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日本の写真雑誌に未来はない?

写真雑誌というものがいくつかありますが、正直なところつまらないものが多いと私は思います。

端的に言うと、次の三点に要約できます。

1. 写真よりも機材(カメラ・レンズ)の記事が多い

2. 写真作品の批評や紹介の記事が少ない

⒊ SNS時代における雑誌ならではの役割を見出せていない

以下ではこれらの問題点について順に見ていきたいと思います。

まず一番目ですが、今の写真雑誌はカメラ雑誌と言っても過言ではないくらい、機材の記事、しかも新製品のレビュー記事にあふれています。しかし私のように機材に対してこだわりがなく、買い換えるのは数年に一度という読者にとっては退屈きわまりないものです。

これは現在の写真雑誌が置かれた出版事情と無関係ではないでしょう。言うまでもなく写真雑誌にとってカメラメーカーからの広告掲載費による収入は大きく、もはや不可欠と言って良いでしょう。しかしそれによって雑誌がカメラのカタログのようになっては本末転倒でしょう。誰がカメラのカタログにお金を払って購読するでしょうか。カメラのカタログ化が進むことによって読者離れが進み、ますますカメラメーカーからの広告掲載費に依存するという負のスパイラルにおちいります。

都市伝説かもしれませんが、「サンダー平山事件」という話があります。サンダー平山(1956-2011)はコマーシャルフォトグラファーとして活動する一方、自ら「写真機家」と名乗るほど豊富なカメラの知識を持ち、多くの雑誌に機材のレビュー記事を書いていました。ところがある雑誌であるメーカーの機材を酷評する記事を書いたところ、そのメーカーから各雑誌に「サンダー平山に記事を書かせるな」という圧力がかけられ、それ以降彼は雑誌から干されたというのです。その後、病気のために失意のまま亡くなったというのです。この事件については、確実な裏付けがあるわけではないので、噂のたぐいに過ぎないのかもしれませんが、こういうことが噂されるような状況があったのかもしれません。

ところで私もサンダー平山の著書『サンダー平山の新裸像寫真』(日本カメラ社、2005年)は今でも座右の書とさせていただいています。デジタル黎明期において積極的にデジタルに取り組んでいたことも評価されるべき事柄でしょう。

海外には『Aperture』という雑誌があり、長年にわたって優れた作品や記事を発信してきましたが、この雑誌はカメラメーカーの広告を掲載していません。そのため収入は読者の購読に依存しているので、定価は少々高めの25ドルほどですが、こうすることでメーカーの影響から自由な批評空間を確保しています。

次に二番目の問題ですが、これは一番目の問題と関連していて、機材の記事が増えるため写真そのものの記事の割合が減ってしまうのです。

写真雑誌の目的のひとつに、良い作品を世に紹介するというのがあるでしょう。例えばかつての『カメラ毎日』という雑誌は積極的に若手の写真家の紹介をおこない、中には立木義浩さんの「舌出し天使」(1965)では巻頭56ページにわたって特集されました。今の写真雑誌でこういうことが出来るところはまずないでしょう。

また写真雑誌において過去の写真家や作品を批評的にレビューするという記事が少ないのも残念です。例えば美術雑誌ですと、あるテーマや作家に沿った特集記事が組まれることが多いですが、写真雑誌の場合はせいぜい「紅葉写真の撮り方」のようなテーマが組まれるか、あるいは荒木経惟さんのような存命の著名な写真家の特集が組まれる程度でしょう。アンリ・カルティエ=ブレッソンの作品が写真の潮流にどのような影響を与え、その現代的な意義はどうか、といった記事を見かけることはほとんどありません。

こうしたことが、良質な批評空間がなかなか形成されない日本の状況を生み出しているように思います。そのため、自称批評家や評論家が、自分の印象(好き嫌い)だけで批評をおこなうということが横行しているのだと思います(これを文学批評の用語で印象批評と言います)。日本では写真は美術史の中で位置付けられていないのかと思わざるを得ません。

そして最後の三番目の問題は意外と深刻で、写真雑誌が自分の首を絞めることになると私は危惧しています。速報性の観点では雑誌よりSNSなどのウェブの方がはるかに利があります。また最近では多くの写真家がSNSやウェブで活動しています。しかしそこを雑誌が後追いして、果たして雑誌に勝ち目があるでしょうか。むしろ、それなら雑誌はいらない、ということにならないでしょうか。

私は、雑誌はSNSやウェブとは違うアプローチを追求すべきだと思います。具体的には、SNSやウェブで注目されないけど優れた作家や作品を取り上げていくことだと思います。

例えばSNSで数十万のフォロワーを有する写真家がいても、その作品が良いということとは何ら関係がないと思います。例えばTwitterの場合、フォロワーが多くてリツイートの数が多いとファボの数が多くなりますが、ツイッターにログインして、他のアカウントをフォローしたりファボを押したりリツイートしたりすることでフォロワーの数を増やす活動に多くの時間を割けば割くほど、その効果は大きくなります。優れた作品をアップしさえすれば、評価が得られるというものではないのがSNSの特性です。

また、今の時代にもてはやされている作品が、後の時代に残る作品になるわけでもありません(これはSNS時代以前からそうです)。写真家のソール・ライターは「今もてはやされているものが傑作とは限らない。今見向きもされないものが傑作になることの方が多い。それは美術史が教えてくれている」という趣旨の発言をかつてしたことがありました。二番目の問題でも触れましたが、写真雑誌の目的のひとつは優れた作品の発掘にあると思うのですが、少なくともSNSの後追いをしているだけでは、そこからますます遠ざかる一方でしょう。むしろSNSの中から埋もれている作家を発掘するというのなら希望はありますが。

このように、現状において以上の三点の観点から、日本の写真雑誌の未来は明るくないと言わざるを得ません。しかしもし雑誌がなくなってしまったら、それこそ日本の写真の世界にとって大きな損失でしょう。SNSやウェブと異なり、雑誌はハードコピーとして存在するという大きな利点があります。それにより、後の時代までアーカイブとして保存され、それが美術史の基礎資料のひとつとなりえます。一方でデジタルの情報はすぐに流れて消えてしまいます(デジタル情報が百年後に残っている確証は何らありません)。もし写真雑誌がなくなって、数百年後の美術史家が21世紀の日本の写真の潮流を調べようとしたとき、参照すべき写真雑誌が一冊もなかった、という悲劇だけは、避けたいと願うばかりです。



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