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エーリッヒ・ツァンの音楽(18歳以上向け)

 私は地図を何枚も広げて、入念に探してみたが、オーゼイユ街という町名は見つからなかった。町名はその後改められたと聞いていたので、わざわざ古い地図を集めてみたのだが、それに似た地名さえ見つからなかった。またその街のことを知っている人も、ひとりたりとも見つけることができなかった。
 しかしそこは確かに、私がかつて住んだことのある街であった。当時の私は画家を目指す学生としてこの国に留学し、専門学校で絵を学びながら、ここでしばらく貧乏生活を送っていたのであった。そしてその時に、あの不思議なエーリッヒ・ツァンの音楽を聴いたのであった。
 ただその頃の私はメンタル・ヘルスに相当な不調をきたしており、記憶もややあいまいになっているところがあった。しかしそれにしても、ひと月ほどを過ごした場所をまったく見つけることができないというのは信じられないことである。
 その街にたどり着いた頃の私は蓄えをほとんど取り崩しており、それまで住んでいた下宿の家賃も払えなくなったので、貧民街のドミトリーのようなところを転々としていた。そしてたまたま、学校から歩いて30分ほどのところにこの古風な街並みの一角を見つけたのであった。そして急坂を登り、中世の頃に築かれた城壁に突き当たる道の奥から三軒目の家に、部屋を賃貸に出していることを示す貼り紙があるのを見つけた。見ると私でも払えそうな額だったので、その場で管理人に直接話して、五階建てのその建物の五階の部屋をその日から借りることができた。家財道具などまったく持っておらず、荷物といえばスーツケースひとつに収まる服と数冊のスケッチブックくらいだったので、引っ越しもあっという間に済ませることができた。
 新しい下宿先のこの建物はオーゼイユ街でも最も高いところに建っていたので、私の部屋からは街中を見渡すことができた。建物は古く、部屋も狭かったが、家賃から考えても申し分ないところであった。
 
