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「天守物語」(18歳以上向け)

【群鷺山の地主神社の獅子に関する伝承】 
 播磨一国を治める武田播磨守はある日、紅葉山に鷹狩りに出掛け、その帰途に群鷺山の地主神社を通りかかった際、艶やかな雰囲気をまとった数人の女性たちが宮の中に隠れる様子が見えた。おおよそ城下にいる者共とは程遠い気品で、おそらくは先の大坂での戦で豊臣方についた大名の奥方か子女らが落ち延びたものと推察し、播磨守らはこれらを捕えるべく宮の中に押し入った。
 案の定、社の神楽殿に身を潜めていたのは、絶世の美女とそれに仕える数人の侍女たちであった。その姿を見て劣情を催した播磨守は、美女を力づくで犯し、播磨守の近習らもそれに倣って侍女らを代わる代わるに犯した。美女は舌を噛んで自害し、播磨守とその近習らは残る侍女らを撫で斬りにした。その中には年端もいかない少女もいたが、生き残った者は一人もなかった。播磨守は美女が髪に差していた櫛まで奪い去り、澄ました顔をして袂に入れた。
 その後、惨劇の現場を目の当たりにした神主は、神楽殿に置かれていた獅子頭が床に転げ落ち、その口から舌が伸びて女らの骸から流れ出る血を舐め、その目からは涙が流れているのを見たという。
 その年の秋、大雨が降り続き、田畑は水に覆われ、村々や城下の家屋の多くが流された。秋の大雨と洪水は三年にわたって続いた。託宣によると、これは地主神社の獅子頭の祟りであるという。それを聞いた播磨守は恐れも知らず、「面白い。ならばその獅子を捕え、城の天守の五層に据えよ。水を出すのならば、五層まで浸してみよ」と、家来に命じて獅子頭を神社から奪い、天守の最上階に置いた。
 爾来、天守では様々な怪異が起こり、五層には妖魔が棲むといわれるようになった。そして天守に登る者は生きて帰れないと噂されるようになり、それから百余年、天守の最上階まで登って戻ってきた者は一人としていなかった。

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「かごめ、かごめ
 籠の中の鳥は
 いついつ出やる」

 三人の女童たちの歌声が響く。高麗べりの畳が敷かれた座敷には、桔梗、女郎花、萩、葛、撫子の五人の侍女が、あるいは立ち、あるいは座って、めいめい五色の絹糸を付けた金色銀色の細い釣竿を手にしている。釣竿の先は開け放たれた窓の先に突き出され、その眼下には内廓の庭や櫓など、そして城下の町並みが広がっている。

「夜明けの晩に、鶴と亀がすべった」
「夜明けの晩ってなあに?」
「夜明けの晩ってなあに?」

 壁の裏から奥女中の薄が現れる。壁の一部はあたかも扉のように、自由に開くようになっている。
 薄は女童たちに言う。
「鬼灯さん、蜻蛉さん、静かになさいよ。お掃除が済んだばかりだから」
 女童たちは、
「ああい」
「あの、釣りを見ましょうね」
「そうね」
とお互いにうなずき合う。
「これは、まあ、まことに良い見晴らしでございますね」
 薄はあたりを見渡しながら言った。
「あの、猪苗代のお姫様がお遊びにおいででございますから」
と、侍女の葛が答えた。
「無粋な矢狭間や鉄の重苦しい外囲いは、ちょっと取り払っておきました」
と女郎花も続ける。
「なるほど、なるほど、よくおなまけ遊ばす方たちにしては、お気の付きましたこと、感心でございます」
と薄は軽口を言う。
「あれ、人聞きの悪いことを。いつ、私たちがなまけました?」
と桔梗が返す。
「まあ、そういった端から、何をしておいででしょう。二階から目薬とやらではあるまいし、お天守の五重から釣りをするものがありますでしょうか?富姫様がよそへお出かけ遊ばして、いくら暇があるとはいえ、冗談ではありません」
と薄が言うと、撫子は、
「いえ、魚を釣るのではありません。秋草を釣っているのでございます」
と答える。
「花を、秋草をですか?」
「ええ、釣れますとも。もっとも、新発明でございます」
 桔梗はそう答え、さらに続けた。
「白露を餌にするのでございます。千草八千草秋草が、それはそれは、今頃は露をたんと欲しがるのでございますよ。刻限も七つ時、まだ夕露も夜露もないのでございますもの。御覧なさいまし、女郎花さんは、もうあんなにお釣りになさいました」
 隣の女郎花は、糸の先に多くの秋の花を吊り下げて、それを引き上げているところである。
 薄は感心した声で、
「桔梗さん、私にも竿をお貸しください。乙なものですね」
と言うが、女郎花は、
「お待ち遊ばせ。たいそう風が出てまいりました。餌が糸にとまりますまい」
と言った。薄は、
「あら残念なこと。急に激しい風になりました」
と言うと、萩は、
「ああ、内廓の秋草が、美しい波を打ちます」
とうっとりした声で言った。
 急にあたりは暗くなり、稲光が走った。撫子は、
「夫人は、どこへおいで遊ばしたのでしょう?早くお帰りになればようございますね」
と言うので、薄は、
「お客様、亀姫様のおいでの時刻を、お含みでいらっしゃるから、ほどなくお帰りになるでしょう。さあ、皆さんがお釣りになった秋草を、獅子にお供えいたしましょう」
と言うので、侍女たちは釣り上げた秋草を、座敷の中央の奥に鎮座する獅子頭の前に供えた。獅子頭は、鎧櫃に母衣をかけた上に据えられており、その両眼は燦燦と輝き、その牙は今にも動きそうな有様である。
 供えられた秋草の周りには、美しい蝶の群れが集まって舞い始める。そのうち蝶の群れは、天守の棟に通じる梯子の上に向かって舞い上がっていく。
「あら、夫人のお帰りでございますよ」
 女郎花が言うので、侍女たちはみな揃って手を床について迎える。梯子を下りてくるのは、美しい着物に身を包み、竹笠と蓑を手にした女性である。その黒髪は漆器のように艶やかで、肌は白磁のように透き通っている。天守夫人、富姫の登場である。
「お出迎えですか、ご苦労様です」
 夫人は舞いすがる蝶の二つ三つを、片袖に受けながら言った。
 夫人は濡れた竹笠と蓑を侍女らに手渡すと、奥に鎮座する獅子頭に会釈し、座についた。
「少しくたびれましたよ……お亀様はまだお見えではありませんね」
「はい、お姫様は、やがてお越しになられるでしょう。それにつけましても、皆、夫人のお帰りをお待ち申上げておりました。いずれへお越し遊ばしましたのでしょう?」
 薄が尋ねるので夫人はこう答えた。
「夜叉ヶ池まで行って参りました。大池の主のお雪様に、少しばかり、頼みたい事がありましてね」
「まあ、越前国南条郡の、人跡絶えた山奥まで……私をはじめ、ここに居ります誰ぞがお使いをいたしますものを。御自分でおいで遊ばして、何と、雨にまでお逢いなさいまして」
「その雨を頼みに行きました。今日はね、この姫路の城……ここから見ればただの長屋ですが、長屋の主人、ほら、播磨守が、秋の野山へ鷹狩りに、大勢で出掛けました。皆知っておいででしょう。空は高く、渡鳥や色鳥の鳴く音は楽しいものですが、田畑と言わず駆けまわり、きゃっきゃっと飛びまわる、侍ども人間の大声は騒がしいものです。まだ、それも鷹だけなら我慢もいたします。近頃は不作法な、弓矢や鉄砲も持ち出すものですから、うるさいことこの上ありません。何より私のお客様、この大空の霧を渡って輿でおいでのお亀様にも失礼だと思いましたので、雨風と雷で鷹狩りの行列を追い散らそうと……それを、夜叉ヶ池のお雪様にお頼みしに参ったのですよ」
「道理で、急な雨と存じました」
「この辺は雨でしたか。鷹狩りが遠出をした、姫路野の一里塚のあたりは、闇夜のような黒い雲、眩いばかりの電光、恐ろしい雹までも降りました。鷹狩りの連中は、大慌てで散り散りに逃げまわって、それは愉快な有様でした」
「それはそれは」
「夜叉ヶ池のお雪様は、激しい中にも奥ゆかしさをお持ちのお方。鷹狩りたちを城まで追い返してくださいました。それを見ていた私のところにも雨雲が来たものですから、農家の軒にあった蓑を、歌も詠まずにお借りして、案山子の竹笠をさして戻ってきました。ああ、そこの蜻蛉と鬼灯たち、後で返してきてくれませんか」
「何の、それには及びますまい」
「いえいえ、農家にとっては大事なものですから」
 そう言って夫人は、薄をともない、いったん着替えのために奥の部屋に戻る。三人の女童たちは再び歌い出す。

