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「インスマスの影」(18歳以上向け)

 蔭洲升という土地に私が目を向けるきっかけとなったのは、卒業論文のテーマに関連した文献を図書館で収集している時に、一冊の写真集に触れたことであった。
 私は東京の大学で建築学を専攻しており、卒業論文のテーマとして日本の古民家と歴史的街並みを選ぶこととした。当初は沖縄の八重山地方の、例えば竹富島の景観などに関心を寄せていたが、次第に奄美群島の伝統的な村落景観に焦点を絞ることとした。ひとつには先行研究の多い沖縄よりも、奄美群島の方が研究の余地が残されているのではないかという目論見もあったが、もうひとつには私の母方の実家が大島であったというのも理由であった。もっとも、私はそれまで大島を訪ねたことは一度もなかった。
 というのも私の両親は、私が物心つくかつかないかの頃に、自宅の火災のために死亡したからであった。幼かった私は、母の手によって助け出されたが、母は取り残された父を救うために再び家の中に戻り、そのまま二人は助からなかったのだという。幼い私は山梨にある父の実家に引き取られて養育された。幸い祖父母の家は経済的にも裕福であり、祖父母の愛情を一身に受けて育った私は、さして苦労もせず地元の高校を卒業し、東京に下宿してこうして大学に通うこともできた。
 奄美群島には高倉と呼ばれる独特の形式の倉庫建築や、伝統的なノロ祭祀に用いられるアシャゲやトネヤと呼ばれる建築があり、さらには建築以外にも重要無形民俗文化財に指定されている「平瀬マンカイ」や「諸鈍シバヤ」といった民俗的な儀礼や祭祀が残されており、研究のテーマとしては魅力的であった。それらに関連した参考文献を調べているうちに、くだんの写真集に行きついたのである。
 その写真集は、奄美群島が本土に復帰した直後の1950年代後半から60年代はじめにかけて撮影された写真で構成されており、今では残っていない建築や街並みが写されているという意味で歴史資料としても貴重なものであった。しかしとりわけ私の目を引いたのは、ある一枚の写真であった。
 それは漁村の風景で、砂浜の海岸に数隻のイタツケと呼ばれる小型の木造漁船が引き上げられており、その前で数人の漁師たちが網の修繕作業をしている様子が写されていた。そのうちの一人はこちら、すなわちカメラの方を向いており、写真のピントはその男の顔に合わせられていたのだが、それを見て私は一瞬、背筋に寒気を感じた。
 その男は、こちらに目を見開いた表情を向けているが、その目は異様なほどに盛り上がっているように見えた。しかも目と目の間が不自然なほどに離れていた。そして半開きになった口からは白く並んだ歯がのぞいていた。どことなく魚を思わせるようなその顔貌に、生理的な恐怖感を覚えたのは正直な気持ちであったが、あるいはそれは何らかの奇形か病気によるものであったかもしれないと思うと、少し罪悪感のようなものも覚えた。
 写真のキャプションには「蔭洲升の漁師たち。昭和36年」とだけ書かれており、他には何の情報もなかった。しかし私にとってはその「蔭洲升」という言葉が、昔の記憶を呼び起こした。
 蔭洲升は、私の母の故郷の名であった。

 私は亡くなった母のことをほとんど知らなかったが、それは祖父母が母のことを語るのを避けていたようだったからだ。詳しいことはわからないが、祖父母は父が母と結婚するのにもともと反対だったようで、そのため祖父母の家では母の話題を出すのは忌避されていたようであった。私も成長してから、奄美の出身者が内地で差別されてきた歴史があったことを知ったが、祖父母は普段の言動からそのような差別をする人間とは思えなかったので、何かしら個人的な事情があったのかもしれない。
 また家族の写真も、自宅の火事ですべて失われてしまったので、私は母の顔すら知らなかった。父の写真は祖父母の家に残されていたので、かろうじて面影を思い浮かべることができる。
 こうした事情もあって私は母のことはほとんど何も知らなかったのだが、あるとき祖父母が会話の中で、母の故郷が大島の「いんすます」という場所であるということを一度だけ口にしたことを、この時思い出したのである。「いんすます」という言葉を聞いた時、どのような漢字をあてるのか想像もつかなかったのであるが、写真のキャプションの「蔭洲升」という表記を見たとき、ようやく記憶がつながったのであった。