 引っ越したその晩、私の部屋の上から音楽が流れてくるのが聞こえた。それは奇妙な旋律の、これまで聞いたことのないタイプの音楽であった。
 翌朝、管理人の老人に尋ねたところ、私の部屋の上は屋根裏部屋になっていて、そこにドイツ人のヴィオール弾きが住んでいるのだという。風変わりな老人で、言葉を話すことができないが、こちらの話すことは理解しているのだという。そして名前をエーリッヒ・ツァンというのだという。
 その日の夕方、その老人が階段から降りてくるところとすれ違った。私が挨拶をすると、彼は黙ったまま軽く会釈をし、ヴィオールのケースを手に階下に降りていった。管理人の老人によると、彼は夜になると場末の劇場でヴィオールを弾き、小屋がはねて、夜遅く帰ってきてから、屋根裏の自室でしばらく自分のためだけにヴィオールを弾くのだという。
 その日の晩も、夜遅くなってから老人の弾く弦楽器の音が聞こえてきた。恥ずかしながら私は音楽の素養はほとんどないのであるが、それは私がこれまで聞いたことのないものであり、おそらく老人自身が作曲したものに相違なかった。私の知っている範囲で言うならば、それはフーガのような、同一のモチーフを何度も繰り返しながら変奏していくような形式のものであった。
 そして何よりその音楽が不思議なのは、聴いているうちに戦慄のような、鳥肌が立つような感覚に襲われることであった。旋律はやや不気味で、魅惑的や官能的とは言い難いものであったが、なぜかこちらの五感をくすぐられるものであった。
 それから私は毎晩、エーリッヒ・ツァンが奏でるヴィオールの音色を聴いていた。私も夜型の生活なのでその音で眠りを妨げられるということもなく、むしろ毎晩それを聴くことを楽しみに思うようになってきた。それと同時に、この老人と親しくなり、もっと色々なことを聞いてみたいと思うようになった。
 引っ越して一週間ほどした日の夜、ついに私は意を決して、勤めから帰ってきたところのエーリッヒ・ツァンをつかまえ、ぜひ彼の部屋で演奏を聴かせてほしいと頼み込んだ。
 あらためて見ると彼は小柄で痩せた老人で、頭は禿げあがっており、腰は曲がっていた。服装もみすぼらしく、とてもあの不思議な音楽を奏でる音楽家には見えなかった。
 突然私が話しかけたので、彼は驚いた顔をした後、明らかに困惑した表情を示した。私が頼み込んでも、最初はただ首を横に振るだけであったが、私が何度も懇願するので、根負けしたのか「ついて来い」というニュアンスのジェスチャーをして、階段を登り始めた。
 屋根裏の彼の部屋に入ると、彼は私に椅子に座るように勧めた。部屋は広いががらんとしており、ベッドがひとつ、机がひとつあるくらいで家具や調度の類はほとんどなく、楽譜は床に積まれていた。私が椅子に座ると、彼は入口のドアを閉め、ご丁寧に大きなかんぬきまで差した。その後、おそらくいつも彼が座っているであろう椅子に腰かけ、ヴィオールのケースから楽器を取り出し、弦の調整を始めた。彼は譜面台を使わなかった。
 そうして彼が弾き始めたのは、バロック時代の弦楽器の曲であった。私には曲名はわからなかったが、いくつかの曲はJ・S ・バッハ作曲の聞いたことのある旋律であった。30分ほど連続して引き続けた後、彼は弓を置いたので、私は拍手をした。
 演奏はとても素晴らしいものであったが、いつも夜中に彼が弾いているあの不思議な音楽ではなかったので、私は少しがっかりもした。そこで今一度、彼が夜中に弾いているあの音楽を演奏してもらえないか尋ねた。
 すると彼は驚いた顔を見せると、明らかに拒絶の意思を示したジェスチャーをした。私は老人にありがちな気難しい素振りなのだろうと軽く考え、すっかり空んじることができるようになったあの不思議な音楽のモチーフを鼻歌で口ずさんだ。
 すると彼は椅子から立ち上がり、怒りのような形相で私につかみかかると、その口を手でふさいで、私の鼻歌を止めさせた。私もまさかこの老人がこんなにも激しい反応をするとは思ってもいなかったので、すっかり身がすくんでしまった。そして彼の身体もガタガタと震えており、窓の方をしきりに気にしてキョロキョロと視線を泳がせていた。窓にはしっかりとカーテンがかけられて閉ざされていたが、まるで誰かに覗き見されたのを恐れているような様子であった。
 私は我に返り、口を押さえる彼の手を払いのけようとすると、その手は力なくあっさりと解けた。そのはずみで彼は床に倒れ込んだので、あわてて私も手を貸して彼を起こし上げると、彼も冷静さを取り戻しており、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
 起き上がった彼は何度も頭を下げて非礼を詫びると、紙を手に取り、そこにペンで何かを書き付け始めた。それはつたないフランス語であったが、そこには先ほどの無作法を詫びる言葉とともに、あの不思議な音楽を演奏することだけは容赦してほしいということが書かれていた。そしてあの音楽は自分のためだけに弾いていたので、まさか他の人に聞かれているとは思ってもいなかった。もし差し支えなければ、あの音楽が聞こえないもう少し下の部屋に移ってもらえないだろうか。その分の家賃の差額は喜んでお支払いする。そして自分のような偏屈で寂しい老人にとって、あなたのような若い人と触れ合えるのはとても嬉しいことなので、また時々、部屋を訪ねて演奏を聴いてくれないか。そういうようなことが書かれていた。
 私はその書き付けを読んで、先程のことがあったにもかかわらず、この老人に同情する気持ちが湧き起こってきた。私は彼に向かって微笑み、気にしていないことを伝えるとともに、彼の手をしっかりと握った。そして私自身にとってもなけなしではあったが、せめてもの気持ちとして10ユーロの紙幣を取り出して謝礼として彼に手渡した。
 
 翌日、私は管理人の老人に言って、三階の部屋に移ることとなった。その部屋は以前の部屋より倍ほど広かったが、家賃の差額はたしかにエーリッヒ・ツァンが支払うということになった。四階にはもともと入居者がいなかったので、これで五階、四階は誰もいないという状況になった。
 彼は私と親しくなりたいと言っていたが、じきにそれは私を五階の部屋から下に移すための方便だったのではないかと思うようになった。その後、彼と階段ですれ違っても、部屋に誘われることもなくよそよそしい態度を示すだけであった。それから夜にニ、三度ほど彼の部屋を訪ね、演奏を聴かせてもらったことがあったが、歓迎という雰囲気からはほど遠く、終始気乗りしない雰囲気であった。
 とはいえ私の方は、彼の不思議な音楽への興味がおとろえることはなく、かえってますます好奇心が湧いてきたのであった。三階の部屋では夜のあの演奏はほとんど聞こえないので、こっそりと階段を登り、踊り場に身を潜めて聴くこともあった。一度は彼の部屋を覗いてみようと思ったが、ご丁寧に鍵穴まで内側から何かでふさいであったので、中の様子をうかがうことはできなかった。
 しかしある日、私は以前の自室であった五階の部屋が、施錠されていないままになっていることに気が付いた。それ以来、夜遅く彼が帰宅し、ひとりヴィオールを弾き始める頃を見計らって、五階の部屋に忍び込み、ひそかにエーリッヒ・ツァンの音楽を聴くことが日課となっていた。
 それにしても一体どうやったら、あれほど不思議な音楽を奏でることができるのだろう。ヴィオールの音は本来であれば美しく繊細なものであるが、これがエーリッヒ・ツァンの手にかかると、何とも禍々しいものになるのだ。そして確かに演奏者は一人であるにもかかわらず、オーケストラのような重厚さをもって迫ってくるものを感じるのである。
 加えて、その音楽は日々、その熱量が高まってくるように感じられた。狂おしいほどにねじれたその旋律は、私を凍り付かせると同時に、私の中に抑えられないような衝動を引き起こすものとなっていった。