「後ろの正面、だあれ」
「後ろの正面ってなあに?」
「後ろの正面ってなあに?」

 その時、棟に通じる梯子をゆっくりと降りてくる者がいる。岩代国麻耶郡猪苗代の城、千畳敷の主である亀姫の供頭をつとめる、朱の盤坊である。山伏の格好をし、頭には角が一つ生えていて、顔の色は真っ赤である。白布で包んだ小桶をひとつ小脇に抱え、女童たちが戯れるのを見てニタリと笑った。
「かちかちかちかち。もおう!」
 朱の盤は歯を噛み鳴らす音を立て、獣が吠える声を真似して女童たちをおどすので、女童たちははしゃぎまわった。
「いや、さすがは姫路のお天守の、富姫御前の禿たち。奥州第一のこの赤ら顔に、びくともしないとは恐れ入った。さて改めて、姫様へのお取り次ぎをお願いいたす」
 すると壁の向こうから薄が現れて尋ねる。
「いずれからお越しでしょう?」
 朱の盤は改まって挨拶の言葉を述べた。
「それがしは岩代国会津郡十文字ヶ原青五輪のあたりに罷りある、奥州変化の先達、允殿館の主、朱の盤坊でござる。このたびは猪苗代の城、亀姫君のお供をいたし罷り出ました。当お天守の富姫様へお取り次ぎを願いたい」
「お供、ご苦労に存じ上げます。お姫様はいずこにおわしますか?」
「天守の棟に、輿をつけておりますので、そこに控えております」
「夫人も、お待ちかねでございます。どうぞお入りくださいませ」
 すると梯子の上より、手鞠を両手に捧げた女童が降りてくる。続いて振袖姿の亀姫が、ゆっくりと降りてくる。その後ろにはもう一人、女童が守り刀を捧げて降りてくる。最後に古くて黄ばんだ練衣と、色褪せた紅の袴を着けた舌長姥が従って降りてくる。
 夫人も侍女を従えて奥の部屋から現れ、設けの座に着く。
 亀姫もしとやかに通り座につく。二人は顔を合わせて微笑み合う。
「お亀様」
「お姉様、おなつかしい」
 夫人は女郎花が差し出す長い煙管を取って吸い、その吸い口をそのまま亀姫に渡す。
「この頃は、召し上がるそうですね」
「ええ、どちらも」
 そう言って亀姫は煙草を吸いつつ、左の手で杯を持つ真似をする。
「あら、困りましたねえ」
「お姉様ほどではございません。私はたしなむ程度に……」
「あらまあ、憎まれ口を……それで、猪苗代からこの姫路まで、はるばる道中は五百里はあるでしょう。よくお越しいただきました」
「お姉様、お土産がございますのよ」
 そう言うと亀姫は朱の盤に、白布の包みを持って来させた。
「さて何でしょう。楽しみなこと」
「この品ばかりは夫人もお気に召すことでしょう」
と言って、朱の盤が包みを開くと、中から出てきたのは首桶。その中から色白い男の生首を出し、もとどりをつかんで、ずんと床に据えた。生首は血だらけになっている。
「やや、これは粗相いたしました。運んでくる途中に揺られて、汁が漏れてしまいました。これ、姥殿、姥殿」
 朱の盤が舌長姥を呼ぶ。
「あいあい、あいあい」
「御進物が汚れてしもうたわ。姥殿、ちょっと清めてくれんかな」
 夫人は煙管を手にし、御進物を見据えて言う。
「気遣いにはおよびません。血だらけでも、なお美味しそうに見えますよ」
「いえいえ、このままではさすがにお見苦しい。どれどれ掃除させて参りましょうぞ」
 そう言うと舌長姥は首を片手で押さえると、白い髪をさっとさばいて口を開け、長さ三尺ばかりの舌で首の血をなめはじめた。
「ああ、甘いのう。ああ、甘いのう」
 それを見て朱の盤が言う。
「姥さん、歯を当てるでないぞ。ご馳走が減ってしまう」
「なんの、心配ご無用じゃ。近頃は歳のせいですっかり歯が悪うなってしもうての。たくあんの尻尾ですら噛むのに難儀するわい」
「いや、奥方様。この姥がくだんの舌でなめますと、鳥獣も人間も、とろとろと消えて骨ばかりになりますわ。言わんこっちゃない、お土産の顔付きが、少々細長うなりました。なれど怪我の功名、死んで変わりました人相が、かえって元のように戻りました」
「ああ、本当に」
 亀姫が言う。他の者たちも一心にその様子を見ている。みな一口食べたそうである。
「あら、皆さんもご覧なさいまし。お亀様がお持ちになったこの首は、この姫路の城の殿様の顔に、よく似ているではございませんか」
と薄が言うので、桔梗も、
「まことに瓜二つでございますね」
と言う。それを聞いて夫人もうなずく。
「お亀様、このお土産は、たしか……」
「はい、私が廂を貸している、猪苗代亀ヶ城の主、武田衛門之介の首でございますよ」
「まあ、あなた。私のために、そんな事を」
「構いません。それに、私がいたしたとは、誰も知りはしませんもの。私が城を出ます時はね、まだこの衛門之介はお妾の膝に寄りかかって、酒を飲んでおりました。お大名の癖に意地が汚くってね、鯉汁を一口に食べますとね、魚の腸に針があって、それが、咽喉へ刺さって、それで亡くなるのでございますから。今頃ちょうどそのお膳が出たぐらいでございますよ」
 そこまで言って亀姫は、ふと驚いた顔をしてみせて扇子を落す。
「まあ、うっかりして、この咽喉に針があります。大変なことをしました。お姉様に刺さったらどうしよう」
「お待ちください。せっかくのあなたのお土産を、いま、それをお抜きになると、衛門之介も針が抜けて、蘇ってしまいましょう。 私が気をつけますので、お気になさらずに」
 そう言って夫人は扇子を添えて生首を受け取り、侍女たちに言った。「お前たち、瓜二つなのは当然ですよ。この人はね、この姫路の城の主、播磨守とは血を分けた兄弟よ」
 侍女らは互いに目を合わせた。
「ちょっと、獅子にお供え申そう」
 夫人は自ら、獅子頭の前に生首を供える。すると獅子はその牙を開き、首を呑みこんだ。亀姫はその様子を見て言った。
「お姉様、おうらやましい」
「え?」
「旦那様が、おいで遊ばす」
 二人は顔を見合わし、そして奥の獅子頭を見る。
「あんな男が欲しいわね」 
 夫人はそう言って微笑むと、思い出したように続けた。
「ああ、男と言えば、お亀様。あなたにお見せするものがありました。桔梗さん、あれをちょっと」
「かしこまりました」
 桔梗はそう答えると、奥の部屋から兜を捧げ持って出てくる。兜には鍬形と、金の竜頭の飾りがしつらえられている。
「この兜はね、この城の播磨守の先祖代々の宝で、奥の蔵に大切にしまってあったのを、あなたに差し上げようと取り出しておいたのです。でもあなたのお土産を見て、私のは恥ずかしくなってしまいました」
「いえいえ、結構なお品ですこと」
「いいえ、やはり差し上げるのはやめましょう。あとで気が付きましたが、長く蔵にしまってあったので、すっかりかび臭くなってしまっています。伽羅の香りもいたしません。大坂城が落ちた時の、木村長門守の形見の品のようなものだと良かったのですが、勝ち戦の後ろの方で、矢玉の雨宿りをしていたような、ぬるいのらしいです。ご覧ください」
 夫人が兜を亀姫に渡すと、鉢金の裏を返して見て言った。
「ほんとうに。討死をした兜ではありませんね」
「ですから、やめておきましょう。葛や、しばらくそこに」
 葛はその兜を引き下げて獅子頭のかたわらに置いた。
「お帰りまで、きっとお気にいるものを用意いたしますので」
「それよりお姉様、早く、あのお約束の手鞠を突いて遊びましょうよ」
「ええ、遊びましょう。では、あちらへ」
 夫人は立ち上がると、亀姫も合わせて立ち上がる。それを見て亀姫の従者たちも立ち上がろうとするので、
「いえいえ、みなさまは侍女らとここで一献、ゆっくりされるが良いでしょう。山伏殿も、さあ」
と夫人は言うので、朱の盤は、
「これはかたじけない、吉祥天女のような富姫様のご功徳にございます」
とかしこまる。亀姫も、
「姥や、お前もここでゆっくりされるが良い」
と言うので、舌長姥は、
「あけび、山ぐみ、山葡萄、手造りの猿の酒、山蜂の蜜、蟻の甘露と、世に様々な良き物もござりますが、お二人様のお手鞠は、唄を聞きますだけでも寿命の薬となります。かように年を取りますと、欲も、得も、何もいりませぬ。ただもう、長生きがしとうござりましてのう」
と言うので、朱の盤は、
「や、姥殿、それだけ生きてもまだ長生きがしたいのかい」
と言う。舌長姥は、
「このくされ山伏、また憎まれ口を言う」
と言って舌をぺろりと出す。
「わあ、助けてくれ、角が縮まる」
 その様子を見て、侍女たちもみな笑う。