 大学の四年生になり、必修の単位は三年生のうちにすべて履修していて、あとは卒論指導といくつかの演習を受ければ良いだけになったので、私は卒論の調査として大島を訪れることにした。空港に降り立ち、バスで一時間ほどかけて名瀬の市街地に出て、安いビジネスホテルにチェックインした。それから一週間ほど、名瀬を拠点として、笠利や赤木名、宇検といった集落を巡って民家や街並みの調査をおこなった。そしてこの調査旅行の最後に、蔭洲升を訪れることにした。
 蔭洲升は大島の南の端にあるので、まずは名瀬からバスで一時間半ほどかけて南部の古仁屋に行き、そこで宿泊することにした。蔭洲升に行くには古仁屋からバスに乗り、リアス式海岸沿いの道をさらに一時間ほどかけて行く道のりとなるが、蔭洲升行きのバスは朝と夕方の一日二往復しかないとのことであった。そこで翌日の朝の便に乗って蔭洲升に行き、夕方の便で古仁屋に帰ってくるという行程にすることにしたのだ。
 古仁屋の街に着いたのはまだ日の高い時刻であったので、私は郷土資料館に行ってみることにした。郷土資料館は町立の図書館の建物の二階にあり、受付で見学を希望する旨を伝えると、学芸員の中さんという方が出てきてくれて、ひととおり展示の解説をしてくれた。
「奄美の村落空間は伝統的なノロ祭祀と密接に結びついているのです」と中さんは説明してくれた。「奄美のコスモロジーでは、カミ(神)はオボツカグラと呼ばれる天界から、集落の裏手にあるカミヤマ(神山)に降臨し、カミミチ(神道)と呼ばれる道を通って村の中心にあるミャー(宮)と呼ばれる広場に入ります。ミャーにはアシャゲとトネヤという建物があり、そこでノロをはじめとする女性司祭たちによってカミをもてなす様々な儀礼がおこなわれます。祭祀の最後に、カミはミャーを出て海岸に向かい、沖合にある立神岩からオボツカグラに昇っていく、というのが基本的なパターンです。しかし場所によっては、立神岩ではなく、海の彼方にあるネリヤカナヤにカミが帰って行くと信じているところもあります」
「ネリヤカナヤは沖縄で言うニライカナイと同じですね。でも、天から来たカミが、最後は海の彼方に帰って行くというのも不思議な話ですね」
「オボツカグラが天にあるというのは、本土の宗教観、特に修験道の影響があるかもしれませんね。ただ、奄美の世界観から見ると、天から来て海に帰るのはそれほど不思議なことではないのです」
「なぜですか?」
「水平線を思い浮かべてください。空と海がつながっていますよね。島に住んでいる人間にとって、天と海が遠くでつながっているというのは自然な感覚だったのだと思います」
 私は中さんの解説に感銘を受けつつ、奄美の世界観への理解を深めていった。そしてさらに、母の郷里であり明日訪れる予定の蔭洲升のことについても質問してみた。
「蔭洲升は興味深いところですね。この地域の中でも独特の文化と風習を持っていると言われていますが、本格的に調査した民俗学者もこれまでいないので、まだまだわからないことが多いようです」
 中さんによると、蔭洲升は地理的に孤立しているので、古仁屋の住民ともほとんど交流がないとのことだった。戦前から昭和30年代くらいまでにかけては漁業の基地となり、そこそこ大きな集落として栄えたのであるが、昭和30年代の終わり頃に風土病が流行して人口が激減し、それ以来、集落は衰退の一途をたどったのだという。
「蔭洲升は祭祀にも特色があって、『陀金様』という神を祀る独特の儀礼があるのです」と中さんは少し声のトーンを落として言った。「在地のノロ祭祀に、修験道や仏教の弥勒菩薩の信仰が組み合わさってできたものとも言われているのですが、蔭洲升の海岸の沖合にある立神岩の海底に『陀金様』が住む世界があり、蔭洲升の住民は死後、その世界に帰って行く、という信仰に基づいた一連の祭祀があるといわれています。ただその儀礼は住民以外には禁忌とされているので、これまで調査されたことはなく、詳しいことは私にもわかりません」
「それは今でもおこなわれている祭祀なのですか?」
「それもよくわかりません。『陀金様』のいわれについても、旧約聖書に書かれているペリシテ人の神『ダゴン』から来たのではないかという珍説もあって、何年か前になんとかという雑誌の取材班が来たことがあったのですが、蔭洲升の住民の方々からの協力が得られなかったばかりか、ボートで立神岩に近付こうとしたところ転覆してしまい、命からがら逃げ帰ったということもありました」
 そう言ってから中さんは、私のことを事前に蔭洲升の区長さんに連絡してくれることとなり、いったん事務室に戻って電話をかけてくれた。そして明日の午前に、区長の泉さんが私のために時間をとってくれることとなった。
 私は中さんに丁寧に礼を言い、郷土資料館を後にした。
 その日は古仁屋の古いビジネスホテルに泊まり、翌朝、大きな荷物は部屋に置いたまま、バスのターミナルに向かった。バスが出る時間は午前9時であったが、余裕をもって半時間ほど前にターミナルに着くと、ちょうど蔭洲升からのバスが着いたところだった。バスは古いマイクロバスで、そこから三人の中年の男性が降りてきて、それぞれ市街地の方へ向って歩いていった。バスの運転手は50代後半くらいの、頭が禿げ上がった男性で、黒く日焼けした肌が乾燥してひび割れたようになっていた様子と、大きくぎょろっとした目が印象的であった。運転手はバスのエンジンを切ると、台車を取り出し、それを押しながらターミナル近くの農協のスーパーマーケットに入っていった。しばらくすると台車にいくつかの段ボール箱を積んで戻ってきて、その荷物をバスに手際よく詰め込んでいった。
 発射予定時刻の5分前になって、運転手はバスのエンジンを入れたので、私はバスに近づいて行って、運転手に「これは蔭洲升行きですか」と尋ねると、彼は無表情でうなずいて「720円」と運賃を告げた。お釣りなしの小銭で運賃を払い、バスの席に腰をかけて発車を待っていると、他にも三人の乗客が乗り込んできた。先ほど降りて行った人たちとは違うようであるが、似たような印象の人たちで、いずれも目がぎょろっとして無表情な顔立ちであった。写真集で見た漁師の姿を思い出したが、閉鎖的な集落であるため似たような顔立ちの人が多いのかもしれないと思った。
 バスは一時間ほどかけてゆっくりとリアス式海岸沿いの細い道を進み、10時前に蔭洲升の集落に到着した。集落は海岸沿いに広がっており、東側は山、西側は海となっていた。海岸には砂浜が広がり、初夏の太陽が紺碧の海面を照らしていた。少し沖に、たけのこのような形をした岩があり、それが中さんの言っていた立神岩なのであろう。そして海岸沿いはデイゴの並木道となっていた。
 バスが停まったあたりがちょうど集落の中心部のようで、海岸の道沿いに小さな商店と食堂があった。その反対側は広場となっており、広場に面してコンクリート造の公民館があった。この広場がおそらく集落の様々な行事がおこなわれるミャー(宮)であろう。私はまず、商店の前に設置された公衆電話から、中さんに教えてもらった区長さんの電話番号に電話をかけた。区長さんは10分ほど後に迎えに来てくれるとのことなので、しばらくバス停のベンチに座って待つこととした。
 集落にはほとんど人影がなく、バスに乗り合わせた三人の乗客もすでにそれぞれどこかに行ってしまったようである。しばらくぼうっとしていると、商店から一人の女性が出てきて、海岸沿いの道を横断し、そのまま集落の奥に向かう道を歩いて行く姿が目に入った。