 その夜も私は五階の部屋に潜んでエーリッヒ・ツァンの音楽を聴いていた。同じモチーフが何度も繰り返され、それが変奏を重ね、またヴァイオリンではあまり使われない和音を用いた奏法を駆使することによって、音楽は厚みを増し、波のように私の身体に伝わってきた。
 私は戦慄を覚えるとともに、身体の芯が熱くなってくるのを感じていた。それは身悶えするような衝動となり、思わず私は自分の手を下腹部に伸ばした。そしてジーンズの上から手を当てると、ビクンと衝撃が走り、思わず「あっ」と吐息が漏れた。
 ジーンズの前のボタンを外し、下着に触れてみると、下着に染みが浮き出てくるくらい、そこは湿潤な状態となっていた。さらに手を下着の中に差し入れ、指で割れ目をなぞると、トロトロになった液体が今にもそこから溢れ出しそうになっていた。そのまま割れ目にそって指を上の方に移していくと、指の腹が敏感なところに触れて、またビクンとした衝撃が走り、また「あっ」と吐息が漏れた。
 私は我慢できずに、床に座ったそのままの状態でジーンズと下着を膝のところまでずり下ろした。尻が冷たい床に触れたが、そんなことはお構いなしだった。私は両手を股の間にはさみ、右手の中指を割れ目に押し当て、左手の手のひらを右手の上に重ねた。そして指を秘部の入口に少しだけ差し入れ、繰り返し奏でられるモチーフのリズムに合わせてそれを動かすと、そこは湿り気を含んだ音を立てた。
 長らくこんな気分になったことはなかった。私は心を病み始めた時以降、セックスをしていなかった。それはひとつにはセックスを通して他人と関わるのが面倒であったというのがあったが、もうひとつは性欲そのものを感じなくなっていたというのもあった。だから自慰をすることもしばらくはなかった。それだけに今、こうした気分になったのは不思議であった。しかも老人が奏でる音楽によってこのような劣情を起こしたことに対して、背徳的な気分にもとらわれた。
 エーリッヒ・ツァンの音楽はさらに昂ぶりをみせてきた。私は中指を秘部の中にさらに差し入れ、指の腹がざらざらとした敏感な箇所に触れた。モチーフが繰り返し奏でられるのに合わせ、快楽の波も何度も繰り返し込み上げてきた。そして音楽が頂点に達した時、私も絶頂に至り、「ああっ……」と声が漏れてしまった。秘部がヒクヒクと痙攣し、その締め付けてくる感触が自分の右手の中指に伝わってきた。
 音楽は止んだが、私の中にはまだ興奮の波の余韻が残っていたので、両手を股の間にはさんだまま、くったりして冷たい床の上に仰向けに横たわっていた。そして自分にまだこのような淫らな欲望が秘められていたことに、驚きを禁じ得ず、呆然としていた。
 