「私が姉さん三人ござる、一人姉さん鼓が上手
   一人姉さん太鼓が上手
   いっちよいのが下谷にござる
   下谷一番達しゃでござる。二両で帯買うて、
 三両でくけて、くけめくけめに七総さげて、
   折りめ折りめに、いろはと書いて」

 夫人と亀姫の手毬唄が、美しく天守の五層から風に乗って秋の空に流れていく。侍女らも亀姫の眷属たちも、その様子をうっとりとして見ている。
 にわかに天守の下の方からざわざわと騒々しい音が聞こえてくる。夫人は窓から見下ろし、
「ああ、鷹狩が帰って来た」
と言うと、亀姫も一緒に見下ろして言う。
「先刻、私がここに参る時に、蟻のような行列が松並木を走っているのが見えました。ああ、生首に似た殿様が、馬に乗って反返って、威張って、本丸へ入って来ますね」
「あれが播磨守ですよ」
「まあ、翼が雪のように白い、いい鷹を持っているわね」
「まあほんとう」
 そう言うと夫人は亀姫の方に向き直って言った。
「ああ、あの鷹を取って上げましょうね」
「まあ、どうやってあれを」
「まあ、見ておいてください。何と言っても私は姫路の富姫ですから」
 そう言って夫人は先ほどの蓑を取って羽衣のように肩に羽織ると、美しい蝶の群れが蓑に集まってきて周りを舞う。夫人はさっと蓑をひるがえすと、瞬く間に羽を広げた鶴の姿となった。
 夫人はそのまま窓の外に飛び立つと、先ほどの白鷹はそれを目がけて天守まで駆け上ってくる。それを夫人はすかさず捉えて、最上層の間に戻ってくる。下の侍らはわっと声を上げる。
「お姉様、なんと神々しい」
 亀姫は潤んだ目で夫人を見ると、蓑を脱ぎ元の姿に戻った夫人は、小脇に抱えた白鷹を亀姫に手渡して言った。
「この鷹でしたら、鞠を投げても取るでしょう。たくさんお遊びなさいまし」
「あい」
 亀姫はうれしげに白鷹を袖に抱く。しばらくそれを愛でていたが、ふいに振り返り、白鷹を懐の中にしまうと、
「虫が来た」
と言い、振袖を振り払うと、一条の矢がそれに絡まってからりと床に落ちた。
「むっ」
 夫人も窓の外に向き、身をよじると、口に一条の矢、さらに左手に一条の矢を取る。さらに下から鉄砲を射かける音がするので、夫人はさっと袖を振り払って言う。
「みなさま、大事ありませんか」
 侍女らは身を伏せ、朱の盤は大手を開いて亀姫をかばう。
「姫様、姥殿、大事ないか」
「大事ない、大事ない」
 夫人は微笑みながら言う。
「ほほほ、皆で線香花火をたきなさい。そうすれば、鉄砲の火で天守が燃えると思って、驚いて撃つのを止めるでしょうから」
 侍女らが線香花火に火を付けると、その光は夕方の差し迫る闇の中にきらきらと輝いた。それに合わせて鉄砲の音も止んだ。
「ほほほほほ」
 夫人と亀姫は声を合わせて笑った。
「それ、ご覧。ついでにその火で、焼けそうなところを二、三か所、焼いてしまいなさい。お亀様の帰り道の松明になるでしょう」
「お心づくし、おうれしや。それではごきげんよう」
「ごきげんよう」
 亀姫とその従者らは、棟に通じる梯子を登っていった。そして亀姫を乗せた籠は、天守の棟から光の筋となって飛び立ち、望月の上り始めた東の空の彼方へと消え去っていった。
 残った夫人は、机に向かって書を読み始めた。女郎花は清らかな小搔巻を持ってきて、静かに夫人の肩にかけると、奥の部屋に下がった。他の侍女たちもすでに下がり、五層の間には夫人だけがたたずんでいる。遠くに、童女たちの歌声が響いている。