 その女性は、大島紬の着物を着て、手には日傘を差していた。黒を基調とした着物の色と、白い日傘が対照的な印象であった。日傘のために顔ははっきりとはわからなかったが、色白で細面の顔立ちと、長い髪をひとつにくくった様子が目に入った。年齢は40代くらいであろうか。
 しばしその女性の歩く姿を目で追い、行方が見えなくなってからは漠然とその方向を眺めているうちに、私の目の前に一台の軽トラックが停車し、運転席の男性が私の名を呼んだ。
「南さんですね。遅くなりました、区長の泉義一です。こちらに乗ってください」
 区長の泉さんは六十歳くらいの恰幅の良い男性であった。私はその言葉に甘えて軽トラックの助手席に乗せてもらい、ニ、三分ほどの距離にある区長さんの家に連れて行ってもらった。
「実は私は、五年前に蔭洲升に戻ってきたUターン組なのですよ」と区長さんは話し始めた。「ご覧のとおり、ここは過疎化が進んでいて、私でもこの集落では若い方なんですよ」
 私は、ここが母の故郷であること、そしてここに来た経緯についてあらためて説明した。すると区長さんはこう答えた。
「実は私も高校からこのシマを出たので、南さんのご実家のことはあまり存じ上げていないのです。ただ、そこにお住まいだったご夫婦は十年ほど前に亡くなられたそうです。でも家の建物はまだ残っていますので、あとでご案内しますね」
 その後区長さんは、この集落のあらましについて説明してくれた。
「このシマは、かつては漁業の基地として栄えたそうなのですが、今から40年くらい前に人口が激減して、すっかり衰退してしまいました。若い人も、小学校と中学校は隣の集落の学校にバスで通うのですが、高校になると古仁屋の高校に通うか、あるいは名瀬や鹿児島の高校に出てしまうことになるので、そのままシマから出てしまう人も多いですね」
 私の母も、若くしてこの土地を離れた一人であったのかもしれないと思った。
「そういう訳で、今集落にいるのは年寄りばかりで、しかも無愛想に見える人ばかりですが、どうか気にしないでやってください。あと、大学の研究で集落の中を見て回りたいとのことですが、それは自由にやっていただいて大丈夫です。集落の人には事前にお知らせしていますので。ただ、海岸の北側に岩の平場があるのですが、そこは集落の聖地になっているので、近付かないように気を付けてください」
「聖地というと、『陀金様』の儀礼と関わるところなのですか?」
 私がそう尋ねると、区長さんは声を落としてこう言った。
「そのことは、あまりここでは口にしない方が良いと思います」
 やはり中さんの言ったとおり、この集落では陀金様のことはタブーのようであった。
 区長さんの家でひとしきり話を聞いた後、区長さんが私の実家まで案内してくれることになった。徒歩でニ、三分のところに、平屋建ての木造家屋があり、それが十年ほど前まで私の祖父母が住んでいた家だという。雨戸が閉じられ、中の様子をうかがうことはできそうになかった。
「ここが泉嘉郎さん夫婦の家です。今は親戚の方が管理していて、時々手入れをされているようですが、あいにく今日は名瀬の方へ出かけていらっしゃるようです」
 たしかに十年間空き家だったにしては、建物も庭もこぎれいに手入れされているように見えた。誰かがまだ住んでいると言われても不思議でないほどだった。
 その時、一人の女性が脇の道を通り、そのまま祖父母の家のさらに奥の、少し高台にある屋敷の方に向かっていくのが見えた。通りすぎる時、彼女と区長さんがたがいに会釈したので、私もあわせて会釈した。
 先ほどバス停のところで見た女性に違いなかった。
「今の女性は…?」
「ああ、彼女は泉君江さんといって、あちらの旧家にお住まいの方です。ここではみんな泉姓なので混乱されるかもしれませんが、必ずしもみな血のつながりがあるというわけではありません。ただあちらの旧家はこの蔭洲升でも草分けの家なので本家本元の泉家ということになります。泉嘉郎さんとも家が近いので、なにかご存知かもしれませんね」
 このあと区長さんは用事があるとのことなので、私は区長さんに礼を言って別れ、集落の中を歩いてみることにした。
 まずはバス停の方に戻り、ミャーと呼ばれる広場を見てみることにした。広場の片隅には、納屋のような建物と東屋のような建物があり、それぞれトネヤとアシャゲというノロ祭祀に用いられるものであった。またミャーからは集落の裏山に向けて一本の道が延びていたが、これはノロ祭祀でカミが降りてくるとされるカミミチであるのだろう。カミミチは集落の目抜き通りとは別で、場所によっては屋敷地の間の路地のように細くなっていたが、これもまたカミミチが日常の道路ではなく、祭祀のための道であることを示しているのだろう。
 私はそうした集落の景観をカメラで撮影し、またトネヤとアシャゲの建物をスケッチして過ごしているうちに、お昼時になって空腹を覚えたので、バス停の近くの食堂に入った。
 食堂にはすでに三人の客がおり、店員らしい老人が配膳をしているところであった。入ったところから厨房の中までも見通せたが、他に店員らしき姿は見えなかったので、この老人が一人で切り盛りしている様子であった。
 三人の客はいずれも中高年の男性で、談笑することもなく黙々と食を進めていた。私は店の壁に貼られた短冊に書かれたメニューをひと通り確かめ、手軽に出てきそうな「油そうめん」を注文した。
 油そうめんはこれまでの大島滞在中に何度か食べたことがあるが、シンプルな料理ながら少しずつレシピが異なっていて、店の個性が良く出ているように思った。なお油そうめんという名前の油っぽさに反して、油はそれほど使わず、出汁をきかせたあっさりしたものが多いようである。しばらく待って出てきたここの油そうめんは、煮干しを一緒に炒めたもので、そうめんに絡んだ出汁の味とあいまって、あっさりしつつも香ばしい風味で、あっという間に平らげてしまった。
 会計を済ませる時も、店主の老人は無表情のままであったが、これも区長さんの言ったようにここの住民の気質なのだろう。
 午後は、図書館で見た写真集に掲載されていた写真と同じ風景の場所を探して歩いたり、いくつかの場所で写真を撮ったりして、集落の中を歩き回った。写真集にあったような建物はあまり残っておらず、多くは60年代以降に建てられた比較的新しい建物のようであったが、集落の道路は昔のままのようなので、おおよそ集落のかつての景観と現在の景観を対照させることができた。
 おおよそ歩き回ったところで、もう一度、私の母の実家だという家を見てみることとした。家は雨戸で閉ざされており、中の様子をうかがうことはできなかったが、こっそり中を覗いてみたい誘惑にもかられた。
 そして少し建物に近付こうとしたところで、ふいに気配を感じたので私は立ち止った。誰かに見られているような気がしたので、あわてて周囲を見渡したが、誰もいないようである。何となく、家の中から誰かがこちらを見ているような気もしたのだが、ここは空き家とのことなのでさすがにそれも気のせいなのだろう。こっそり覗こうとした罪悪感がとがめたのだとこの時は思った。
 ここから引き上げようと思った時、ふと奥の高台にある屋敷が目に入り、そこの女性のことを思い出した。今思えば、私の亡くなった母と彼女の年齢は近いようなので、亡くなった母について何か知っているかもしれない。そうして彼女を訪ねてみようと思い立った。