 その夜以降、私はエーリッヒ・ツァンの音楽を聴きながら自慰をするようになった。背徳感と罪悪感を抱きつつも、その麻薬的な快楽に魅せられてしまったのである。
 そして彼の音楽もますます激情の度を高めていったが、それに反比例するように、彼自身は次第に憔悴した様子となり、ますます痩せこけていった。そして私と階段ですれ違っても、彼は顔を背けて通り過ぎる始末であった。
 そしてある夜のこと。いつものように私は五階の部屋に身を潜めて彼の音楽を聴き始めると、それはこれまでにないくらい激しいものとなった。あまりにもただならぬ雰囲気だったので、私は自慰をすることなく、耳を側立ててそれを聴いていた。
 すると突然、屋根裏の部屋から悲鳴とも奇声とも言えぬ声が響き渡り、ヴィオールの演奏が中断された。私は急いで階段を駆け上がり、入口のドアを激しく叩いた。しかし中からの返事はなかった。いつものように鍵穴は塞がれ、ドアにはかんぬきがかけられているようなので、開けることも中をうかがうこともできなかった。
 しばらくドアを叩き続け、自分の名前を告げながら、「大丈夫ですか?何があったのですか?」と呼びかけ続けた。
 しばらくすると中で人が動く気配がした。そしてかんぬきを外す音が聞こえ、さらに鍵が外されてドアがゆっくりと開いた。怯えた様子で顔をのぞかせたのは他ならぬエーリッヒ・ツァンであった。
 彼は私の顔を見ると安堵した表情となり、私を部屋に招き入れた。そしてこれまで見せたこともないようなうれしそうな顔で、私の腕をぎゅっと握った。それはまるで母親のすねにすがる子供のような表情だった。
 私は勧められるままに椅子に座った。見ると床には楽譜が散乱し、ヴィオールと弓が放り出されたように転がっていた。彼はしばらく部屋の中をキョロキョロしながらうろつき、落ち着きのない様子であった。とりわけカーテンで閉ざされた窓の様子をしきりに気にしているようであり、何か物音が聞こえてこないか耳をそばだてているようでもあったが、やがて何も変わった様子がないことに安心して、机に腰掛け、紙切れに何かを書き付けると私にそれを手渡した。
 そこにはたどたどしいフランス語の走り書きがあり、それによると、私はたった今、おそろしい怪異に見舞われたので、その一部始終をこれからドイツ語で書き留めておきたい。書き終わるまでしばらく待ってくれないか、とのことであった。私も好奇心にかられたのでうなずくと、彼はものすごい速さで、鉛筆で紙に何かを書き付け始めた。
 それから一時間ほどたっただろうか。机の上には書き付けられた何枚もの紙が積み重なっていったが、ふいに彼は鉛筆を止め、明らかに狼狽した表情となり、視線を窓の方に向けた。私もたしかに窓の方からかすかな音が聞こえるのを感じた。
 それは美しい音楽だった。エーリッヒ・ツァンが奏でる音楽とは異なる、官能的で甘美なものであった。しかし明らかに彼はその音楽におびえている様子であった。
 そして彼は椅子から立ち上がると、床に転がっていたヴィオールと弓を拾い、演奏を始めた。それは私がいつも密かに聴いている、あの戦慄すべき音楽であった。
 彼はいつも以上に激しくその音楽を奏でた。一方で窓の外から聞こえてくる音楽は徐々にこちらに迫ってくるように大きくなってきた。
 そしてエーリッヒ・ツァンの音楽と外から来る音楽は、まるで競い合うかのように絡みあっていった。どちらもまったく異なる曲調であり、お互い混ざり合うことはないものの、それが不思議な協奏曲のようにも聴こえた。そしてどちらもさらに激情の度を高めていった。
 音の混沌の渦に巻き込まれて、私は幻惑されたように茫然としていた。それはあたかも、セックスを終えてまどろんでいる時に、頭の中で好き勝手なイメージが浮かんでは消えていくような、そんな感覚に近かった。その時の私の頭では、半獣人とニンフが現れて踊り狂ったり、乱交したりしているような、でたらめなイメージがぐるぐると回っていた。
 そしてその時、外から来た音楽は突如として耳をつんざくような音を発したかと思うと、まるであらゆる美や尊厳を嘲笑するような、冒涜的なものへと変化した。そして何かが窓を叩きつけられたのかと思うと、窓枠が内側に向かって開き、カーテンをはためかせ、すさまじい突風が部屋の中に吹き込んできた。
 その突風はエーリッヒ・ツァンが書き付けた何枚もの紙を舞い上げ、瞬く間に窓の外へと吹き飛ばしていった。私はあわててそれを拾おうとしたが無駄だった。
 次の瞬間、電灯が割れる音が聞こえ、部屋の中は真っ暗になってしまった。私は窓の外を見た。今日は満月の夜なので、月の光が街の明かりとともに部屋の中を照らしてくれるのではないかと思った。
 しかし窓の外に広がっていたのは、私が慣れ親しんだ街の風景とは似ても似つかぬものだった。それはプラネタリウムで見たような、無数の星が輝いている光景だった。向かいの建物などはまったく見ることができず、まるで窓の外に深淵な宇宙が広がっているかのようだった。
 こんな異常な事態にも関わらず、エーリッヒ・ツァンはヴィオールを弾き続け、窓の外から来る音楽との狂った競演を続けていた。私は一刻も早くこの部屋から逃げた方が良いと思い、暗闇の中、彼の奏でる音を手がかりにして彼の身体を捕まえた。そして演奏を止めさせ、腕を引いて部屋の入口へ向かおうとした。
 ところが彼のどこにこんな力があったのかと思うくらい、私が腕に取りすがっても、彼は弓を動かすのを止めなかった。そのため私は振り払われたように身体のバランスを崩した。
 私は体勢を立て直すと、もう一度、彼の身体にしがみついたが、少しも動かすことができなかった。彼の身体は氷のように冷たくなっていた。そして彼の顔を覗き込んだとき、そこにあったのは恐怖と狂気にかられたような、大きく目を見開いたエーリッヒ・ツァンの表情だった。
 そのあとどのようにして私はその部屋から逃げ出せたのか、記憶がはっきりしない。ただ、階段を駆け降りる時にも、彼の叫ぶようなヴィオールの音だけは耳に入り続けていた。
 気が付いた時、私は賑やかな通りの雑踏の中にいた。私の学校の近くであったので、おそらく10分か15分は走り続けていたのだろう。息切れがして胸が苦しく、ふくらはぎの筋肉も痙攣していたが、ようやく私は安心することができた。周囲を見ると、天気が荒れた様子などはまるでなく、周囲は街の灯りに包まれており、夜空には満月が明るく輝いていた。