「夜明けの晩に
 鶴と亀がすべった
 後ろの正面、だあれ」

 しばらくすると、四層に通じる階段の口から、雪洞の明かりがもれてきて、やがてあたりを照らし始める。階段のきしむ音とともに現れたのは、黒羽二重の紋着、萌黄の袴を身に着け、臘鞘の大小を腰に差した男の姿であった。その整った顔立ちには、勇壮な気概があふれている。彼は五層の間を見渡した後、几帳の向こうに人影を感じて歩を進めると、そこに夫人の姿を認めた。柄に手をかけて身構えるが、夫人の姿に気押されて、じりじりと後ずさりをする。
「誰?」
「はっ!」
 夫人の問いかけに、思わず膝をついて答える。
「私は、当城の大守に仕える、武士の一人でございます」
「何をしに参られた」
「この百年、二重三重まではともかく、このお天守の五重まで、生きて参った例はありませぬ。今宵、大殿の仰せによって、この私が見届けに参りました」
「それだけの事ですか?」
「実は、大殿様が御秘蔵の、日本一の鷹が逃げまして、天守のこのあたりへ隠れました。行方を求めよとの御意でございます」
「翼あるものは、人間ほど不自由ではない。五百里、千里と、勝手なところへ飛ぶ、とお言いなさるが良い。用はそれだけですか?」
「はい、それ以外には承ってございません」
「五層に参って、見届けた上、どのようにせよとも言われなかったのですか?」
「いえ、承っておりませぬ」
「あなたはこれを見届けて、どうしようとお思いですか?」
「お天守は、殿様のものでございます。いかなる事がありましょうとも、私の一存にて、何も取り計らうことはできませぬ」
「お待ちなさい。この天守は私のものなのですよ」
「いかにも、それは、あなた様のものかも知れませぬ。また殿様は殿様で、御自分のものだと御意遊ばすかも知れませぬ。しかし、いずれにいたしましても、私のものでないことは確かでございます。自分のものでないものを、殿様の仰せも待たずに、どうしようとも思いませぬ」
「殊勝な言葉ですね。その心でしたら、ここから無事に帰れましょう。私も無事に帰してあげます」
「かたじけなく存じます」
「今度は、播磨が何を申しても、決して来てはなりません。ここは人間の来るところではないのですから。そしてまた他の誰も参らせぬように」
「いえ、私が参らぬ以上は、五十万石の御家中、誰一人参りますものはございますまい。皆、生命が大切でございますから」
「あなたは命は惜しくなかったのですか?」
「私は、実は訳あって殿様の御不興を受け、切腹を仰せつけられたのでございますが、誰もお天守へ上ります者がないために、急なお呼出しとなったのでございました」
「では、この役目が済めば、切腹は許されますか?」
「そのお約束でございました」
「人間が死んだり生きたりすることに、私は興味がありませんが、切腹はさせたくありません。私は武士の切腹は嫌いですから。しかし、思いがけなく、あなたの生命を助けました。今夜はいい夜です。それではお帰りなさい」
「……姫君」
「まだ、何か?」
「は、おそれいったる次第ではございますが、御姿を見ました事を、主人に申しましても差支えはございませんか?」
「確かに申し上げなさいまし。留守でなければ、いつでも居ますから」
「武士の面目に存じます。御免」
 そう言うと男は雪洞を取って静かにその場を退き、階段を降りて行く。夫人は長煙管を手に取り、煙を吸い込み、それを長く吹き出す。その音に、男はしばし階段を降りる歩みを止めるが、やがて灯とともに階下に姿を消す。
 しばし静寂と暗闇があたりを包み、遠くに鐘の音が響く。すると四層に通じる階段からふたたび、先ほどの男が姿を見せる。
 夫人はすっと立ち上がり、男が上ってくる様子を凝視する。男は手探りで夫人の方に近付くと、手をついてひれ伏す。
 夫人は穏やかな声で言った。
「またお見えですか?」
「はっ、日も暮れましたところ、再度お騒がせいたし、まことに恐入ります」
「何しに参りました?」
「実は、お天守の三重まで戻りますと、鳶ばかり大さの、野衾かと存じます、大蝙蝠の黒い翼に、燈をあおぎ消されまして、進退極まってしまいましたので、灯を頂きに参りました」
「ただそれだけの事に……二度とおいでになってはならないという、私の言葉を忘れましたか」
「お天守の中には月の明かりも差し込まず、下に向えば真の暗闇。男が足を踏みはずし、階段を転がり落ちて身体の自由を失いでもしたら、それこそ生き恥をさらすことです。上を見れば五重のここより、かすかに明かりが差しているのが見えました。お咎めによって命を召されることになりましても、男としては、階段から落ちて不覚をとるよりはと存じ、御戒をもはばからず戻って参りましてございます」
「ああ、なんと正直なお心。そして、あなたはお勇しい。灯火を点けて上げましょう」
「いえ、姫君御自ら点けていただくのはもったいないことです。自分でいたします」
「いえいえ、この灯火は、明星、北斗星、竜の燈、玉の光も同じことです。あなたの手では、蠟燭には点きません」
 そう言って夫人は、丁寧に雪洞の蠟を抜き、短檠の火をそこに移した。そして蝋燭を手に取りつつ、まじまじと男の顔を見て、うっとりとした表情を浮かべた。
「あなたを帰したくなくなりました。このままもう帰しません」
「何と」
「あなたは、播磨があなたに切腹を申しつけたと言いました。それは何の罪でございます?」
「私が育てて参りました、殿様が日本一と御自慢の白い鷹を、このお天守へ逃してしまいました。その罪でございます」
「何と、鷹を逃したと。ああ、人間というものは不思議な罪を着せるものですね。その鷹はあなたが勝手に鳥に向けて放ったものではありますまい。天守の棟に、世にも美しい鳥を見て、それ欲しさに播磨守が、自分であなたに言いつけて、勝手に自分で逃したものを、あなたの罪にすると言うのですか?」
「主君と家来というものはそういうものでございます。仰せのまま生命をさし出しますのが臣たる道でございます」
「その道は曲っていましょう。間違った言い付けに従うのは、主人に間違った道を踏ませるのではありませんか」
「けれども、鷹が逃げましたのは私の責任です」
「ああ……主従とはおそろしいものですね。鷹と人間の命とを引き換えるのでございますね。そうであっても、あなたが自分の過ちと言い、それが道であると言うなら仕方がありません。けれども、それが播磨の指図であったなら、それは播磨の過ちというものではありませんか。第一、鷹を失ったのは、あなたではありません。あれは私が取ったものです」
「なんと、あなた様が」
「ええ、ほんとうに」
「……ああ、おうらみ申し上げます」
 夫人は口惜しそうな男の顔を見ると、少し間を置いてから言った。
「鷹は第一、誰のものだと思います?鷹には鷹の世界があります。野山を駆け抜け、大空に羽ばたく自由を持っています。決して人間の持ちものではありません。大名なんぞというものが思上って、あの鷹を、ただ一人じめに自分のものとしようというのは、つけ上りに他なりません。あなたはそうは思いませんか?」
 男はしばし黙っていたが、こう口を開いた。
「美しく、気高い、そして計り知れぬ威厳をお持ちの姫君。私にはおそれ多くてお答えが出来かねます」
「いえ、いえ。私はあなたを責めているのではありません。私の言うことが、少しなりともお分りになりましたら、あの道理や筋道の分らない二の丸、三の丸、本丸、西の丸の御家中の元へなど、もうお帰りなさいますな」
「姫様の仰せになること、もっともでございます。それでも私は帰らねばなりません」
 そう男が言うと、夫人は男の側ににじり寄り、声をひそめて言った。
「あなたが再び戻ってきたのは、雪洞の灯が消えたからだけではありませんね?」
 そう言われて男は驚いた顔を見せたが、やがてかしこまって言った。
「……仰せの通りです。あなた様の姿をあと一目、見たくて戻って参りました」
 夫人は優しく微笑んで言った。
「白銀、黄金、珠、珊瑚、千石万石の知行より、私が身を捧げます。腹を切らせる殿様のかわりに、私の心を差上げます。私の命を上げましょう。あなたはお帰りなさいますな」
 そう言われて男は動揺しつつ、答えた。
「迷いました、姫君。殿に鉄のような忠義を誓った私の心も、波打つばかりに乱れております。が、決心が出来ません」
 夫人は溜息をついて言った。
「ああ……まだあなたは、世の中に未練があるようですね」
「……はい、申し訳ございません」
「では、あなたの返答次第では、帰さない訳ではないかもしれません」
「ありがたきお言葉、恐縮いたします。では、どのようなお求めでございましょうか?」
 すると夫人は男の手に自分の手を伸ばし、顔を近付けて、耳元でささやいた。
「これから私のすることに、決して逆らってはなりません」
 そう言うと夫人はその腕を男の首に回し、抱き寄せると、自分の唇を男の唇に押し当て、むさぼるようにそれを吸い始めた。