 屋敷はこの集落でも古い建物のようであったが、屋根はトタンに置き換えられており、白く塗られたそれは太陽の光を反射して涼しげな印象であった。庭もきれいに手入れされており、日本庭園のような雰囲気もあったが、植えられた植物はソテツやアダンなど、いかにも南国といった感じであった。
 玄関のインターフォンを押し、しばらく待っていると中から反応があったので、私はこう告げた。
「突然、申し訳ありません。私は南史郎と申します。お隣に住んでいた泉嘉郎の孫にあたる者なのですが、もし私の母の泉詩織について何かご存知でしたら、少しお話を聞かせていただけませんでしょうか」
 するとインターフォン越しに女性の声で「しばらくお待ちください」との返答があり、すぐに玄関にやってきてくれて戸を開けてくれた。迎えてくれたのは、大島紬を着たあの女性であった。
「詩織さんの息子さんなのですね。なつかしいお名前をお聞きしました。遠慮なさらず上がってください」
 その女性、すなわち泉君江さんは、笑顔で私を出迎えてくれ、応接間に通してくれた。
 建物は和風であったが、応接間には絨毯が敷かれた上にソファーとテーブルが置かれており、内装も洋風になっていた。
「コーヒーか紅茶、どちらがお好みですか」と訊かれたので、紅茶をお願いすると、君江さんは台所で紅茶の用意をしてくれ、テーブルまで運んでくれた。紅茶はティーポットに入れられ、角砂糖の入ったガラスの器と、牛乳の入ったポットも用意してくれた。私は恐縮しながらも、ありがたく頂くこととした。
 君江さんに母のことを訊いてみると、小さい頃からよく知っているとのことで、話のニュアンスから、母よりも君江さんの方が年長であるようだった。亡くなった母がもし生きていれば45歳になるので、君江さんは50歳前後ということになるが、それよりは見た目は若く見えた。
「詩織ちゃんは小さい頃から賢くて好奇心の旺盛な子でした。高校は名瀬の学校に上がったので、シマから離れて寮に入ったのですが、シマにもよく帰ってきてご両親のお世話をしていました。そのあと内地の大学に進学し、すぐに結婚されたので、なかなかシマに帰ってくるのは難しかったようですが、元気そうな様子は嘉郎さんご夫婦から聞いていました。それが突然、亡くなったと聞いたときは、とても驚きました・・・」
 少し言葉に詰まった様子であったが、しばらくしてこう続けた。
「でも今日こうして、詩織ちゃんのお子さんの史郎さんに、お会いすることができてうれしいです。詩織ちゃんも、お子さんがこうしてシマに帰ってこられたのを喜んでいると思います」
 君江さんが少し顔を赤らめながら、うれしそうに語るのを聞いて、私も涙がこみあげてくるのを感じた。
「・・・そうでした、結婚されてから一度だけ、詩織ちゃんが旦那様と赤ちゃんを連れて、シマに帰ってきたことがあるのを思い出しました。あの時の赤ちゃんが史郎さんだったのですね・・・私たち、ずいぶん前に一度、お会いしているのですね」
 それを聞いて私は驚くとともに、胸が熱くなってくるものを感じた。もちろん記憶には残っていないが、この蔭洲升にかつて来たことがあるというのだ。そしてその時に君江さんにも一度会っているというのである。私の中に、目の前の女性がとても身近な存在であるという思いがふつふつとわいてきた。
 とその時、ふいに頭がくらっとする感覚に襲われた。座ったままの姿勢であったが、立ち眩みにあったような感覚であった。思えば、昼食を食べてからここに来るまで、水も飲まずにいたことを思い出した。初夏とはいえ昼間の日差しは強く、知らず知らずのうちに脱水状態になっていたのかもしれない。そして今、この涼しい部屋で紅茶を頂いたので、反動として身体が反応したのかもしれない。
 私は顔を洗ってすっきりしようと思った。そこで君江さんにお手洗いを借りたい旨を伝えると、彼女は立ち上がって案内しようとしてくれた。私も立ち上がり、そちらに行こうとしたところで、今度は本当に立ち眩みに襲われて、よろけてしまった。そこにすかさず君江さんが駆け寄り、私の身体を受け止めてくれた。
「大丈夫ですか・・・」心配そうに声をかけてくれる君江さんであったが、その表情は慈しむような雰囲気であった。私はすっかり狼狽し、「・・・すみません」と答えるのがやっとであった。
「少しお疲れになったのかもしれませんね。少し横になられますか」と言い、ソファーに横になるのに寄り添ってくれた。そしてコップに一杯の水を持ってきてくれたので、私はそれを飲み干すと、少し意識がすっきりした。そしてあらためて君江さんの顔を見ると、その顔はおたがいの息がかかるほどの近い距離にあった。そしてその透けるような白い肌と、切れ長で涼しげな眼を見ると、これまで出会ったどの女性よりも美しいと感じた。そして心臓の鼓動が高まるのを感じた。
「史郎さん。あなたが今日ここに来るのは、ずっと前から決まっていたことのように思います」
 ふいに君江さんが、これまでの話の流れとは違う雰囲気で話しかけてきた。
「ここ蔭洲升は、滅びゆくシマかもしれません。でもこのシマで生まれた者は、いつかこのシマに帰ってくるのだと私は信じています。だからあなたもこうして私のもとに帰ってきた・・・」
 そういうと君江さんは、そのまま顔を近づけ、自分の唇を私の唇に重ねた。そのまま手を私の首に回して抱き寄せた。私は抵抗することができなかった。いや、それを待ち望んでいたのかもしれない。私の鼻腔を、彼女の大島紬に焚き染められていた白檀の香りが突いたが、彼女の絡まる唇からは、かすかに魚のような臭いを感じた。
 そのまま彼女は私の首筋にかみつくようにむしゃぶりつき、私も夢心地のまま彼女の肩に腕を回した。しばらくそうしてたがいに相手の身体をむさぼった後、彼女はいったん身を離し、帯を解いて大島紬の袷を後手に脱ぎ、さらに襦袢の腰紐を解くと、今度は私のベルトに手をかけ、これを外すとともにズボンの前を開いた。すると下着の中で行き場を探して膨張している私の男性自身がその間から姿を見せたので、君江さんはそれに手を添え、そのままゆっくりと下着をめくって中身をあらわにした。私の男性自身の先端からは、透明な液体がこぼれ始めていたのを、彼女の指がそれをなで付け、そのまま屹立した私の竿をしごき始めた。
「・・・あっ、君江さん」私は思わず声を上げた。さらに次の瞬間、私の男性自身をさらに柔らかいものが包み込むのを感じた。彼女の唇と舌がねっとりとからみついてくる感覚をしばし味わっていた。
 いつしか、先ほどまでの眩暈もいつしか気にならなくなり、劣情の方が私自身を支配するようになった。私は起き上がって今度は彼女をソファーに横たわせ、それを組み伏せるようにして彼女の唇を奪い、強引に舌をその中に押し入れた。すると彼女もその舌を甘噛みしてきた。この時も、私はかすかに魚の臭いを感じるとともに、それを上回るような、甘い南国の果実のような、むせ返るような香りが私の鼻腔に広がった。
 そのまま彼女の襦袢の中に手を差し入れ、その乳房を揉んだ。小ぶりながら、柔らかい感触が私の手のひらに伝わってきた。
 私自身、異性との触れ合いはこれまで少なからず経験してきた。しかしいずれも相手は自分と年の近い、20歳前後の、いわば女というより少女に近い女性ばかりであった。そうした若い女性特有の、肌の張りと、少し突っ張ったような硬い肉の感触しか味わったことがなかったのに対して、君江さんの肌は、触れた指や手のひらにそのまま吸い付いてくるような柔らかさを感じた。
 さらに私は、上向きにつんと立ち上がった君江さんの乳房を口に含んだ。彼女は「・・・」と声にならない吐息を上げたが、さらに促すように私の頭を指でかきむしった。
 そのまま彼女の秘部に手をのばすと、そこはぬるぬるとした液体におおわれており、少し指を差し入れると、きゅっと入口が反応する様子を確かめることができた。私はたまらず体勢を変え、彼女の襦袢をめくり上げて、白くのびた両脚と、その間にある秘部をあらわにした。そこに自身の怒張したものを押し当てると、彼女の方も自分から腰を浮かし、そのままそれは彼女の中に入っていった。
 それから後のことは無我夢中で記憶もあいまいになった。ただ、絶頂に達しようとして「君江さん、もういきそうです・・・」と言った時に、彼女が言った言葉だけが私の記憶に残っている。
「そのまま来て。そうしたら私があなたをもう一度、産んであげる」