 今、あらためて念入りに探したが、地図の上にオーゼイユ街の名を見つけることはできなかった。エーリッヒ・ツァンのことを知る人も、やはり見つけることはできなかった。そして彼が書き付けた紙の束も、おそらく永遠に見つかることはないだろう。しかし、その方が良いのかもしれない。あの不思議な体験は、精神を病んだひとりの画家志望の学生の妄想に留めておくのが、きっと良いのだろう。

【注釈】

・ 本作品は、H・P・ラブクラフト(1890-1937)が1921年に執筆した短編「エーリッヒ・ツァンの音楽(The Music of Erich Zann)」を下敷きとしている。主人公の設定を変えたこと以外は、ほぼ原作のプロットを踏襲している。

・ 原作の舞台は、おそらくラブクラフトはフランスのパリを想定していると推測されるので、本作もそれにならった。なお時代設定は現代に移した。

・ ヴィオールは、バロック時代に使われた弦楽器で、ヴァイオリンに似ているが、弦が6本あり、フレットが付いている。和音も弾き易くなっている。ヴィオールはフランス語での呼び名で、ヴィオラ・ダ・ガンバが一般的な名称である。

・ 主人公の「私」が女性であり、エーリッヒ・ツァンの音楽を聴いて自慰にひたるというのは、本作のオリジナルの改変部分である。原作者のラブクラフトは性的なものを忌避していたので、作品の中で性的な描写が出てくることはほとんどない。

・ 主人公とエーリッヒ・ツァンが襲われた怪異の正体は、原作の中では明記されていない。しかし『クトゥルフ神話』の文脈では、これは外なる神トルネンブラの仕業であると理解されている。トルネンブラは、宇宙の中心に鎮座する白痴にして盲目の絶対神・アザトースの宮廷音楽家とされる神であり、アザトースの周りで四六時中、音楽を奏でている名もなき不定形な神たちの指揮者であるとされる。ただしトルネンブラ自身には形がなく、「生きた音楽」とも形容される。彼は常に新しい音楽やその演奏者を求めて全宇宙を巡回しており、彼のお眼鏡にかなった者は、彼によって強制的にアザトースの宮廷に連れ去られる。名もなき不定形な演奏者の神々は、そうして連れ去られた者たちのなれの果てなのかもしれない。

・ オーゼイユ街が消滅し、そのことを主人公以外の誰も記憶していないのは、おそらくトルネンブラがエーリッヒ・ツァンを連れ去る際、オーゼイユ街ごとこの宇宙から削り取り、初めから「なかったこと」にしてしまったためだと思われる。なぜ主人公だけがそこから逃げ出すことができ、その怪異の記憶を残しているのかは分からない。おそらくトルネンブラが主人公ひとりだけを取り逃すとは考えられず、意図的に見逃したのだろうと推測されるが、その理由は不明である。おそらく単に「そうした方が面白そうだから」という、彼の気まぐれによるのだろう。

・ トルネンブラは邪悪な神のように見えるかもしれないが、彼の楽団がアザトースの周りで音楽を奏で続けているのは、アザトースが眠りから醒めないようにするためである。「アザトースが覚醒した時、全宇宙は破壊される」、あるいは「この宇宙はアザトースの夢であり、彼が目覚めた時に宇宙は消滅する」という言い伝えもあるので、もしそうならば、トルネンブラは宇宙の平和を守る役割を果たしていると言えなくもない。

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