 夫人はそのまま男の首筋にむしゃぶりつき、さらにはその厚い胸元に顔を埋めた。そしてしばらくすると笑みを浮かべ、男の袴の紐を解き、それを押し下げると、さらに着物の中をまさぐった。すると夫人の手には、屹立した男の男性自身が握られていた。
 着物の裾を割って、大きく怒張したそれをあらわにすると、夫人はその真っ赤な紅を引いた唇を開け、それを飲み込んでいった。
「立派な逸物をお持ちのこと……」
 夫人はそう言いながら、男の一物を口でくわえたり、あるいは舌でねぶったりしてもてあそんだ。男の先端から透明な液が漏れ始めると、夫人は一物をすっぽり口でくわえこみ、首を規則正しく上下に動かした。じゅぽっ、じゅぽっ、という湿った音が響いた。
「……ああっ、姫君、もう……!」
 男は懇願するように声を上げたが、夫人は規則正しいその動きを止めなかった。
「ああっ……!」
 男は恍惚の声を上げたので、夫人はそこで動きを止めた。男の一物はびくんびくんと震え、夫人の喉の奥に白い液体を何度も放った。
「申し訳ありません……私、女性に慣れておらず……」
 男はかしこまって言ったが、夫人は目に笑みを浮かべ、それからゆっくりと自分の口から男の一物を引き抜いた。その先端から夫人の口まで、すうっと一条の白い筋が引かれた。
 いまだ怒張を続ける男の一物を夫人は手放さず、その先端から少しだけ溢れる白い精を舌で舐め取ってから言った。
「美味しい。栗の花のような香りだわ。そしてまだまだ元気そうね」
 そう言うと、夫人は着ていた着物を自分で解き、胸元をあらわにすると、小振りながら張りのある乳房があらわになった。夫人は男の手を取ると、その手のひらを自分の乳房のところに当てがった。男は自然と夫人の乳房を揉み始めたので、夫人も男の一物を手でしごき始めた。するとそれは先ほどと同じくらいの硬さを取り戻した。
 夫人は着物の裾を割り、太ももをあらわにすると、腰を男の下半身に当てがい、ゆっくりとその上に座り込んでいった。男の一物の先端は夫人の花弁に触れたが、それはすでに十分に潤っていた。
 夫人はさらに腰を落とすと、男の一物はゆっくりと夫人の花弁の奥に飲み込まれていった。そして根元まですっかりおさまったところで、夫人はかすかに喘ぎ声を上げたが、そのまま男の上にまたがり、腰を上下に動かし始めた。
 二人の肌がぶつかる音が規則正しく、天守の五層の間に響いた。今この時にここにいるのは夫人と男の二人だけである。夫人の顔は紅潮し、背中にも汗がにじんできた。
「最後は上になってくださいまし」
 夫人がそう言ったので、いったん二人は体勢を入れ替え、今度は夫人が下になり、男がそれを組み伏せる格好となった。そして男は、激しい動きで腰を前後させ、その一物で夫人の芯を繰り返し突いた。
「もっと激しく突いて!そう、そう!」
 夫人が喘ぎ声を上げながら言うので、男も興奮が高まったようで、さらに激しく夫人を突いた。そしてついに男も短く声を上げると、男の一物からは白い液体が放たれ、それは夫人の中を満たしていった。