 気が付くと私はソファーの上で横になった状態で目を覚ました。身体の上にはタオルケットがかけられていた。脱ぎ捨てたはずのズボンとトランクスは、ソファーのかたわらに丁寧に畳まれて置かれていた。起き上がり、周囲を見回しても君江さんの姿は見当たらなかった。
 そしてふと腕時計を見ると、すでに時刻は午後四時半を指していた。南国の大島の日の入り時刻は遅い。外はまだ太陽が高い位置にあったが、帰りのバスの発車時刻は午後五時だったのでもうあまり間がない。私はあわてて身づくろいをし、君江さんがいないので仕方なく玄関の戸を閉め、屋敷を後にし、バス停に早足で向かった。
 ところがバス停に着くと様子がおかしい。集まっている人に訊くと、古仁屋に向かう道が先ほど起こった土砂崩れのために通行止めとなり、今日の便は運休だという。しばらくすると区長の泉義一さんがやってきて、状況を一通り説明した後、私のもとにやってきて言った。
「そういう訳で、今日のうちに古仁屋に戻るのは難しいようです。明日の朝には道路の通行も復旧するようですので、すみませんが今夜は蔭洲升にお泊りになった方が良いと思います」
 そうして区長さんは、ミャーのすぐ近くにある旅館を紹介してくれた。素泊まりで一泊3,000円で良いとのことなので、その言葉に甘えて泊まらせてもらうこととなった。古仁屋のホテルには今日は帰れないので滞在を一泊のばしてもらうように電話をかけておいた。旅館は木造二階建ての、古い学生アパートのような作りで、部屋は六畳の座敷一間で布団は自分で押し入れから出して敷くようにとのことであった。トイレ、洗面所、風呂は共用であったが、ひとまず風呂の前に夕食をとることにし、荷物をいったん部屋に置いてから、昼食を食べた食堂に向かった。
 食堂には、あいかわらず無口で無表情な店主の老人と、一人で瓶ビールを飲みながら刺身をつまんでいる中年の客が一人だけいた。私は少し離れたテーブルに座り、メニューを見た。昼食は軽いもので済ませたので、今回は日替わりの魚の煮付け定食を注文した。
 しばらくして出てきたのは、ハタの煮付けに白米とお味噌汁、さらに島豆腐、海ぶどう、もずくの酢のものの付け合わせであった。ハタの煮付けは甘く味付けされており、ハタのやわらかいゼラチン質の皮の部分と、あっさりとした白身に味が絡んで美味であった。なかなかの量であったが、ゆっくり時間をかけて残さずに食べ終わった。その間、新しい客は一人も入ってこなかった。
 会計を済ませて食堂を出て東の空を見ると、集落の裏山であるカミヤマの上に満月が輝いていた。その月明りが、街灯が少ないこの集落も明るく照らしていた。そこでふと君江さんのことが気になり、もう一度彼女の屋敷を訪ねることとした。しかし屋敷には灯りがともっておらず、インターフォンを押しても返事がなかったので、出かけたままのようであった。私は少し寂しい気持ちになったが、そもそも今日の午後の出来事が白昼夢のようにも思えてきた。
 屋敷は高台にあるので、集落の様子、そして海岸から海にかけての景色が一望できた。そしてふと気になって立神岩の方向に目をやると、海岸の北側の、岩礁が平坦になっている場所に、いくつかの物影が動いているように見えた。そこは中さんや区長さんが「立ち入ってはいけない」と釘をさしていた、陀金様に関連した聖地であるに違いなかった。
 私は好奇心を抑えることができず、海岸沿いの道路まで降りると、海岸沿いの並木に沿って北側に向かい、岩礁の平場が見えるところまで来て、デイゴの木陰から様子を伺った。
 するとやはり岩礁の上には、いくつかの物影が動いているのが見えた。月明りでかすかに照らされたそれは、人影のようにも見えたが、その動きは飛び跳ねるような動きであったり、よろよろ脚を引きずるような動きであったり、踊っているのとはまた違うもので、むしろ人間らしさを感じさせないものであった。
 そして耳を澄ますと、何か歌をうたっているような音が聞こえてきた。
「いあ=る・りえー。くとぅるー、ふたぐん。いあ、いあ・・・」
 それは祝詞でも声明でもお囃子でもなく、聞いたこともないような旋律と調子による音であった。その声も、わざと喉の奥で発声したような、だみ声のようなものであった。
 さらにいくつかの人影が、岩場から海に飛び込み、立神岩の方まで泳いでいく様子も遠目に見ることができた。また反対に、立神岩の方から泳いできた人影が、岩礁によじ登る様子も見えた。
 私は金縛りにあったように身体がこわばったまま、しばらくその様子を見ていた。しかし突然、戦慄を感じ、冷や汗が流れた。私が彼らを見ていることを、彼らのうちのひとりが見ているように感じたのだ。本能的に私は駆け出し、そこを離れて旅館に向かった。
 旅館に戻っても、私は靴を手に持ったまま部屋に入った。そして荷物を取ると、玄関からではなく部屋の窓から出て、そこで靴を履いた。そしてこっそり裏道からそこを離れると、表通りを数人の人影が走っていき、そのうちの何人かが旅館の玄関の方に向かうのが見えたので、私はすぐさま裏通りを音を立てないように急ぎ、その場を離れた。
 やはり、彼らは気付いていたのだ。そして集落の聖地を犯した私を追っているのだ。
 気がつけば、この集落にこれほどの人がいたのかと思うくらい、次々と人影が出てきて、通りを行ったり来たりし始めた。いずれも前かがみに、よろよろした足どりであった。
 私は裏道をたどりながら、集落の南端までたどりついた。ここから海岸沿いの道を南にたどっていけば、やがて古仁屋に帰り着くはずだ。しかしこの道の先は土砂崩れでふさがっているとのことであるし、彼らが車で追ってくる可能性もある。そうしたら万事休すである。そこで私は意を決し、道路を横断して海側に出、そのまま海岸にそって歩いていくこととした。
 そこから先の海岸は、それまでの砂浜が途切れ、岩場となっていたが、ある程度歩いていくことは可能であった。その海岸沿いの岩場に沿って歩いていくと、崖の岩壁にいくつもの横穴が掘られているのを目にした。後からわかったことであるが、これらの横穴は第二次世界大戦中に、日本軍が使用した小型特攻ボート「震洋」の基地であった。
 私はそのうちのひとつに入り、身を潜めた。中には漁師が使ったと思しきロープが山のように積まれていたので、私はその陰に身を隠した。そしてしばらくすると、遠くから足音のような音が聞こえてきた。しかしその足音は、靴が立てる乾いた音ではなく、ぺたぺたと湿った布を板に打ち付けたような音であった。そしてその音は私の潜む横穴に近付いてくるようだった。
 私は息を殺しながら、ロープの隙間から横穴の外を見た。月明りに照らされ、横穴の入口は四角く切り抜かれた窓のように見えた。そして近づいてくる音とともに、物影がそこを横切るのを目にした。その時、月明りのシルエットの中で、かすかに照らされたその姿が一瞬、あらわになった。
 それは前かがみの姿勢で歩く人間の様であったが、その表面はうろこのようなものに覆われ、さらにそれは濡れたように光を反射していた。そしてその頭には毛髪はなく、目が盛り上がって開いたままのようになっていた。口は半ば開けられていて、そこから歯がむき出しになっていた。その姿は、まさに私が図書館の写真集で見て衝撃を受けた「蔭洲升の漁師たち」の写真に写っていた人物の姿を、さらに人間ではない方向にカリカチュアしたものであった。そしてその奇怪な物影は、横穴の中を覗くようにして、その正面を私の方に向けた。
 その瞬間、私は声を上げることもできずに失神した。

