 大内義弘(1356-1400)は室町時代の武将・守護大名。室町幕府を支え、多くの功績を立てたが、第3代将軍、足利義満(1358-1408)と対立し、応永の乱(1399-1400)を起こして討たれた。

・ 二人の妻の髪が蛇となって相争う話は『北条九代記』(1333年頃成立)に現れ、時宗の開祖、一遍(1239-1289)の出家前のエピソードとされる。一遍は伊予国の豪族、河野氏の出身であるため、本演目やその元となった「かるかや道心」の加藤繁氏のモデルとなった可能性もある。

・ 源空上人とは、鎌倉時代の僧で浄土宗の開祖となった法然(1133-1212)のことである。大内義弘や一遍といった人物とは時代が異なるが、近世の文学はこうした時代考証が適当なものが多い。

・ いもりの黒焼きは、江戸時代にその効力が広く信じられていた惚れ薬である。雄と雌のいもりをそれぞれ節を隔てた竹筒の端から入れておくと、一晩のうちに節を食い破って交尾するといわれており、その強い精力にあやかるものとして信じられていた。本作のように服薬する使い方もあったが、よく知られた使い方は、雄のいもりの黒焼きの粉を自分にふりかけ、雌のいもりの粉を好きな相手にふりかければ、相手が振り向いてくれるというものであった。

・ 本作では、いもり酒の計略にかかり、処女を喪失して自害した夕しでが悲劇のヒロインの役回りを演じているが、計略を企てた監物太郎夫婦と女之助の側からすれば、主君への忠義からの行動であり、主家を脅かす大内義弘の家臣である新洞左衛門父娘は敵方である。この物語の登場人物はいずれも善悪で分けることができないものであり、それが本演目の主題であるこの世の無常さを表している。

・ 桑原女之助は、放蕩者の色男ではあるが、本来は文武両道に秀で、忠義の心を持ち合わせた人物である。本作で神職の演技を見事にこなしたのは、彼には役者としての才能もあることをほのめかすとともに、それは元々身についていた教養の高さにもよるのだろう。彼は夕しでが自害した出来事により心を改め、石童丸と牧の方の護衛として忠義を果たす道を選ぶが、夢の中とはいえ牧の方を汚したことを恥じて自害の道を選ぶというのは、彼自身が本来、純粋な心の持ち主であったことを示している。この時、牧の方も同じ夢を見ていることから、旅を続けるうちにひそかに二人の間に恋愛感情が芽生えていたことを示唆している。どうやら女之助という人物は、関わった女性の心を知らず知らずのうちに虜にしてしまうという、特異な能力を持っているようである。しかしそれは必ずしも良い結果をもたらす訳ではないことは、本作が示すところである。

・ 本作の後日談として語られる「高野山」の段のエピソードであるが、石童丸は苅萱道心を最後までおのれの父と知ることはなかったと締めくくる結末を取ることが多い。脚本によっては、加藤家家老の監物太郎が大内義弘を打ち破ってこれを捕らえ、高野山にいる石童丸と苅萱道心の元に連れてくることによって、二人が親子であることが明らかになるという大団円を迎えるものもある。しかし筆者は、その筋はあまりに勧善懲悪の予定調和であると思うためこれを取らず、監物太郎は大内義弘によって討たれるという筋を取った。これによって、物事は善悪で割り切れるものではなく、むしろ人の心の迷いこそが世の無常の源であるとする本演目の主題が際立つと思っている。

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