「約束です。それではお帰りなさいまし」
 夫人は火の点いた雪洞を男に手渡した。男はかしこまりつつも雪洞を受け取って言った。
「途方に暮れつつ参ります。迷いの多い人間を、あわれとばかりお思いください」
「ああ、優しいそのお言葉で、なお帰したくなくなりました」
 そう言うと夫人は男の袖を取るので、男はそれを払って言った。
「どうしてもお帰しいただけないようでしたら、お手向いいたします」
 夫人は微笑んで、
「まあ、この私に?」
「是非もないことです」
「まあ、お勇ましくて、凜々しいこと。あの、獅子に似た若いお方、せめてお名を伺いたい」
「姫川図書之助と申します」
「ああ、素敵なお名、決して忘れません」
「私も、以後お天守の下を行き来する時には、誓って姫君を思って礼拝をいたします」
 そう言うと図書は立ち上がり、
「御免」
と告げた。
「ああ、図書様、しばらく」
 夫人は今一度、図書を引き留める。
「……やはり、是非もありませんか。所詮、生かしてはお帰し出来ない掟なのでございますか」
「ほほほ……播磨守の家中とは違います。ここは私の心一つ。掟など何もございません」
「では、なにゆえお呼び留めを?」
「おはなむけがあるのでございます。人間は疑深い。卑怯な、臆病な、我儘な、殿様などはなおの事。貴方がこの五層へ登って、この私を認めたことを誰もほんとうには信じぬでありましょう。清くて、爽かなあなたのために、記念の品をあげましょう」
 そう言って夫人は、獅子頭のかたわらに置かれていた兜を手に取る。
「これを、その記念にお持ちなさいまし」
「思いがけない宝物ではありますが、姫君に向かって、御辞退はかえって失礼。余りに尊い、天晴な御兜」
「金銀はかかっているでしょうけど、そんなにいい細工ではありません。しかし、武田には大切な道具。あなた、見覚えがありますか」
「まさかとは存じますが……私とて年に一度、虫干の時の他には拝しませぬが、これとよく似た、お家の重宝、青竜の御兜」
「まったく、それに違いありません」
「これこそ爪先立つばかりに心が浮き立ちます。それではお暇申し上げます」
「今度来たら帰しませんよ」
「誓って……仰せになるまでもありません」
「さらば」
「はっ!」
 図書は兜を捧げ、急ぎ足で階段を降りて行った。夫人は一人もの思いにつき、机に頰杖を付いて、獅子頭に向かって語りかけた。
「あなた、あの方を……私に下さいまし」
 すると音もなく薄が現れた。
「立派な方でございます」
「今まで、あの人を知らなかった。目の及ばなかった私は恥かしいよ」
「かねてよりのお望みにかなった方を、何でお帰しなさいました?」
「命が惜しい。抵抗をすると言うもの」
「ご一緒に、ここにお置き遊ばすだけで、命をお取り遊ばすのではございませんのに」
「あの人たちの目から見ると、ここに居るのは生きた者ではないのだと思います」
「それでは、夫人のお力で、無理にでもお引留めが出来ますのに。何の、抵抗をしましたところで……」
「いや、力で人を強いるのは、播磨守なんぞがすること。真の恋は、心と心……薄や」
「はい」
「しかし、そうは言うものの、白鷹を育てた鷹匠だと言うのですから、縁ですね」
「きっと御縁がござりますよ」
「私もそう思います」
「夫人のお言葉に、私もちと痛み入りました……あれ、何やら、お天守の下が騒がしいようです」
 そう言って薄は窓の下を覗き込む。
「まあ、御覧なさいまし」
「いかがいたしました?」
「武士どもが大勢で、篝火を焚いております。ああ、武田播磨守殿が、床几に座ってお控えです。あのおぬるくて、のろまな癖に、尊大で、せっかちで、お天守見届けのお使いが帰るのを待兼ねて、出張ってきたのでございましょう。あら、あそこに図書様のお姿が小さく見えます。夫人、おたまじゃくしのような者共の中にあっても、すっきり花が咲いたような、際立ってお美しい姿……」
「知りませんよ」
「ああ、兜改めてが始まりました。あら、驚いた。あの、殿様の漆みたいな太い眉毛が、びくびくと動きますこと。先刻の亀姫様のお土産の、兄弟のあの生首を見せたら、どうでございましょう。ああ、御家老が居ます。あの親父も大分百姓を痛めつけて貯め込みましたね。そのかわり頭が禿げ上がりました。まあ、皆が図書様を取巻いて、お手柄にあやかるのかしら。おや、おっとり刀だ。何、何、何、まあ、まあ、夫人、夫人!」
「もう良い」
「ええ、もう良いではございません。図書様を賊だ、と言っております。御秘蔵の兜を盗んだ謀逆人、殿様のお首に手を掛けたも同然な逆賊でございます、と。おかげで兜が戻ったのに……何てまあ、人間というものは。あれ、捕手が掛った。忠義と知行で、手向かいはなさらぬかしら……しめた、投げた、嬉しい。そこだ。御家老が肩衣をはねましたよ。大勢が刀を抜いて、あれ、危ない!図書様も刀を抜いた……一人、腕が落ちた。あら、今度は胴体を真っ二つ!安月給でそこまでして働かなくとも……あら、可哀相に、首が飛びましたわ」
「秀吉の時分から見馴れていながら、何とも騒々しいことですね」
「騒がずにはいられません。多勢に一人、あら切り抜けた、図書様がお天守に逃げ込みました。追っ手が続きます。槍まで持出した。図書様が、二層へ駈け上っておいでなさいます。大勢が追い詰めて」
 夫人は片膝を立てて言った。
「よし、お手伝いしましょう」
「お腰元衆、お腰元衆!」
 薄は侍女らを呼びながら階段を降りて行く。夫人は立ち上がって階下を見下ろすと、下の方から激しい人声と物音が聞こえてくる。やがて、髪が乱れ、衣服に返り血を浴び、刀を片手に持った図書が、肩で息をしながら階段を駆け上ってきて、夫人と対峙した。
「図書様」
「姫君、お言葉をも顧みず、三度の推参をお許し下さい。私を賊……賊……謀逆人、逆賊と申して」
「よく存じておりますよ。昨日、今日まで、お互いに友と呼んだ人たちが、いかに殿の仰せとて、手の裏を反すように、よくもまあ、あなたに刃を向けます」
「はい、微塵も知らない罪のために、同じ人間に殺されますのは口惜しい。せめて死ぬなら、あなたのお手にかかりたい」
「ええ、武士どもの中でしたら、あなたはお命を取られることでしょう。私と一緒ならば、いつまでもお生きなさるでしょう」
「お情あまるお言葉ながら、生きようとしても、討手の奴らは、決して私を生かしておかないでしょう。早くお手にかけて下さいまし。あなたに命を取られるのならば、もうこの上のない本望、奴らに討たれるのは口惜い」
 そう言って図書は夫人の膝に手を置いて言った。
「さあ、命を、命を……こうしている間にも奴らは」
「いいえ、ここまでは来ますまい」
「五重の、この階段の下まで迫っています……かねてよりの風説、鬼神より、魔よりも、ここを恐ろしいと存じておるゆえ、いささか躊躇はいたしますが、既に、私の、このように参ったを認めております。こう言う間にも奴らは……」
「ああ、それもそう。何より先に、あなたをお匿い申しておこう」
 そう言うと夫人は獅子頭を取って母衣を開き、図書の上に覆いながら言った。
「さあ、この中へ、この中へ」
「おお、これはまさに鉄壁」
「いいえ、柔らこうございます」
「仰せの通り、真綿よりも」
「そして、しっかり私におつかまりなさいまし」
「失礼御免」
 図書は夫人の背後からその袖にすがりながら、身を母衣の中に隠した。夫人も獅子頭を捧げつつ、その身体を母衣の中に包んだ。
 討手がどやどやと五層の間に入り込むと、ただ一頭の獅子が猛然としてたたずんでいるのを目の当たりにした。討手は皆、抜き身の槍や刀を手にしている。
 討手の一人は、雪洞を掲げて五層の間を照らしながら言った。
「やや!怪しく、美しい、婦人の立ち姿と見えたのはこれだ」
「姫川図書め、死ものぐるいに、そこの獅子頭の母衣に隠れたに相違ない。やあ、上意だ。逆賊出合え!」
「待て、気を付けい。うかつにかかると怪我をいたす。元来この獅子は、並大抵のものではないのだ。伝え聞くところによると、これは群鷺山の地主神の宮に飾ってあったもので、数々の災いをもたらしたが故に、ここに置かれたものだという。心してかかれ」
「心得た、槍をつけろ!」
 討手らは槍で獅子に打ちかかると、獅子は狂ったように身を踊らせ、討手らを振り払おうとする。
「木彫にも精がある。活きた獣も同じ事だ。目を狙え、目を狙え」
 討手らは力を合わせて、獅子頭の目を槍で何度も突いた。獅子はたまらず身を伏せると、討手らはその頭を押さえ込もうとした。
 すると夫人は、獅子の頭を掲げつつ、すくっと立ち上がった。黒髪は乱れ、その表情は鬼神のようである。手には生首を下げながら、こう叫んだ。
「お前たち、この首は誰のものだ!目のあるものは、とくと見よ!」
 そして生首を放り投げると、討手はわっと退く。そのうちの一人が恐る恐るこれを拾う。
「な、なんと!これは殿様の首だ!」
「何ということだ!一同、ご自分の首はあるか」
「恐ろしい魔物だ。うかうかして、こんなところに居るべきでない」
 討手らは、立つ足もなく、生首を手にしながら退いていった。
「姫君、どこにおいでなさいます。姫君!」
 母衣の中からよろよろと出てきた図書が呼びかけるが、姫は黙ったまま立ちつくしている。
「姫君、どこにおいでなさいます。私は目が見えなくなりました。姫君……」
「私も目が見えなくなりました」
 夫人は静かにそう言った。
「……侍女たち、せめて灯を点けておくれ」
 すると壁の奥から侍女たちも泣きながら言った。
「皆、目が見えなくなりました。誰も目が見えないのでございます」
 夫人は手にした獅子頭とともに、その場にはたと崩折れる。
「獅子が両眼を傷つけられました。この精霊で生きていたものは、一人も見えなくなりました」
「姫君、どこに……」
 図書は夫人をさぐり寄りつつ、やがてその手に触れ、はっと泣き出し、その身体を抱き寄せた。
「もはやどうしようもありません。今持たせてやった首も、天守を出れば消えましょう。討手はすぐに引返して来るでしょう。私一人ならば、雲に乗ることも、風に飛ぶことも、虹の橋を渡ることも出来ましょうが、図書様には出来ません。ああ、口惜い。あれら討手の者共の目に、蓑笠を着た天人のような二人の揃った姿を見せて、日の出、月の出にも、おがませようと思ったのに、私の方が目が見えなくなってしまっては、ただお命さえ助けられません。堪忍して下さいまし」
「悔やみません!姫君、あなたのお手にかけて下さい」
「ええ、人手にはかけますまい。そのかわり私も生きてはおりません。一緒に冥土に参りましょう」
「姫君、まことでございますか」
「ああ、最後に一目、あなたのお顔が見たい。ただ一目……数百年にただ一度、たった一度の恋なのに」
「ああ、私も、もう一目、あの、気高い、美しいお顔が見たい」
 そう言って二人は互いの身体を強く抱きしめ合った。
「口惜しい……せめて一時、隙があれば、夜叉ヶ池のお雪様、遠い猪苗代の妹分に、手伝いを頼めるものを」
「私は覚悟をしました。姫君、私を……」
「私はあなたに未練がある。いいえ、助けたい未練がある」
「躊躇していると、討手の奴ら、人間どもに屠られます。あなたが手にかけて下さらなければ、私は自分の手で」
 そう言うと図書は刀に手をかけるが、夫人が押し留める。
「切腹はいけません。私があなたの舌を噛み切って介錯して差し上げますので、あなたはそれで私の胸を一思いに……」
 そう言いかけて、夫人は口をつぐみ、しばらく黙った後、冷静さを取り戻した声でこう言った。
「図書様。あなたの命を私にくださいますか?」
「もちろん、それが本望です」
「あなたと私の命は、文字通りひとつとなり、あなたは人として往生することはかなわなくなります。それでも構いませんか?」
「……はい、あなたと共に、地獄の果てまで行きたく存じます」
「ありがとう。私もあなたと共に生き続けます」
 そう言うと、ふたたび夫人は図書の身体を強く抱きしめた。