 気がつくと私の顔に、差し込んだ陽の光が当たっていて、私は目を覚ました。時計を見ると昼前である。どうやら一晩中、この狭い横穴の中で気を失っていたが、幸いにもあの奇怪なものどもに見つかることはなかったようである。
 横穴を出ると、昨夜のことが悪い夢であったかのように、外には亜熱帯の青空と紺碧に輝く海が広がっていた。私は海沿いの道をたどり、半日ほどかけてなんとか古仁屋の街まで帰り着いた。そしてその日はホテルの部屋に入るとぐったりしてしまった。蔭洲升で起こったことを警察に話すべきか逡巡したが、話したところでとても信じてもらえないだろう。あきらめて床につこうとしたが、夜がふけてもなかなか眠りにつくことができなかった。
 翌日、古仁屋からバスに乗って名瀬を通過し、空港まで戻った。もともとこの日に帰る予定でフライトを予約していたので、昼過ぎの便で東京まで帰った。
 東京の自宅に帰ってからも、蔭洲升での出来事が私の心をずっと引きずっていた。大島での調査資料をまとめる作業もはかどらなかったので、気分転換のために山梨の実家にしばらく戻ることとした。
 祖父母には、卒業論文のテーマに大島を選んだことは伝えたが、余計な心配をさせないために蔭洲升に行ったことは一切口にしなかった。ところが、祖父母が家を留守にしたある時、ふと思い当たって仏壇の引き出しを開けてみた。案の定、そこには亡くなった父の写真が何枚か入れられていたが、ほとんどは祖父母や父の兄弟たちと一緒に写っている写真であった。
 しかしただ一枚、父と母、そしてまだ赤ん坊だった私が写った写真があった。私は母の手に抱かれ、その横に父が寄り添っていた。背景は海岸で、カラープリントの退色が著しかったものの、デイゴの並木と澄んだ海面の様子は、私が見た蔭洲升の光景そのものであった。
 そして私を抱く母の面影は、君江さんと瓜二つであった。