 天守の下の廓には、播磨守をはじめとする多くの武士どもが集まり、天守の中での捕物の推移を見守っていた。播磨守は陣羽織を着け陣笠を被り、その家来らは槍や弓矢、鉄砲を手にして控えている。城の東の空には血のように赤い望月が浮かんでいる。
 とその時、刹那の稲妻が天守の棟を撃った。屋根瓦と漆喰の壁が吹き飛び、五層の壁にはぽっかりと穴が開いた。そしてその土煙の中から現れたのは、目が燦々と輝き、牙を剥き出しにした巨大な獅子の姿であった。
 獅子は天守の上からゆっくりと眼下を眺めるような仕草をした後、疾風のような速さで天守の上から駆け下りてきた。次の瞬間、呆然と立ちつくしたままの播磨守の首にかぶりついた。そして獅子は頭を振りかぶると、首を食いちぎられた播磨守の身体が宙に放り投げられ、天守の石垣に叩きつけられた。
 周囲の家来らが驚きおののいて立ちつくしているところに、獅子はその前脚を横ざまに振り払った。たちまち五人の武士が絡み取られ、そのままものすごい力で跳ね飛ばされた。彼らは漆喰の塀に叩きつけられ、元の人の形がわからないほどの肉の破片と化した。
 他の家来らは、ある者は逃げようとし、ある者は立ち向かおうとした。獅子は巨大な口を開け、そこから火の息を噴き出した。武士らはみな炎に包まれ、生きたままその身を焼かれた。さらに火は周囲の櫓にも燃え広がり、周囲は赤く炎に照らされた。
 獅子が二の丸に躍り出ると、弓矢と鉄砲を携えた武士らが現れて、しきりに射かけた。
「目だ!目を狙え!」
 矢と弾のいくつかは獅子の目に当たったが、獅子は意に介する様子もなく、次々と武士らに襲いかかっては、その牙で食らいつき、前脚でなぎ払い、火の息を吹きかけていき、そのうちに立ち向かうものは一人もいなくなった。獅子は目ではなく、人間の臭いを感じ取って、獲物を次々と捉えていった。逃げ惑う武士らや城に仕える女らは、次々と獅子によって屠られていった。
 城のほとんどが火に包まれると、獅子は城下に躍り出て火の息をあたりかまわず吐き出した。火は瞬く間に城下の家屋に広がり、人々はみな通りに出て逃げ惑ったが、そこに獅子が襲いかかり、次々とむさぼり食われていった。男、女、老人、子供に関わらず、城下に住む者のうちの半数は、獅子に食われるか炎によって焼き殺された。生き残った者も多くがひどい怪我や火傷に苦しめられ、死んでいった者を羨むほどの惨状であった。
 獅子は城下をあらかた焼き尽くすと、南の浜に向かっていった。そしてそのまま海の中にゆっくりと入っていった。海の水は沸き立って真っ赤になり、獅子はそのまま播磨灘の海中にその姿を消していった。
 ちょうどその頃、炎に包まれた城の五層の天守が、轟音を立てて崩れ落ちていった。その美しさから白鷺の城と称えられた播磨の城はこうして滅び、あとは血のように赤く染まった月が、ただ南の空に高く輝くだけであった。

【注釈】
・ 本作は泉鏡花によって書かれた戯作『天守物語』(1917年)を下敷きにしている。原作は1951年に新派の花柳章太郎(天守夫人)、水谷八重子(亀姫)らによって初演され、その後は歌舞伎でも演じられ、2009年に坂東玉三郎(天守夫人)、市川海老蔵(姫川図書乃助)らが演じたものが有名である。

・ 原作の『天守物語』は姫路城の刑部姫の伝説に基づいている。刑部姫は元は城のある姫山の地主神であり、天守に隠れ住み、年に一度だけ城主と会い、城の運命を告げていたと言う。現在も天守の最上階には刑部姫を祀った刑部大神の社が鎮座している。

・ 三人の女童が歌う唄は、原作では「とおりゃんせ」であるが、本作では「かごめかごめ」に変えている。これは、「鶴と亀がすべった」という歌詞と、鶴に化ける天守夫人と亀姫とにかけたものである。なお「夜明けの晩ってなあに」「後ろの正面ってなあに」という台詞は、KENSOのファーストアルバム『KENSO』(1980年)に所収されているインプロヴィゼーション曲「かごめ」のオマージュである。

・ 夜叉ヶ池のお雪は、泉鏡花の戯作『夜叉ヶ池』(1913年)からの引用である。福井県南条郡南越前町(旧今庄町)にある夜叉ヶ池の竜神伝説を題材にした物語で、竜神・白雪が登場する。

・ 天守夫人が「農家の軒にあった蓑を、歌も詠まずにお借りして」と言っているのは、太田道灌のエピソードを踏まえたものである。鷹狩りの折、雨に降られた道灌が蓑を借るべく民家に立ち寄ったところ、少女に山吹の花を手渡される。この意を汲めず、立腹し雨の中を帰ってしまった道灌であったが、その後近臣に、これは兼明親王の有名な和歌「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」を踏まえたものであることを指摘された。「実のひとつだになき」は「蓑ひとつだになき」、つまり貸すことのできる蓑すらないということを意味していたことが分かり、道灌はおのれの浅学を恥じたという。後に歌人としても才能を発揮する道灌の、若き日のエピソードである。

・ 猪苗代城の亀姫は、姫路城の刑部姫と並び称される、城に住む妖怪の伝説からとったもので、江戸時代中期の奇談集『老媼茶話』の三巻「猪苗代の城化物」にその記述が見られる。

・ 朱の盤は、赤い顔をした山伏の容姿を持つ妖怪で、恐ろしい顔を見せて人を驚かせ、またこの妖怪に会うと魂を抜かれるとされる。水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』では妖怪の首領ぬらりひょんの手下として描かれている。

・ 舌長姥は、舌が長く、人間の肉を舐めとるとされる老婆の姿をした妖怪である。宿を乞うた旅人を襲い、白骨になるまで肉を舐め取ったという。

・ 木村長門守は、豊臣秀頼の家臣である木村重成のこと。高潔な人物として知られ、そのエピソードは講談の演目『難波戦記』「木村長門守堪忍袋」に描かれている。大坂夏の陣の八尾・若江の戦いで戦死したが、討ち取られた重成の首は、月代を剃って髪が整えられ、伽羅の香りが漂っていた。それを見た家康が、その死地に臨む武将としての嗜みの深さを誉めたとされる。天守夫人が「伽羅の香りもいたしません」と言っているのは、この木村長門守のエピソードを踏まえたものである。

・ 天守の最上階のことを天守夫人は「五層」と呼んでいるが、姫路城の天守の場合、階数で言うと実際には6階になる。これは四層と五層の間に屋根裏が1階分あるためで、望楼型天守と呼ばれる古い天守の構造を残したものである(石垣の中の地下1階を足すと、最上階は7階になる)。古い天守にはこのように外見の屋根の数(層数)と内部の階数が一致しないもの(層階不一致)が多いが、このことを踏まえて天守夫人は最上階のことを「五層」と呼んでいるのである。

・ 本作で『天守物語』の原作と大きく変更したのは結末の部分である。原作では、獅子頭を彫った近江之丞桃六なる者がどこからともなく現れ、獅子頭の目を彫り直すことで夫人と図書の目を見えるようにする。そして「世は戦でも、胡蝶が舞う、撫子も桔梗も咲くぞ。馬鹿めが」と言う桃六の笑い声とともに舞台は幕を閉じる。このように前後の脈絡なく現れて、絶対的な力で問題を解決してしまう存在は「デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)」と呼ばれ、ギリシャ悲劇で多用された演出技法である。しかし筆者はこの結末が気に入らなかったので、より破滅的な結末を用意することにした。

・ 天守夫人と図書が変化した獅子が、城の武士だけでなく、罪のない城下の庶民までむさぼり食うのは不条理に思われるかもしれない。しかし愚かな権力者の巻き添えになって、多くの無辜の民が殺されるというのは、昔も今も変わらない世の常である。

・ 獅子が最後に海に還っていくのは、エマーソン・レイク&パーマーの組曲「タルカス」(1971年)に登場する怪獣タルカスが、地上のすべてを破壊しつくし、最後は海に還っていく(アクアタルカス)ことのオマージュである。そして国宝にしてユネスコ世界遺産の姫路城が崩れ去るというのは、この物語を構想した時から念頭にあったカタストロフィーでありカタルシスである。




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