 その後、私は大島の建築と街並みをテーマにした卒業論文を書き上げ、進学した修士課程では五島列島の教会建築に研究対象を移し、修士課程の修了とともに都内の建築設計会社に職を得た。研究と仕事に没頭することで蔭洲升のことを忘れようとしたのである。
 ところが最近になって、同じ夢を繰り返し見るようになった。それは海中を自在に泳ぎ回る夢で、その時の私の両手両足には水かきのようなものがあった。そして私とともに、半分魚のような人間たちが泳ぎ回っているのである。しかし彼らは恐ろしい存在というよりも、むしろ自分の親しい仲間のように感じられるのであった。そして私と魚人間たちは、海の中の岩山にぽっかりと開いた洞窟に入っていく。中には広大な空間が広がっていて、まばゆいばかりの光に照らされており、そこには魚人間たちが暮らす、数多くの円柱が立ち並ぶ都市があるのだ。
 この夢を見始めた頃と前後して、私の身体にも何らかの異変が起こり始めた。以前よりも目が外に張り出してきて、その上にまぶたがかぶさるので、あまりまばたきをしない、目を見開いたような表情へと変化してきた。毎日鏡を見ているとその変化は気が付かないほどではあったが、以前に撮った写真と見比べると明らかに変化が認められた。
 さらに、これまで眠っていた記憶のようなものが、少しずつ意識に上ってくるようになった。それは太古の記憶、人類が地球に現れる以前の歴史に相違なかった。フングルイ、ムグルウナフ。クトゥルー、ル・リェー、ウガフナグル、フタグン。ルルイエの館にて死せるクトゥルフ、夢見るままに待ちいたり。この地球の真の支配者である大いなる存在は、今は海の中で眠っているが、遠くない日に目覚める。そして私にはそれを見届け、それを迎え受ける義務があるのだ。
 私は職場に休職願を申請し、旅の準備を始めた。もちろん向かう先は、私の故郷である蔭洲升である。
 私はバスを降り、数年ぶりに蔭洲升の地に帰ってきた。そしてそこには、大島紬の着物姿に白い日傘をさした、君江さんの姿があった。
「ただいま」
「おかえりなさい」

【注釈】

・ 本作はH・P・ラブクラフト(1890-1937)が1936年に発表した小説『インスマスの影(The Shadow Over Innsmouth)』を下敷きにしているが、一部、1992年にTBSで放送されたドラマ『インスマスを覆う影』(佐野史郎主演・小中千昭脚本)のプロットを取り込んでいる。

・ 大まかな筋書きはラブクラフトの原作に沿っているが、インスマスの描き方はかなり改変している。原作では、ラブクラフト自身の人種的偏見や海洋生物への恐怖心からインスマスを不気味な場所として描いているが、本作では日本を舞台に改変しているため、こうした描写はそぐわないと考えた。さらに場所のモデルを奄美大島に設定したため、美しくてひなびた(そしてやや閉鎖的な)集落の裏面に恐ろしい秘密がある、という描写をとることにした。

・ 蔭洲升の集落は奄美大島の南西の端にあるという設定にしてあるが、集落の景観の描写は、奄美大島の対岸にある加計呂麻島のいくつかの集落のイメージを参照して、それらを組み合わせている。

・ 古仁屋の郷土資料館の学芸員の中さんは、筆者の知り合いの二人の学芸員の方のイメージを組み合わせている。中さんが語るノロ祭祀や奄美のコスモロジーについても、私が彼らから学んだことである。

・ 「ダゴン」は旧約聖書に登場するペリシテ人の神の名である(歴代誌上10章10節など)。クトゥルフ神話においては「父なるダゴンと母なるハイドラ」と並び称される存在であり、「深きものども」の統率者として「大いなるクトゥルフ」に仕えている。そのため旧支配者をはじめとする神ではないものの、それに匹敵するほどの力を持った存在であるともいわれている。

・ 「私」は公衆電話で区長さんに連絡をしていることから、本作の時代設定は携帯電話が普及する前の1990年代頃としている。

・ 「私」が母の実家を訪れた時、誰かに見られていた気になったのは気のせいではなく、実は彼の祖父母が中にいたためである。ただ彼らはすでに「深きものども」の姿にすっかり変化していたため、昼間は家を閉め切り、夜になると外に出て活動しているようである。

・ 謎めいた美女、泉君江の存在は、もちろん原作にはなく、ドラマ版のプロットから借用したものである。なお君江という名は、ドラマ版でその女性を演じた真行寺君枝さんから取ったものである。さらに「私」すなわち南史郎の名も、ドラマ版の主演の佐野史郎さんから取ったものである。ちなみに、ラブクラフト自身は性的なものを嫌ったようで、自身の小説で性的な描写はほとんどしなかった。

・ 君江さんの家で紅茶を飲んだ「私」が急に気分の変調をきたしたのは、君江さんが何か仕込んだのかもしれない。

・ 「私があなたをもう一度、産んであげる」という台詞は、内田春菊さんの作品の中にそういうのがあったのを思い出して借用させていただいた。ただし内田さんの作品の中ではあくまで芝居がかった台詞のひとつ、という使われ方だったように記憶している。

・ 原作では主人公が美味しそうにものを食べるシーンはなかったが、本作では「私」は昼食、夕食ともに蔭洲升の食堂で美味しそうなものを食べている。「油そうめん」は奄美ではまさに日常食で、筆者も集落を訪ねるとあちこちの家でふるまってもらった。ハタは方言でハージンと呼ばれる奄美で一般的な魚で(沖縄ではミーバイ)、いろいろアレンジできるが筆者はやはりシンプルな煮付けを好んでいる。

・ 旧日本海軍の小型特攻ボート「震洋」の基地は奄美大島と加計呂麻島の間の大島海峡に設けられた。作家の島尾敏雄(1917-1986)は第十八震洋特攻隊隊長として加計呂麻島に赴任して終戦を迎え、その体験は小説『魚雷艇学生』に記されている。

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